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川の向こうから湿った風が運ばれてくる。それは橋の手すりにもたれたわたしの髪をめちゃめちゃにかき乱し、羽織ったコートの裾をまくり上げていく。
「よう、生きてるか」
「いまのは、」
幻覚?妄想?それとも。
傍らの存在に問おうとして、やめた。代わりに黙って視線を向ける。
閉じていた瞼が開き、夜の海を凝縮したような小さな宝石がわたしの目を見る。
「ありがとう」
小さく告げて、手すりに背を向けた。ばさばさ、と翼をはためかせる音がした。
町を縁反る街灯が、爪先をほのかに照らし出す。
運良く予約がとれたホテルへ向かう途中、閉店間際のパン屋の前を通りがかった。買い物を終えた客が扉を開いたところにパンの匂いがふわりと立ちこめ、思わずふらふらと中へ誘われた。
夜の中、ぼうっと明るい店を出るとどこかから痩せた黒っぽい影が現れ、数歩の距離を残して停止した。様子を伺うようになあ、と一声鳴く。黙ってしゃがむと足下にまとわりついてきた。パン屋の明かりに照らされ、片方の虹彩がなめらかな金箔に光る。もう片方は水色で、賢そうな顔つきをしている。なつっこさに辟易しながら脇の下に手を差し込むと雌だと分かった。あたしを飼うといいことあるわよといいたげな眼差しを前にしばし逡巡する。
と、ポケットの中でスマートフォンが振動し始め、猫を地面に下ろした。ととと、と軽やかに離れていく後ろ姿を見送りつつ、スマートフォンの画面を確認する。
どうするかは決まっていた。
Wi-Fiはオフに、音設定はサイレントマナーモードに。
着信を知らせる画面は拒否を選択した。
ぽつぽつと申し訳程度に灯る街灯の下を歩き出すと、半歩後ろを痩せた影がついてくる。腕の中のパンが目当てだろうが、明日の朝も会えたら。
その時は一緒に帰ってもいいかもしれない。
おわり
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