果て

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 寒くて死にそうだと君が言うから、僕は君の体を抱き締めて眠った。  「っ、ヒムロ!ダメだ!戻れ!」  飛び出した背中に大声で呼び掛けた。けどもう、間に合わない。  チュンッという音を、聞いた気がした。あちらこちらで爆音の響くぐちゃぐちゃの戦場で、スナイパーライフルの弾一つが風を切る音一つ、聞き取れるはずがない。だから、多分それは空耳で、カツキがその音を聞いたと思った直後にヒムロが倒れたのはきっと、偶然だった。  「っ、誰も出んな!狙われてる!」  ガキばかり9人。それが、カツキの束ねる小隊だった。いや、ヒムロを抜いて8人か。ガキ。ガキは俺もだと、ちらりと思う。いつも思う。無力。あまりにも無力。守りたいと思うのに、全然守れない。数メートル先に倒れた小さな身体に目をやる。顔面から、頭蓋に命中。うつ伏せに倒れたヒムロの顔面は吹っ飛んだはずだ。痛みを感じる暇もなかったことはせめてもの救いかと、無理矢理に納得してみる。後で、迎えに来る。絶対。  「……一旦下がる!」  相手スナイパーは腕が良い。そして多分、甘い。若い父親かもしれないと、カツキは想像する。カツキたちの小隊がこのゾーンに入り込んだ瞬間、牽制の一発を絶妙な位置に打ち込んできた。足を止められて、それでもその時点で引かなかったのは、もう少し先へ行かなければ今日の自分達に課された仕事をこなすことが出来なかったからで、これで戻れば死ぬほど壮絶な折檻が待っていることを全員が知っていたからだ。それでも。それでも、死んじまったらおしまいだ。引くべきだった。判断ミス。俺の判断ミスが、ヒムロを殺した。また一人、仲間が減った。  予想通り。戦場から撤退する動きを見せたカツキらに、銃弾が打ち込まれることはなかった。撃ちたくなかったのは、多分、向こうも同じだった。  「……カツキ……カツキ?」  寝てるの?と、よく知った声が背後から聞こえた。周囲を憚る小声も、静まり返った夜闇の中では良く通った。身体を丸めて横たわって、多分少しだけ、意識が飛んでいた。無遠慮に殴られて熱を持った体に、土の冷たさが心地いい。寝返ろうと体に力を込めてみたが、一つも動かない。  「……おき、て……る……」  なんとか絞り出した声も、醜くしゃがれて、自分でも、よく聞き取れなかった。  「……水と食べるもの、持ってきたから」  そろりと、背後で人の動く気配がして、そっと、髪に触れる手があった。カツキが折檻部屋に入れられると、マキはいつも夜中にこっそりやって来る。動けないカツキの前に回り、暗闇の中で顔を覗き込んでくる。  「ひどい顔」  そう言ってふっと笑うマキは、昔から、ずっと変わらない。スッと切れ長の目は、戦場にあって場違いなほどに知的で美しく、深い藍色をしている。どんなときでも冷静な声音は、声変わりを越えてより心地よさを増した。その声を聞くだけで少し、身体の痛みが引いた気がして、カツキは隠微に笑んだ。薬のようなものだ。マキの存在は、多分。自分にとって。大人たちの指示で長く伸ばしたマキの髪は、今は麻紐で一つに括られており、服も、カツキたちと変わらないボロを着ており、今夜は仕事は無かったのかと、そう思い、思わず、安堵の息をつく。  「ちょっと、冷たいかも。ごめんね」  髪を撫でていたマキの手がすいと離れる。目の前に桶が置かれ、その桶の中に、マキがタオルを浸しているのが、音で分かった。ぱしゃりと跳ねた水が一滴、カツキの頬を濡らした。  「……あいつら、は?」  「……みんな多少は殴られてたみたいだけど。カツキが全員分引き受けるって言ったの、あいつらも一応、守ってたよ」  動けないほど大ケガした子はいなかったと、マキは言い、そうかとカツキは応じた。拭くからねの言葉と同時に、額に冷たいタオルが当てられる。反射的に、びくりと肩が跳ねた。カツキの反応は無視して、マキは慣れた様子で手を動かす。血と泥と吐瀉物で汚れた顔を丁寧に拭うマキの手は、ひどく荒れている。水仕事ばかりさせられているせいだと、カツキは思う。  どちらが良いか、なんて。カツキには分からない。戦場で捨て駒にされる人生と、安全な場所で女のように扱われ、夜には慰みものにされる人生と。ただ、自分がマキの代わりなれと言われたら、それには耐えられないと思う。  「……ヒムロが、死んだ」  「知ってる」  「……俺が殺した」  カツキの首もとを拭いながら、ふうんと、マキは答えた。  「……カツキがそう言うなら、そうなのかな」  僕には分からないけどと、藍色の目がこちらを覗く。海よりも深い藍。底の見えない深淵。この目に見つめられると、心が凪ぐ。起きられそうかと問われたが、首を降ることも出来ない始末で、結局、マキの手で頭を抱えられ、堅い膝枕に頭を預ける格好になった。  「……5人目かな」  桶に手を差し入れ、両手で水を掬い上げながら、マキが言う。  「カイ、ホタカ、レイ、ナツ、とヒムロ」  心地よい声が歌うように5人の名前を呼んだ。カイ、ホタカ、レイ、ナツ、ヒムロ。全員ガキだった。初めて、カツキとマキがここに来たときと同じ。小さな子供だった。俺の指示で、死んだ。  「口開けて」  マキに言われるがまま口を開くと、満足げに笑ったマキが両手で掬った水を口に含むのが見えた。膝枕のマキが、覆い被さるように身体を折る。唇は触れない位置で動きを止めたマキは、少しずつ、口に含んだ液体をカツキの中に落としていく。少し温くなった水が、口内に満ちる。切れた頬の痛みが鮮明さを増す。それでも、カツキは口を閉じなかった。見開いた藍色が、三日月型に歪む。全ての液体を落としきったマキの口から漏れた吐息が、カツキの肌に触れる。  「……もっと?」  見下ろすマキが小声で問う。  もっとと、カツキは答えた。  注がれる水に舌を伸ばす。目元で笑んだマキが、更に身体を折り曲げる。舌先が、柔らかな唇に触れる。  俺のせいで人が死ぬ。辞めたい。逃げたい。死んでしまいたい。誰かを殺すくらいなら、死んでしまいたい。  絡み合わせたマキの舌が、多分わざと、口内の傷に触れる。その度に、身体が震える。痛い。生きているから痛い。こんなにも痛い。唇と舌を何度も触れ合わせる。恐怖から逃れるために。一人ではないと知るために。凍ったように動かなかった腕が、逃げるマキを止めるために動き出す。一瞬離れた唇が不安で、マキの頭に両手を回し、引き寄せる。離れないで。いなくならないで。ここにいて。目尻の傷がずきりと疼き、カツキは頬を伝う涙に気づく。  息が上がるまで口づけ合って。起きあがったマキは、目元を赤く染めて、震える声で言った。  「……他の誰が死んでも平気だけど……カツキが死んだら僕も死ぬ」  息ができなくて死ぬよと、そう言った。  ー……おれたち、どうなるの?  小さな身体を震わせて、カツキが言った。どうなるんだろう。僕にも分からない。昨日の爆撃で、村の大人たちは死んだ。逃げていった人たちもいたようだが、その後どうなったかは分からない。多少形の残っていた家に忍び込んだら、玄関に、誰かの腕が落ちていた。焦げ臭さと、血の臭い。吐き気がする。夜闇に紛れてかき集めた布団を何重にも被って。  ー……僕がいるから、大丈夫  根拠のない約束を口にする。自分よりも少しだけ小さい彼を、守らねばならないと、そう思う。何がなんでも、守らねばならない。  ー……マキは……いなくならない?  抱き締めた小さな身体が身動いだ。振り返ったカツキは、不安げにこちらを見ていた。  ー……マキは、おれを置いていかない?  あの日、あの時。誓ったのだ。この子を一人になんてしない。絶対に。一生。  「……ああ……マキ、上手だ」  肩まで届く長い髪を無遠慮に引っ張りながら、男が言う。  息を止める。これは、僕ではない。僕ではない生き物。  風呂にもろくに入らない男の一物を口に含み、舌と唾液を絡めて擦り上げる。土と埃の臭いに混じって、男の先走りの臭いが口内を犯す。今日も、とマキは考える。今日も、カツキはちゃんと帰ってきた。大きな怪我もなく。隊の子供は、また一人死んだらしい。羨ましいなと、少し思う。カツキに見守られて死ねるなんて、羨ましい。  「……っ、出るぞっ!溢さず飲めよっ!」  がっと頭を捕まれる。固くいきり立った性器を喉奥に突き込まれてマキはえづいたが、吐きはしなかった。喉の力を抜いて、飲み込むイメージで。どろりと、ねばつく液体が流し込まれる。味を感じない分、この方がマシだと思う。舐めろと命じられるまま、しぼんだ性器に残った精液を丁寧に舐めとり、口を離す。いいこだと、伸ばされた手に頬をすり寄せる。こうする方が、可愛がられる。可愛がられていれば、余分に食べ物をくれることもある。タオルも、包帯も、湯も。うまく立ち回れば、手に入る。  男の手のひらにキスをして、お休みなさいと告げると、また明日と額にキスを落とされる。ヘドが出る。おぞましいやり取り。  部屋に戻る前に井戸に寄る。ねばつく口を一度すすいだ後で、組み上げた水を腹一杯になるまで飲む。そうしてどこか適当なところで、水と一緒に精液を吐き出す。  死にたいと思う。毎日、毎分、毎秒。消えてなくなってしまいたい。それでも、生きなければならない、理由がある。  カツキより先には死なない。カツキを、死なせない。  カツキは優しいから。君がいないと生きられないと、何度も何度も刷り込んで。僕のために死ねないカツキを、守るために僕は生きる。  君がいないと生きられないとお前が言うから、俺は屍を越えて行き続ける。
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