後編

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後編

 それからしばらくは、それぞれ近くに座った者どうしで言葉を交わしていた。  今年起こった火事で、日ごろから羽振りのよい材木商たちは、さらに左団扇だということを耳にした。たしかに材木商は常に笑顔だ。懐に余裕があるためだろうか。鷹揚に構え、ゆっくりと盃を煽る。材木商たちが出入りする料理屋に、よい品を見せに行くのは一つの手だろう。試みに使ってもらえるよう、わずかばかり包んでいくのもよいかもしれない。紀一郎は考えた。  四隅の行灯の薄い光で、白い襖にはぼんやりした影が動く。  盆に小鉢を乗せてきた義嗣の妻は、伊織の横で目を赤くし背中を丸める夫を見てわずかに唇を曲げた。  妻に情けない風体をさらす義嗣を紀一郎はもちろん腹の中で笑った。義嗣は体も大きければ顔も四角くいかつい。しかしこれでは、小柄な年上の妻によけいに頭があがらないだろう。義嗣の妻は、紀一郎と同じ年と聞いていたが、(あるじ)が留守がちの店を守ることが多いからか、芯が一本通ったような顔をしている。幼なじみに背を撫でられながら、鼻をすする義嗣より、よほどしゃんとして見えた。  女たちは追加の料理と酒を座敷へと運ぶと、あとはお好きにとでもいうように、姿を見せなくなった。女たちは女たちで、(くりや)のそばの一間で夜通し楽しむのだ。 「いっちゃん、ごめん……いっちゃんが息を吹き返してからしばらくは、わたしはいっちゃんが怖かった」 「おや、まあ」  伊織は箸を置いて、義嗣を見た。 「なんだか、別の人になったような気がして。じぶんの勝手な思い込みでしかないのに。わたしのことなんか、知らないって言われそうで」 「そんなむかしのことを気に病んでいたのですか。誰だって溺れて動かなくなった人を見るのは怖いですよ。ことに幼いころなら尚さら。なのに変わらず、わたしへ声をかけてくれる。よっちゃん、ありがとう」  義嗣の目をのぞくように、伊織は首を傾けて義嗣の左手に右手を重ねた。 「いっ、いっちゃん、おれが必ず痺れを取る薬を見つけて来るから」  紀一郎は目の前で繰り広げられる光景に、白々しい心持ちがしていた。  年上の老人たちは、義嗣と伊織のやり取りを気にしている風はない。 「まことに泣き上戸だな、薬屋は。泣き虫につける薬はないのか?」  履き物屋が軽く茶化すが、むしろ二人に向ける眼差しは、みな柔らかい。紀一郎ひとりをのぞいて。  酒が進み、小鉢の肴がなくなるころ、誰かがあくびをしはじめた。あくびはうつるのか、あちらこちらで大きく口を開けては、気の抜けた小さな声をあげる。  今夜は寝ずに過ごすはずなのに。寝ずにいるという強い意思は今一つ感じられない。まとめ役の井上まであくびをかみ殺している。履物屋はすでに船を漕ぎ始めている。  紀一郎は襟をととのえ、背筋を伸ばした。少しでも目が覚めるようにと。  もし眠気に形があったなら、それは霧のようなものだろうか。いま、座敷の中へは眠気の霧が襖の隙間から忍び込んできているようだ。  酒を過ごさぬようにと気を付け、じっさい飲むことよりは食べてばかりいたが。ぎゃくに腹がくちくなりすぎたか。紀一郎は箸を置いて目をこすった。  隣どうしのやりとりが検討違いのになっていく。当人たちは気づかないのか、やがて受け答え自体が間遠(まどお)になっていく。からん、と誰がが落とした箸の音がやけに遠くに感じられる。  いつしか話し声は五月雨のようにぽつりぽつりとなっていく。廊下から鈴虫の鳴き声がきこえるばかりになった。紀一郎も、まぶたが重くなっていくことに抗えなくなってきていた。  眠りたくない。今夜だけは寝てはならない。紀一郎はあくびをかみ殺し、頭(かぶり)をふった。耐えがたい眠りの渦に引き込まれそうになる。ぐらっと体がかしいで、心の臓が口から飛び出るかと思うほど驚くのに、すぐにまた体は力を失って舟をこぐ。  ついさっきまで聞こえていた、伊織と義嗣の声も聞こえなくなった。    静かだ。あの晩のように。紀一郎は夜霧の中を歩いていた。そこであの女に出くわしたのだ。手ぬぐいで顔を半分隠してはいたが、紅を塗られた朱い唇が誘うように濡れていた。  ひたひたと女は紀一郎に忍び寄ってきた。  ――旦那さま、ちいっと遊んでいきやせんか。何やら不機嫌なお顔をされていますね。あたしで、うさ晴らしなんていかがです?  女の手が、紀一郎の背中にあてられた。  さあさ、こちらへ。  女の白粉の匂い、衣ずれの音。  誰かがささやく声がする。  紀一郎は夢と現のはざまにいた。  何かえたいのしれないものが部屋の中で動いている。布が畳を擦る、しゅっという微かな音を紀一郎の耳は拾った。  目を覚ませ、目を覚ませと己を叱咤し、紀一郎は眠気から脱した。うつむいたまま薄く目を開け、ゆっくりと顔を上げた紀一郎の視界にほっそりとした影が見えた。  影はゆらゆらと、座敷の中を動いている。そして膳の前で眠っている者たち一人一人の肩に手を乗せる。  すると、二寸ほどの煙が肩に手を置かれた者の口からするりと吐き出される。肩に手を置くものは、煙と二言三言話すのか、かさかさと声がする。やがて煙は天井へと昇っては消えてゆく。  まさか、三尸(さんし)の虫か。眠った体から、三尸(さんし)の虫が抜け出して、天帝へ悪事を知らせに行ったのか。  自分はまだ夢を見ているのだろうか、しかし紀一郎の背中を冷たい汗が流れる。もしや自分の三尸の虫も、天帝のもとへとすでに行ってしまったのではないか。暑くもないのに、額や脇の下が汗ばむ。  影は紀一郎の横へとやって来た。紀一郎は寝たふりをしていたが、ふいにすぐそばで白檀の香りがした。 「紅屋、何をしている……!」  紀一郎へ伸ばした手をぴたりと止めて、伊織が微かに笑った。 「お先に上がらせていただこうと、皆さまへお声を掛けさせていただいておりました」  それでは、と伊織は紀一郎へ頭を下げた。そこで初めて紀一郎は、小鳥の声を聞いた。まだ明るさは感じられないが、明け六間近なのか。 「義嗣さん、わたしは帰りますからね」  襖のところで振り返り、伊織はすでに畳へ寝転がっている義嗣へと声をかけた。  義嗣は寝ぼけながらも、手を胸のあたりでひらひらさせて返事をよこす。伊織は、それを見届けると、するりと襖のあいだを抜けて行った。  紀一郎はしばし呆然とした。  さっきの出来事は、自分の見た夢だろうか。  と、紀一郎と寝入っている皆の体が、一斉に震えた。紀一郎は体の内側を冷たい手で撫でられたように感じ、思わず口を押さえて悲鳴をこらえた。  今のは、なんだ。  もしや、体から抜けていた三尸の虫が戻ってきたのか。履き物屋と材木屋が、かすかに呻いた。  奴は、紅屋は何かをしたのだ。紀一郎はふらりと立ち上がり、足早に座敷を後にした。奇妙に寝静まる薬屋から出ると、通りの先を杖をついてゆっくりと歩く伊織を見つけた。  紀一郎は着物が着崩れるのも構わず伊織の背を追った。飛ぶような速さで伊織に追いついた紀一郎は、その細い肩に手をかけ、強引に振り向かせた。 「どうかされました」  伊織は驚きもせず、静かに紀一郎を見つめた。夜明け前の薄暮の中でさえ、伊織の顔は白く浮き上がって見えた。 「……おまえは、何をした。講の連中に、おれに!」  さあて、と伊織は唇の両端をわずかに上げて、首を傾げる。紀一郎の体の中で火花が散った。伊織の肩を掴む手に、ぎりりと力が入る。伊織が小さく呻いた。 「な、なにも」  紀一郎が手荒く体を揺さぶると、伊織は眉を寄せ唇をゆがめて抗おうとした。伊織の体の薄さや指に感じる細い骨に、紀一郎は混乱し始めた。 「なにも、()()()()()」  あっと叫んだのは、紀一郎か伊織か。伊織は知っているのだ。紀一郎がしたことを。  紀一郎は伊織の口をふさぎ、引きずるようにして川原へと体を向けた。両国川にかかる橋の下で紀一郎は伊織を力づくで押し倒した。  伊織の華奢な体と怯え切った眼差しに、紀一郎の息は荒くなった。  白く長い首に、己の指を食い込ませたい。もがき苦しむさまを眼前でつぶさに見たい。  あの夜鷹のときのように。  激しく胸を上下させ、紀一郎は伊織に襲いかかった。 「ああっ」  伊織の悲鳴は、川の音にかき消された。紀一郎は目を見開き、伊織の首を締めあげた。喉仏を感じられない首と柔らかくきめの細かい肌に、紀一郎は伊織を女と錯覚しそうになる。体中を激しく血がめぐり、滾るものが全身を焦がしそうだ。  伊織の命は、いま自分の手の中にあるのだ。生かすも殺すも紀一郎しだい。紀一郎の胸は愉悦に満たされる。  伊織は紀一郎の腕に爪を立て、必死に抗う。しかし、力で紀一郎にかなうはずがない。白い肌を紅潮させ、陸にあげられた魚のように何度も口を開け閉めする伊織の体から、いつしか力が抜けた。紀一郎の額から汗が流れ落ちる。手を離すと、川原に倒れた伊織の口から一筋の血が流れた。  浅い息を繰り返しながら、紀一郎は伊織の亡骸を見下ろした。  紀一郎の手は、伊織の息を握りつぶした快感に震えた。  いつの間にか、川面から霧が沸き立ち、紀一郎の腰のあたりまで白くけぶっていた。  日が昇るまえに、伊織を片付けなければ。懐と袂に石を入れ、川へ捨てればいい。そうすれば、身投げだと思われるだろう。  紀一郎は、伊織のそばに膝をつき、懐を弛めようとした。伊織は激しく暴れたせいか裾と袖が乱れ、蝋のように白い手足がむき出しになっていた。 「これは」  紀一郎は思わず袂から手を離した。  伊織の膝下から足首にかけて、黒い痣があった。まるで、太い蔦か縄が巻きついたように。  腕には同じく肘に赤紫の痣が巻きつき、手首に向かって色は薄くなっている。そして指の型がはっきりと、ついていた。  誰かに手を引かれて歩いていたような……酒席での伊織の言葉を思いだし、紀一郎は思わず痣を凝視した。  わずかに日が昇り始めた。川の波が光り、反対に橋の下の陰は濃くなった。早くしなければ人目につく。  紀一郎は気を取り直して、川原から握りこぶし大の石を拾い、伊織の胸元を開こうとした。  そのとき。  伊織の腕が動いた。いや、動いたのは、痣だった。巻きついた布が剥がれるように、痣は、しゅるりと伊織の腕からほどけたかと思うと、そのまま身体を支え起こした。  紀一郎の指型をつけた喉を晒したまま伊織の身体がゆっくりと持ち上がってくる。紀一郎は伊織を避けて後退りし、石に躓いて転んだ。したたか打ち付けた尻や腰をさすることも忘れ、伊織から目が離せない。 「困りますね」  がくんっと、伊織の首がもとに戻り、紀一郎へ涼しげな眼差しを送った。 「なんども三途の川を渡るわけには、いかぬのですよ。また天帝に叱られました」  伊織の首を、気遣わしげに赤紫の腕が撫でさする。 「さて、お尋ねしましょう。紀一郎さま、罪はご自身で贖いますか」 「な、何を言って……」  伊織が自身の指先で顔にかかった髪を撫でつける。切れ長の妖艶な眼差しと、赤い唇からわずかにのぞく白い歯列。 「よく眠れたでしょう? 三尸(さんし)たちに気づかないほどに」  紫色の手が紀一郎を指さす。紀一郎はとっさに胸のあたりを掴んだ。伊織は、分かっているとでも言うようにうなずく。 「天帝より言付けです。あなたさまに聞いて参れと。自ら番所へ出向くのか、それとも」 「知らないな」  言葉尻がふるえなかっただけ、上出来というしかない。紀一郎は頭の中で割れ鐘が鳴っているように感じた。聞きたくない言葉を遮るように、わんわんと頭の中で鳴り響く。 「犬を殺したことか? 猫を殺したことか? 商いの邪魔をする畜生を退治することは、真っ当なことだ。おれは悪くない」  紀一郎の着ているものが、瞬く間に汗でじっとりと湿る。伊織は首を傾け、上目づかいに紀一郎を見つめている。口元から笑いが消え、ひどく冷たい顔をしている。 「そればかりではないでしょう」 「さ、さそったのは、あいつだ。のべつ幕無しに不貞を重ねる。あいつらこそ、消えればいいんだ。おれのどこに罪がある!」  紀一郎はそう言いながらも、首を絞め上げるときの掌の感触が忘れられないのだ。苦しむ顔も、自分が他人の運命を握っていることも、すべてが忘れられない。犬猫を殺めるときの比ではない喜悦をもたらす。 「わたしでは、物足りませんでしたか」  伊織は首をさすりながら、一時(いっとき)微笑んだに見えた。が、それはすぐ能面のようになった。 「わかりました。では、あなたさまは悪くない、と。天帝にはそのように伝えましょう」  ふう、と深く息をついて伊織は立ち上がった。赤紫の手が伊織の手を取ったが、朝日の中に消えていった。 「……おまえこそ、この世のものではないだろう」 「ねぇ? いちど死んで向こうのものに気に入られたばっかりに、使い走りをさせられますよ」  伊織は喉の奥で笑うと、土手をゆっくりとのぼり木戸の方へと歩み去った。  それから、すぐに紀一郎の妻・みつが番頭と駆け落ちした。出て行くときに、店の有り金をすべて持ち逃げして。  紀一郎の母は、木場で倒れて来た木材に頭を割られて亡くなった。  傾く商いを必死に守ろうとした父は、金策に疲れ切って首をくくった。  短い間に妻に裏切られ、二親を亡くした。数年後時代が明治となるころには、紀一郎はすべてを失った。  あのとき、伊織の問いかけに「番屋へ行く」と答えればよかったのだろうかと思わぬ時はないが。  狭く汚れた一間だけの長屋に暮らし、薄い布団に身を横たえるとき、ひび割れた唇でつぶやくのだ。 「おれは、悪くない」  庚申待ちへは、もう行っていない。
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