あの頃

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 朝霧の中、電車が走る音が近づいてくる。目を凝らすと細長い影がホームへ滑り込んでくるのが見えた。駅の入り口に近づくとこじんまりとした待合室があり、更に奥の改札の向こうで電車のドアが一斉に開くのが見えた。プシュウ、という空気が抜けるような音が響き、しかし誰かが降りてきた足音は聞こえなかった。さとるは自分の家の近くにある駅を思い浮かべ、改札を通過して駅の外へと歩いて行く人たちの背中を想像した。上着を腕に掛けてワイシャツを着た男の人、母親と手をつなぐ子供、ラケットバッグを背負い、おそろいのジャージを着ている中学生や高校生の集団。今はまだ早朝だし、ここは田舎だから人の行き来も少ないのだろう。入り口から目を離し再び走り出した。  その時、かつん、と足音が聞こえて立ち止まった。思わず振り返ると、女の人が駅から出てくるところだった。女の人は誰かを探すように左右に首を巡らせて、こちらに目を留めた。 影になっている女の人の表情は分からないのに、口元が微笑んだ気がした。  かかとの高い靴の爪先をこちらに向け、歩いてくる。  ひんやりとした風が薄暗がりに浮かび上がる薄い水色と白の縞模様のワンピースをはためかせた。ほんの数歩先の距離まで近づいて、かつっと音を立てて立ち止まった。朝日に照らされながら目が合った瞬間、どうしようもなく悲しいような、嬉しいような感情が湧き上がり、ただ両腕を前へ伸ばした。 「まさる」  その唇がそれ以上何かを言う前に、腕の中に閉じ込めていた。肩口に顔を埋めると彼女の髪がふわりと鼻先をくすぐった。こちらの突然の行動に驚いたのか、彼女は固まっている。 「おかえり。さわ」  声をかけると彼女は手に持っていた荷物を手放して、 「ただいま」  ゆっくりと背中に手を回した。  家までの道を二人でゆっくりと歩いていくと、ふいに透明な泡がいくつも現れ、風に乗って横切っていった。 「わ、」  さわは小さく歓声を上げた。  小さな虹を閉じ込めるしゃぼん玉が無数に空を舞い、弾けて消える。子供の笑い声が聞こえた。 「遠かったろう」  肩に担いだ荷物の重みは旅路の重みそのものであり、今日まで彼女が進んできた道、東京で担ってきた仕事、あちらでできたであろう友人のことなどを思うと訊ねずにはいられなかった。 「うん。お腹がすいちゃった」  彼女は全て手放してここまで来たのだ。ここでもやりたい仕事はできるから、と。 「何がいい。といっても素麺くらいしかないが」 「でしょうね」  さわはおかしそうに笑った。 「トマトと卵はあるかしら」  こちらを覗き込む瞳は明るく、こちらの考えを見透かされているのではと錯覚する。日光が背中を灼き、汗が流れる。 「確か、あったはずだ」 「なら上出来です」  家に到着すると、二人で台所に立った。まさるは鍋に湯を沸かす。さわはトマトを洗って食べやすい大きさに切り、ボウルに注いだめんつゆに漬ける。それから卵を割り入れ、解きほぐしながらまさるに話しかけた。 「薄焼き卵は作れる?」 「前に教わった」 「じゃ、お願いね。細切りにするから破けちゃっても大丈夫」  ちりん、と軒先の風鈴が揺れた。
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