残照

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 手すりにもたれて真下の水面を眺めていると、川を臨む橋の上にいながら、船の上で波に揺らされているような心地になってくる。頭の奥までも橙色に染められ、ぼうっとする。だめだという声、どうでもいいという声。瞼が重くなってくる。古びた手すりは風と日光に晒されて見た目よりずっと脆く、力を込めればあっという間に突破してしまえそうだった。 「死にたいのか?」  耳元で響いた声に、びくっと身体が跳ねた。微睡んでいた頭の奥が俄に晴れて、身体を起こしてきょろきょろと辺りを見回す。  人はいない。遠く離れたところにカップルらしき二人組が並んで橋から見える景色を眺めているだけだ。いるとすれば、りんご三つ分くらいの距離に、カラスが一羽、手すりに止まっている。カラスは知能が高く、こちらが攻撃をする気配を察知して襲ってくるらしい。何にしても余りにも近すぎたので後ずさった。 「まあそう怖がるなよ」  わたしに向けられた鋭いくちばしが、ゆっくりと川の方を向く。 「どうしてもってんなら止めやしないけどさ、別に急ぐ必要はないんじゃねえのかい」  闇を吸い込んだような目がわたしに話しかけている、としか思えなかった。 「あんたらは俺たちを恐ろしいもんだとか思ってるみたいだけど、俺から言わせればあんたらの方がよっぽど不可解で恐ろしいよ」 「まるで、あたしの心を読んでいるみたいに言うね」 「みたいってか聞こえるんだよ、勝手に」  夕日を反射していた川面は、いつの間にか静かに夜に呑まれようとしていた。 「あたしにはあなたの考えてることなんてわからないのに?不公平じゃない?」 「そんなことないさ」  カラスはそれきり羽をたたみ、目を閉じてしまった。夜が覆い被さろうとする空の向こう、弱々しくなった夕日を受けて黒い羽が艶々と光る。 「なあ、頼むよ、機嫌直してくれって」  不意に、場違いな声が響いた。 「別に、機嫌悪くなんてしてないもん」  後ろを振り向くと、先ほど景色を見ていたカップルが目の前に来ていた。わたしの姿など目に入らないかのように、その二人は絵に描いたようないちゃつきもとい駆け引きを披露する。暗くなっているはずなのに、二人の周りはぼうっと明るく浮き上がって見えた。間違ったピースがはめ込まれてしまったかのように、二人の背に広がる景色は繁華街のようにきらきらしていて、わたしの立っている若干寂れた町とかみ合わない。透明なスクリーンに映し出された映画を見ている気分だった。 「約束したのに守らないそっちが悪い」 「約束は守る、でももう少し時間がほしいんだ」  女の子は肩の辺りで切りそろえた髪が艶々でわたしより背が低くて、白地にストライプの入ったワンピースを着ている。すごくかわいくて、怒った顔も宝石のように魅力的だ。対して、相手の男は女の子にどうにかお許しをもらうべく、あの手この手で気を引こうとする。後ろ手に隠した小さな紙袋は恋人へのプレゼントなのだろう。ばからしくなってその場を去ろうとしたとき、 「今夜、帰ったら必ず君のことを話す。あっちも薄々感づいてるみたいだからそんなに手こずらないと思う」  急に腹の底が冷えた。目を凝らしても、男の方の顔は暗がりに紛れていてよく見えない。しかし、声までは隠し通せない。 「これを、約束の印として受け取ってほしい」  彼は突然地面に膝をつくと、背に隠していたプレゼントを女の子にそっと差し出す。女の子はびっくりしたように大きな目をぱちぱちと閉じたり開いたりした。細い指が恐る恐るプレゼントに伸びて、触れるか触れないかという所で男は立ち上がって彼女を抱きしめた。ちょうど最後の夕日が山向こうに落ちていくところで、二人の姿をくっきりと浮かび上がらせた。  わたしは叫ばないように口元を押さえた。そうしないと倒れそうだった。しかし、奇妙なことに気づいた。  想いを通わせる男女が抱擁を交わす、綺麗なシーン。切羽詰まった想いが重なる、感動的なシーン。  なのに、丸まった背中は自分より背の低い女の子にすがりついているように見えた。  静かな声が空間を裂いた。 「だめだよ」  華奢な手は彼の贈り物ごと胸板を押し返す。あっさりと二人は離れた。男の方は口をわずかに開いたまま動けないでいる。拒まれるとは夢にも思っていなかったのだろう。 「奥さん、大切にしなきゃ」  なだめる口調。上目遣いで覗き込むその子の口元が緩んでいるように見えるのは、わたしの僻みがそう思わせているのだろうか。対照的に、うなだれた顔に絶望が広がっているであろう相手の表情が手に取るように伝わってくる。 「きみしか、いないんだ」  彼は顔を上げて、はっきりと告げた。瞳はまっすぐその女の子を見ているようで、でもどこもみていないようにも見えた。  女の子は肯定とも否定ともとれる透き通った声でただ一言、「そう」と返した。
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