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ころころと朱莉は素鼠に笑ってみせる。子供の逃避行は、見事な肩透かしで顛末を迎えたのだ。
「結局私は騒ぎを聞きつけた両親に捕まって、ここに売られて来んした。
父の怒りは相当なもので、栄吉さんを蹴り飛ばして『傷モノにしてたらタダじゃおかねえ』『この泥棒野郎』って。栄吉さんには、悪い事をしんした」
これから売る娘を助けようとした少年に対する親の言葉がそれか。
「ぬし様は、本気の恋をした事がありんすか?
その時、お相手様の顔を覗き込んだりは」
素鼠は頭巾の上から頭を掻いた。朱莉は意味ありげな視線を送って、そうして人差し指を宙に差し出す。
「恋をすると瞳が輝く。わっちの恋は、まだ続いてありんす」
朱莉の白い指の上に、蛍が一匹止まった。彼女の指先が青白く、仄かに、明暗を繰り返す。朱莉の目の輝きも瞬いて。
「別れの時、栄吉さんは言ってくれんした。『必ず迎えにいく』と」
そういった話も、遊郭ではよくある。だが現実に迎えが来る事はまずない。遊女の身請け代は庶民に払えるような額ではないのだ。朱莉も「わかっておりんす」と頷いた。
「それでも。あの場限りの約束でも、わっちがこの苦界で頑張ってこられたのは、あの人のおかげでありんす。それがわっちの全て。
あの夜の思い出が、わっちの初恋でありんした。
そして今も栄吉さんに、あの晩の栄吉さんとの思い出に、そして栄吉さんがくれた言葉に――恋をしておりんす」
――恋を、し続けてありんす。
ほ。とため息のような声が、素鼠から漏れた。
恋をし続けている。だから彼女の瞳は今も輝いているのだ。
「だからこそ、朱莉の目を見た者は己の初恋を思い出すのだな。初恋の輝きを宿したその瞳に、誰もがいつかの記憶を呼び起こす」
朱莉の指から蛍が飛んだ。空中で六つの光が、ふわ、ほわ。
「いつか、ぬし様の初恋も聞かせてくれんせん?」
「勘弁してくれ、君にこそ惚れてしまいそうだ」
お上手。と朱莉が返したところで、部屋の襖が叩かれた。素鼠が部屋の外を覗いて、そうして二言三言交わしてから朱莉の元に戻ってくる。
「すまんが急用だ。俺はもう行くが、君は俺が買った事になっている。
見送りはしなくていいから、今晩は蛍と一緒に思い出にでも浸って、ゆっくりしてくれ」
「どうして、いつもそんなによくしてくれなんし?」
「なに、俺も君の目に魅入られた一人だ。」
素鼠はそう言ってから、
「お松」
と、長く呼ばれる事がなかった、朱莉の本当の名前を口にした。
…まさか、と朱莉の唇が戦慄く。
「君の目は本当に美しい」
「栄吉さん?」
「残念、外れ」
しいっと人差し指を口元にあて、もう片方の手を頭巾にかけた。
「俺が誰か一人を贔屓にすると、色々面倒でな」
口元の布が外されて、そうして晒された素鼠の素顔に――朱莉は深々と頭を下げた。
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