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堕天使の先輩
「アズリル先輩、こんな所にいらしたんですかぁ」
翼を背負った少女は朽ちかけた絵を一瞥するなり、アビスより深いため息をついた。天魔庁より堕天使追撃の第一級命令が出たのは三日前。拘束令状の効力が切れる現地時間午前零時を目前にして捜査は完全に行き詰ってしまった。
記録的豪雨が襲った壬生県白銀市。河川の氾濫か一夜明けてようやく水が引き始めた町はずれに新築の一軒家が転がっている。その崩れた屋根からアズリルの痕跡が見つかった。鮮血の様な赤い糸。無神論者や凡人には見えないが恋の病に浮かされた人間なら稀に視認する能力が芽生える、運命の一本だ。
能動天使アズリル・シュフィールは誰もがうらやむ美人で縁故局の腕利きだった。彼女が手掛けた巡りあわせはその一つを挙げるだけでも大勢の地上人を唸らせるだろう。例えば、ノーベル物理賞者で量子重力学者のハミルトン。彼の両親は貧富の格差が激しい地域の出身でアズリルの働きかけがなければ、互いに顔も知らぬまま孤独な生涯を閉じていただろう。
その彼女が赤い糸に溺れた。恋の天使にあるまじき行為だ。縁を結ぶ者は冷静沈着で客観的かつ高度な専門知識に基づいて地上人の公共福祉に資する良縁を導かねばならない。しかし、大方の予想通り赤い糸は天使ですら虜にする。
弾劾裁判所調査官の独自捜査によると、アズリルは人間界に降りて縁組をお膳立てするうちに、よからぬ勢力と接触していたようだ。
赤い糸の有用性に気づき、地上人に存在を知らしめた者がいる。ダイダロスだ。彼がアリアドネに示唆し、テセウスの指に結んだ。そして彼は迷宮から生還を果たした。
それが下界にはびこる赤い糸の逸話だ。民間伝承に納まっているうちはいい。
「アリアドネの生死は不詳だけど、地上人と交配し影響力を遺したのは間違いないわ。その存在を理論物理学的に可視化し、扱う技術の普及を試みる輩がいるの。アズリルが縁故の構造を洗いざらい口外する前に捕縛しなさい」
弾劾裁判長は少女に困難な任務を与えた。
「でも、どうしてあたしが…」
「プエル。自分の指をご覧」
言われるままに掌を広げて、はっと息を呑んだ。あろうことか彼女の薬指の赤い糸が絡まっているではないか。
「ええええ」
「えーじゃありません。アズリルは貴女を共犯に仕立て上げようと企んだ」
「そんな…」
戸惑うプエルに天魔庁は温情を与えた。アズリル捕縛の任務完了まで起訴を4日間猶予する。
そんなこんなで彼女は純白の翼を泥だらけにして嵐の空を駆け巡った。そして、ようやく廃墟にたどり着いたのだ。
しかし、ここで赤い糸は途切れた。むつまじく寄り添う男女。額縁の二人を運命の糸が雁字搦めにしていた。
「これ、先輩ですよね?」
プエルはぎゅっと抱きしめられた女に語り掛けた。当然、返事はない。
それにしてもこの男は誰だろう。
実に羨ま怪しからん。しかし、手掛かりはあるはずだ。絵画に描かれる対象にはいわくがあり、関連情報が作品に記される場合が多い。
たとえば、発注者の氏名や謝辞などだ。プエルはつぶらな瞳を皿のように見開いた。
あった。”亡き妻あずさの思い出に。愛してる”
流れる川面に騙し絵の如く綴られている。
「やられた」
プエルはへなへなと腰をおろした。だらりと足が開き、ドレスの奥まで風が吹き込んでるが、裾を整える気力もない。
「先輩、思い出の中に消えちゃいましたあ」
天使の少女は泣きながら空を仰いだ。
「おばかさん!」
ねぎらいでなく叱責が降って来た。アズリルの伴侶を探せと言うのだ。
「でも、どうやって?」
プエルが途方に暮れるのも無理はない。赤い糸は自分に結ばれている。
「赤い糸を融通する連中が近くにいるはず。彼らは大きな商いの為にこの災害を利用したと思わない?」
アズリルの上司は本人以上にやり手だ。
「安直すぎると思いません? だって、私の指に…」
言い終える間もなく複数の女たちが物陰から飛び出した。あっという間にプエルを縛り上げる。
「貴女たちは―」
「ブレンダ。ここいらのアリアドニを仕切ってる。残念だけどお前の大好きな先輩は死んだよ」
代表格が一歩前に出た。プエルは耳を疑った。天使は死なない。形而上の存在であり生物学的な死骸は残さない。
「わ、私を餌にして天使を釣ろうったって、させないからネッ!」
「そんなことはしない♪」
ブレンダはうってかわった優しい声でプエルの強がりを諫めた。
「何が目的なの? 先輩は本当に死んだの? あの絵の男は誰? あたしは…ッ」
矢継ぎ早にまくしたてるプエル。耐えかねたブレンダに平手打ちされた。
「うっさいわね! 百聞は何とかと言うわ。御覧!」
アリアドニたちが大きなブルーシートを広げた。ツン、と饐えた臭いがする。アンモニアとコリアンダーが混じった土蔵特有の香り。
泥まみれになったアルバム、茶色く染まった書籍、液晶が割れたノートPC、砂だらけのVHSテープ。一目で惨劇の爪痕がわかる。
その中にセピア色したアズリルがいた。集合写真にセーラー服姿の彼女が紛れている。紺色のひざ丈スカートを履いて面接に臨む姿もあった。
「せ、先輩。こんなトコで何やってんですか?」
ブレンダはここぞとばかりに捲し立てた。
プエルたち形而上を生きる天界人にとって、虚構と故事は陸続きだ。容易に出入りできる。なぜなら記憶は風化し、思い出は補正されるから。
それにしてもずいぶん時代を渡り歩いたものだ。ブルマーからむちむちの太ももを晒してレシーブを決めるアズリルもいる。
「あ、アオハル、謳歌してるし」
プエルが半ば呆れているとブレンダが現実に連れ戻した。
「その思い出に出入りする方法を知りたいのさ。アクセスじゃない。交通手段を」
彼女が言うには、天上界は赤い糸を介して数多の人間を操って来た。芸術、医学、工学、産業面で多大な恩恵を与えた反面、戦争や犯罪を導いた。
その功罪を裁きたいわけでも天上界への報復攻撃を企てるつもりもない。
「ただ、赤い糸が欲しいのさ。夢で強力にドーピングされた特別仕様の赤い糸。それでアリアドニの頭になる」
「薔薇色で塗り潰した偽りの結婚生活。そんな茶番を望む夫婦がいるの?」
プエルが怒りに肩を震わせると、ブレンダがそっと手を置いた。
「大勢いるわよ。今も増え続けてる。最愛の伴侶を持ってかれた人がね。残りの生涯を思い出と暮らす。気の毒だとは思わない?」
ブレンダはクルクルと指で糸を手繰った。
「いいえ。記憶をドーピングしても意味ないでしょ?楽しい体験より嫌な出来事が思い出を上書きする。それもまた苦い思い出だけど」
するとブレンダがプエルを揺さぶった。
「アズリルの悪事もかい?」
巧妙な売人としての側面がブルーシートに並べられる。アズリルは時に仲人として、時に不倫相手として打算的にふるまい、被災者の思い出を補正していた。
それが忘れられない記憶を支えていると言うのだ。同時に思い出の畑を耕し、赤い糸を栽培していた。
「おお!そんな!おお!でも、この男性は誰?」
嗚咽しながらもプエルは気になって仕方なかった。
ふっ、とブレンダが笑みを浮かべた。
「男って誰が決めたのさ。顔が見えないのに?それともズボンを履いてりゃ、みな男かい?」
絶句するプエル。アリアドニの笑いが渦巻く。
「でも、待って!ヘン。何かおかしい」
プエルはブレンダの話に大きな矛盾を発見した。天使は時空を超越するという。しかし堕天使追撃令状は期限付きだ。
「変な物か!さっさと吐きなさい。それとも…」
アリアドニがプエルの指を弾いた。かあっと身体が火照った。たちまち頭の中がアズリルで満たされる。
「先輩、正直に言ってください。あの『男性』は私なんでしょう? 私を嫌いになりたくて、こんな『嫌な思い出』を築いた。白銀市の過去を歩き回って穢れようとした。『人間として』いつでも死ぬ事ができるように。墜ちようとした」
後輩は胸中をぶちまけた。同時に弾劾裁判所を恨んだ。アズリルが天使の時空超越力を失いつつある事を知った上で令状を発行したのだ。まだ堕落しきってない今であれば天使として矯正できる。
ブレンダがぶうたれた。
「今ごろ気づいたかい。アズリルは白銀市民の共通意識に城を築いたのさ。天界を裏切って畑を人間に差し出せば堕落完了。捕まれば矯正され、お前の思い出すら忘れるだろう」
プエルは真っ逆さまに蹴り落とされた。そして気づかぬうちに本心をさらけだした。
「嫌ッツ。先輩大好きです! いつまでもずっとそばにいさせてください! だって、あたし、先輩がいないと!」
しかし、誰もプエルの主張を聞き入れなかった。さらにあろうことか追撃令状を持った天使たちが次々に降臨し、アリアドニがプエルを引き渡した。
「先輩、そんなぁ! 先輩!」
プエルが瞼を腫らしていると傍らの天使が囁いた。
「アズリルの遺体が白銀湾で見つかった。死後三日だそうだ。壬生県警が解剖結果を公表した。天魔庁は被疑者死亡のまま起訴するって」
「そんなのって…」
言葉を失うプエルにブレンダが寄り添った。「名前を言ってなかったね。ブレンダ・ハミルトン。あんたの先輩は悩み苦しんで最適解を出したんだ」
「陳腐な慰めなんか要らないわ。天使は女子を愛しちゃいけないの?」
憤るプエルの髪をブレンダがそっと撫でた。
「じき、世の中が変わるさ。下界はもう天使の手に余る。諸悪が蔓延り、薬が天使の翼を授けてくれる時代。あたしらはアリアドネの子孫さ。ダイダロスは全てを伝えなかった。それでもアリアドニは少しでも彼に近づこうとした。その成果がこれ」
プエルは自分の薬指に結ばれたままの糸に何の感慨もわかなかった。
「って、えっ? アズリル先輩の糸ってつながったままなんですけど!」
驚く彼女の胸に想い人が飛び込んできた。
「プエルちゃん!」
暖かくて柔らかい。勝手知ったる腕の中。
「え、ちょ、先輩、死んじゃったんでは?」
「何をバカ言ってるの?貴女らしいわねぇ。天使は死なないのに」
「ちょっと先輩、何言ってるかわかんないです」
「相変わらずバカ。白銀市の人々よりもばか。最愛の伴侶とずっとつながってるのに」
そういうとアズリルはすうっと消えてしまった。
「先輩…」
プエルはドレスの袖でそっと涙をぬぐうと叫んだ。
「いつでもギュッとしてくださいねーー!」
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