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朱莉の部屋を出てすぐ、素鼠は呼びに来た男と一緒に隣の部屋へと滑り込んだ。部屋の中には屈強な男が二人、その間に項垂れたみすぼらしい小男が一人。小男の前に佇んで、素鼠は圧を込めて言葉を発する。
「あの女は、お前を覚えていたぞ。お前が贈った蛍に涙まで流した」
ずび。と項垂れた小男から鼻をすする音がした。
「今の今までこの苦界で生き残り、そして今も恋をし続けていると。
――なあ、栄吉」
小男の顔がゆっくりと上がり、その顔を滂沱の涙が溢れた。口元を抑えているのは、声を漏らして隣の朱莉に悟られるのを防ぐためだろう。
「悪いがお前を気遣ってやる事はできねぇ。つい先ほどもまた小火騒ぎが起こった。だがまだ様子見だろう。
近いうちにどかんと大火事やらかすつもりなのはわかってんだ。
――栄吉、てめぇらの頭はどこにいやがる」
最近吉原では小火騒ぎが続いている。そうして火付けの喜一が江戸入りしたという噂があるのだ。この喜一、火事場泥棒を習いにする男で、手下と一緒に町に火を放ち、その混乱に乗じて派手な盗みをやる。
喜一が吉原に目をつけている事は、少し前からわかっていた。素鼠が張っていた網に、この栄吉が引っ掛かったのもその頃だ。
足の速さと身軽さが自慢で、火付け役にはうってつけの男である。
「殴ろうが抉ろうが炙ろうが口の割らなかったてめぇだ、喜一は裏切り者を許さねえ事もでも有名だからな。
だがな、かつて確かにお前も恋したあの女を、お前は犠牲にできるか?
火が出れば被害にあうのは女達だ。ただでさえ、あの重い衣装じゃ逃げづらい。
たとえ生き残られても、仕事を失い、住む場所を失った遊女に先はねえ」
栄吉の唇が戦慄く。きつく目を閉じて――そしてついにとある町の名を口にした。
素鼠は頷く。頭巾と羽織を脱ぎ捨て、代わりの羽織を脇の男から受け取る。襟の黒地に白で染め抜かれた文字は『吉原会所』。頭巾で乱れた髪を手櫛で整えてやれば、通りを行く娘達が振り返らずにはいられない伊達男ができあがる。
そうなれば、ここにいるのは素鼠ではない。
この地の治安を守る吉原会所の吉原衆。その頭取、『白鷺の世次郎』である。
世次郎は周りの男達に素早く指示を飛ばし、うずくまったままの栄吉の後ろ襟をひっつかんで顔を起こさせた。
「本来ならお前も連中の一味として見せしめだ。だが、ここで男を見せる気はねえか?
お前なら連中の逃げ込みそうな場所も、抜け道も、知ってんだろ」
栄吉が、口を呆けさせて世次郎を見上げる。手伝え、と世次郎は言っているのだ。
「恋した女を守ってみせろ」
栄吉の身の上は調べてある。彼は朱莉が売られた直後に家を飛び出して、そうして左官に弟子入りし、しかしそこで兄弟子との諍いを起こして出奔している。あとは見事な転落人生。
左官は実入りのいい仕事だ。きっと最初は純粋に、朱莉との約束を果たすつりだったのだろう。
栄吉が、隣の部屋の方を見る。そうして、重く頷いた。
世次郎は栄吉の肩を力いっぱいはたいてから、外へと促す。
菱屋の表ではすでに男衆がかちこみの準備を整えて、世次郎の号令を待っていた。
喜一の塒は吉原の外だ。吉原会所の管轄外であり、騒動を起こせば奉行所も黙ってはいまいが。――関係ねぇ!
「さぁ野郎ども、喧嘩だ、喧嘩だ、大喧嘩だっ
付け火泥棒なんぞの畜生に、誰に喧嘩売ってんのかわからせてやんな!」
吉原衆の掲げた提灯がゆらりと揺れて、夜の町へと一気に駆けだしていく。
俯瞰すれば、真っ黒な町を丸い光が走り抜けるのが見えただろう。
それはさながら、蛍火のごとく――。
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