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正蔵は一日の終わりを告げる夕日の光に身支度を整え、日課になった近所の散歩に家を出た。歩き慣れた細い道を通り、いつも渡る橋まで来る頃には空はすでに青みがかかっている。正蔵は丸まった背中をさらに丸めて、ゆっくり橋を渡り出した。すると、半ばまで来たところで突然、背後から声をかけられ、振り返った。
正蔵が後ろを見ると、そこに立っていたのは見知らぬ男性だった。身軽にもシャツ一枚で、顔には若々しい笑みを浮かべている。正蔵は二十代半ばだろうと予想した。
「これ、今。落とされましたよ」
男性は手に持っていた黒い万年筆を正蔵に差し出した。
それは間違いなく正蔵がいつも肌身離さず持ち歩いている万年筆だった。
「ありがとう」
「いいえ、大事なものだと思ったもので。すぐに気づけてよかったです」
正蔵が万年筆を受け取ると、男性は屈託ない笑みを作った。
大事な物。万年筆は確かに大事な物だった。しかし、正蔵は自分が考える大事と男性が口にした大事が同じものには思えず、口元を緩めることができなかった。男性は軽い会釈をして、正蔵を追い越し、橋の向こうへ歩いていく。正蔵はその離れていく背中を見つめ、男性の笑みの眩しさを思い出しながら、万年筆をジャケットの内ポケットに入れた。
正蔵は人生の半分以上を弁護士として過ごしてきた。
来年、古希になる正蔵はもう先が長くないことを察している。生まれ育った故郷はまだ自然の残る田舎だったが、四十年前にはなかった建物が建ち並んでいるのを見ると、まるで自分の住むべき世界はもう終わったのだと感じて、胸が痛かった。自動車を運転しながら目に入るように設置された大きな看板。昔は錆があっても気にしないものだったが、今では少々汚れているだけで見向きもされない。橋の上から遠くに見える大きなショッピングモール。近所に住む人たちは頻繁に足を運び、実際に赴くことのできない遠くの場所で流行している品物を手に入れようと焦っている。
時代は変わった。けれど、人の生き方はそう変われない。
正蔵がとぼとぼ歩いて、帰宅すると、どこかで監視されていたのではないかと疑うほど、履物を脱いだちょうどのところで、居間にある黒電話が鳴った。煩わしく鳴り続けるベルの音は正蔵が電話に出るまでやむ気配がない。正蔵は急かされるでもなく、ゆっくり居間に入り、受話器を耳にあてた。聞こえてきたのは定治の声だった。
「もしもし。父さん、今、散歩から戻ってきたところかい?」
「何だい、一体」
「先週の話だけど。いい加減、一緒に住もうよ? その方が絶対にいいって」
「この家を離れる気はない」
「そんなこと言わないでさ。母さんだってそうした方がいいって言うよ?」
「やかましい! お前に何が分かる!」
正蔵は受話器を置いて、電話を切った。
弁護士になるよりも前に、正蔵は妻をもらった。近所に住んでいた昌枝という女性だった。昌枝は人前で感情を表に出さない愛想のない人だったが、正蔵の前でだけはよく笑った。それも辺りに知らしめるように豪快に笑うのではなく、堪え切れなくなった声を小さく漏らして、くすくすと笑った。
「なんだ? 何が可笑しい?」
籍を入れてまもなく正蔵はそう尋ねたことがある。
すると、昌枝は薄い唇に手を添えるのをやめた。
「ごめんなさい。ただ、なんだか可笑しかったんです」
「分からないのに笑うのかい?」
「そうですね。私、分からないのに笑ってしまうんです。気をつけます」
その時、正蔵はなんとおかしな女を妻にもらってしまったものかと思った。
しかし、昌枝は家事をそつなくこなし、仕事先から帰ってくる正蔵を毎日玄関先で迎えた。その際は決まって柔らかな笑みを浮かべていた。なので、ある日、正蔵はとうとう我慢ならず、帰宅するや持っていた鞄を投げつけて、昌枝を怒鳴った。
「どうしていつもそう笑っている!? 気味が悪いからやめたまえ!」
「ごめんなさい。でも、これはあなたがあまりに優しい人だから。仕方ないのです」
「私は何も優しいことなどしていない!」
「いいえ、あなたは優しい人です。どうしてって。ここらで一番頭がいいにもかかわらず、妻になった私にそのことを示しもしない。それどころかいつも平等を心がけてくれるし、仕事の愚痴も何も言わない。それが私には優しいことに思えるのです」
正蔵は怒鳴っていた口をつぐんで、投げつけた鞄を拾った。
もう何十年も前のことだった。黒電話の前で正蔵はしばらく昔に浸っていたが、思い出したように台所へ歩き、夕食の支度を始めた。昼間のうちに近場のスーパーで買ってきた弁当を電子レンジで温め、居間のテーブルに運ぶ。正蔵はゆっくり足の短い椅子に腰を落とした。一人分の夕食。妻の分はない。昌枝は三年前に他界した。
昌枝が亡くなったのは病院のベッドの上だった。
正蔵は以来、病院もベッドも嫌いになった。
そして、これまで口にしてきた食事がとても恋しくなった。しかし、それは昌枝が作り続けてきた味だったので、もう一生、口にすることはできない。正蔵は妻のいなくなった現実をそんなところに感じて、その事実を知った夜に独りで泣いた。誰に救いを求めることもできず、ひたすらにむせび泣いた。そうしてふと昌枝の言葉が頭を過った。
「私、分からないのに笑ってしまうんです」
昌枝は病院のベッドの脇に座る正蔵の手を握りながら目を閉じた。
その瞬間、正蔵はあらん限りの涙を流した。もしもその涙に対して、どうして泣いているのかと尋ねる人がいたならば、正蔵には近しい人が亡くなったからだと怒鳴り散らすことができた。ただ、時間が経ってから思い返せば、ベッドの脇で涙を流しながらその理由などおそらく自分は答えられなかっただろう、と正蔵は思った。
理屈ではなく、人はコンピューターではないので、そう効率よく何事も処理はできない。料理のできない正蔵は昌枝がいなくなってから毎日、知らない誰かの作った料理を口にしていた。しかし、それを美味しいと思ったことは一度もない。正蔵は生きるためだけに食料を摂取し、味の感じない食事をもう三年以上、続けている。
昌枝が死んでから、正蔵の生活はだいぶ変わった。一人のために風呂を沸かすのも馬鹿らしいので、二、三日に一回、家の裏にある銭湯で湯に浸かるようになった。夜は話し相手もいないので畳の上に布団を敷いて、そそくさと寝るようになった。また、隣近所に住んでいる人たちが正蔵はいつ亡くなるのかという話をしているのを、たまたま正蔵本人が聞いたこともある。けれど、年齢を考えれば、そう思われるのも仕方のないことなので、諦めて、文句を返すこともしなかった。高齢者が一人で暮らすのは簡単なことではない。定治の誘いを受けてしまえば楽になれることは正蔵にも重々分かっていた。
とはいえ、縁もゆかりもない場所で生涯を終えるのはとても受け入れ難い。
理由はそれだけだった。
「おはよう。今朝は少し肌寒いよ。でも、もうじきしたら暖かくなってくるみたいだから、気長に過ごそうと思う。分かるかい? 来週でもう四年が経つんだ。早いね。本当に早い。一緒にいた時間の方が長いはずなのに、私にとってこの四年はそれより長く感じる。不思議とね。でも、確かに。君といた時間はあっという間だった気がするんだ。近頃、特に身体が言うことを聞かなくなってきたから、そろそろ君と同じところへいけるかな。そうしたら、またご飯を作って欲しい。君の作った味噌汁が飲みたいんだ」
正蔵は仏壇の前で手を合わせて、長いこと、昌枝の笑う写真に話しかけてから、ようやく重たい腰を上げ、台所へ行き、食パンと苺のジャムを居間に持ってきて、むしゃむしゃと食べた。まだ夜も明けない早朝だった。居間の電気が寂しく感じる。
正蔵は無言で食パンを平らげると、服を着替えて、まだ日も昇らない真っ暗な内に、日課になった近所の散歩に家を出た。
日の出前の視界は眼鏡をかけていても、暗くて何がどうなっているのか分からないほどだった。しかし、ゆっくりと転ばないように進み、橋の手前までやってくると、正蔵は昨日落とした万寝筆がポケットの中にあるのを手で確認してから、橋を渡り始めた。
もうじき日が昇る。すると、橋の先でもぞもぞと何かが動く気配を感じて、正蔵は立ちどまる。狸か、猪か。山から下りてきた獣であったら、老いた足では到底逃げられない、と慌てて引き返そうとする。その時、パンッと乾いた音が辺りに響いた。
続いて、人が言い争っている声が聞こえる。そして、橋の向こうから正蔵のいる方へ向かって、一人の男性が歩いてきた。高ぶる感情に任せて、橋を踏みつけるように一歩、一歩、力強い足音を鳴らして近づいてくる。男性は立ち尽くしている正蔵に気がつくと、この早朝に人がいることに驚き、先ほどまでの感情を恥ずかし気に隠して、立ちどまった。
「ああ、昨日の。朝から危ないですよ? 家に帰られた方が」
男性は昨日万年筆を拾ってくれた人らしかった。
次第に辺りが明るくなってくる。正蔵は目を凝らして、男性を見た。すると、男性の顔には眩しい笑みなどなく、誰かに叩かれたような赤い跡が頬にあるだけだった。
「何かあったのかい?」
「いいえ。何も。それよりご自宅に」
「なら、落とし物でもしたかい?」
「してないですよ。いいから、ほら。送りますから」
男性は正蔵に触れようと手を伸ばした。
けれど、正蔵はその手を拒絶して、威圧した。
「年寄りを舐めなさんな」
「な、何ですか」
「追いかけないのかい?」
「あの、何も知らないじゃないですか。ほっといてくださいよ?」
「君はまだ若い。若すぎるくらいだ。今の君にはその若さの意味がまるで分からんだろう? ただ、私はもうすぐ死ぬが、君にはまだ時間がある。追いかけないのは勿体ないと思うがね」
「やめてください。僕にはもう何も言えることがないんです」
「馬鹿者! 人を求めるのに理由などいらんよ! それより、その身体があるだろう? 触れられる手があるだろう? 今、走っていける場所に想う人がいて、動く足があるなら、何ふり構わず追いかけるのが筋じゃないのかね! それができないなら、死んでしまえ」
男性は無言で正蔵から逃げるように、今来た方向へ引き返し、走っていった。
辺りは明るくなりつつあるが、まだ橋の先が見渡せるほどではない。小さくなっていく男性の背中は途中で暗闇に紛れて見えなくなった。正蔵は一人残されて、このまま進むべきか、引き返すべきか、迷った。しかし、どうせ自分の足では男性に追いつくまい、と思い直し、そのまま男性を追って歩くことに決めた。
すると、その時、ショッピングモールとは反対側の山々が並ぶ左手に、お日様が顔を出して、橋の上が明るくなった。視界が途端に良好になる。男性の姿はしばらく離れた先の橋の上にあった。正蔵は目を凝らした。けれど、いくら眼鏡をかけているといえ、老いた視力には限界がある。歩き始めたばかりの足をとめ、必死に目に神経を集中させていると、辺りはさらに明るくなってきて、男性が誰かを抱き締めているように正蔵には見えた。
はっきりと確認できたわけではなかった。
しかし、それだけで、正蔵は素直に渡ってきた方向へと橋を引き返した。
男性が抱き締めている大事と自分が感じている大事はまるで違うものだと、正蔵は思っている。けれど、落とし物を拾ってくれた感謝は返さなければならない。いつか昌枝が選んでくれた万年筆が今もポケットの中にあるのを確認して、正蔵は家に歩いた。
その日も黒電話が鳴り、定治の誘いを断ったが、正蔵の機嫌はよかった。それはいつも拝んでいる眩しい朝日を見たからだけではないと知り、電話を切ってから少し笑った。
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