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姉の美琴は小さい頃から俺のヒーローだった。
保育園の頃の俺はクラスの中で一番小さくて泣き虫で、外遊びではブランコの取り合いで負けてメソメソ泣いていた。
すると男勝りな姉が駆けつけて、
「こらー!私の紘人を泣かせたのは誰だー!!」
と俺を助けにくれるのだった。
親や周りの大人たちからは、
「美琴はショートカットじゃなくて、髪の毛を伸ばせばもう少しおしとやかになるのかしら……」
「美琴と紘人、男女逆みたいね。」
とよく言われたものだった。
小学生に入っても、相変わらず俺は弱虫だった。
姉貴はそんな俺を心配して、休み時間になると2学年下の俺の教室をよく訪ねてきた。
「誰かにいじめられたら、すぐねーちゃんに言うんだよ!」
というのが姉貴の口癖だった。
俺が2年、姉貴が4年の冬だった。
昼休みの時間、クラスの友達と校庭の鉄棒で遊んでいたら、6年の子と場所のことで言い争いになった。
俺と俺の友達が泣きそうになりながら教室に帰ろうとした時、姉貴が駆けつけてきた。
俺から事の成り行きを聞いた姉貴は、怒ってその子と取っ組み合いのケンカを始めてしまった。
ケンカの最中、その子が姉貴を突き飛ばした。
勢いよく転んだ姉貴がすごく手を痛がっていて、騒ぎを聞いて駆けつけた先生に保健室に連れていかれた。
手首が腫れているから受診した方がいいということになり、呼び出された母親と病院へ行ったと、後で聞いた。
俺は姉貴が心配で慌てて家に帰ったが、当の本人はリビングのコタツに入ってのんびりテレビを観ていた。
そして左手首のギプスを見せながら姉貴は言った。
「お帰り、紘人。骨折だってさ。まあ利き腕じゃなくてよかったけど。あ!そういえば、あの後大丈夫だった?いじめられなかった?」
俺のせいでけがをしたのに、俺を心配する姉貴。
姉貴の優しさと、思いのほか元気そうでほっとしたのと、自分が弱くて情けないのと、いろんなものが心の中でごちゃまぜになった。
俺は姉貴の隣に座り込み、ごめんなさいと繰り返しながら大泣きをした。
姉貴はけがをしていない右手で俺の頭をなでながら、大丈夫だよと言った。
……今度は俺が姉貴を守れるように強くなりたいと、思った瞬間だった。
強くなりたいと思っても具体的にどうしていいのか分からず、しばらく悩んだ。
その頃、タイミングよく友達から地元のサッカークラブに入らないかと誘われた。
スポーツなら強くなれるかもと今考えるとやや安直だったが、母親にサッカーをやりたいと話してみた。
……強くなりたいからとは恥ずかしくて言えず、おもしろそうだからということにしておいた。
「紘人が?本当に?サッカーやりたいの?」
どちらかというとおとなしい俺の言葉に母親はびっくりしていたが、
「母さん、紘人が初めて自分からやりたいと言ってるんだから、やらせてみないか?」
という父親の後押しで、入団させてもらえることになった。
元々弱虫な俺にとって練習もきつかったし、先輩やコーチから怒られて泣くこともよくあった。
でも、姉貴を守りたいという思いは強かったのでなるべく泣かないように頑張って練習を続けた。
「紘人、強くなったね」
姉貴が笑顔でそう言ってくれるのが、何よりも嬉しかった。
中学2年になると、俺は身長も伸びて、当たり前かもしれないけれど泣くことも少なくなった。
中学入学を機に地元のサッカークラブから中学のサッカー部に入り直したけれど、サッカーは続けていた。
高校に進学した姉貴は、正義感は変わらなかったが、一方的に突っかかることはなくなった。
高校では生徒会に入って書記をやっているらしい。
中学生までは短くしていた髪を伸ばし始め、少しは女の子らしくなったねと両親が言っていた。
この頃になっても俺たち姉弟は仲が良かった。
予定が合えば2人で映画に行くこともあったし、一緒に買い物にも行った。
弟とじゃなくて彼氏と行きなよ、と言っても、
「そんな人いないし、紘人との方が気楽」
と姉貴は言うのだった。
……俺は内心とても嬉しかった。
姉貴といると楽しいし、いつまでも仲のいい姉弟でいたいと思った。
そんな姉貴が高校2年になった時だった。
父親は残業でまだ帰ってなかったし、母親はお風呂に入っていた。
俺はリビングで好きなサッカーチームの試合を観戦していて、推しのチームが逆転できるかどうかの瀬戸際で、試合は盛り上がっていた。
その時、バタンと勢いよくドアが開いて姉貴が部屋に入ってきた。
照れ臭かったのか、一応両親がいないのを確認して、好きだった人に告白されて泣きそう、と本当に嬉しそうに俺に話すのだった。
スマホで2ショットの写真を見せられたが、優しそうな感じの人だった。
生徒会で副会長をやっている1つ上の先輩らしい。
よかったじゃん、と俺は言ったが、心の中で何とも言えない感情が広がっていた。
テレビの中ではちょうど推しのチームが逆転シュートを決めて、会場が最高潮に盛り上がっている。
なのに俺の中ではテレビの音声がすごく遠くに聞こえていた。
次の日の部活が終わった帰り道、小学校の時から一緒にサッカーをしている友人が俺の顔を覗き込んで言った。
「紘人、今日なんだか調子悪かったな」
俺は姉貴に彼氏ができたと報告されて、なんか調子が狂ってるんだと打ち明けた。
友人はお前は昔からお姉ちゃん子だったからなと笑った。
もう中学生なんだし、姉離れするいい機会じゃないかとも言われた。
そうか。大好きな姉貴を取られた気がして寂しがってるガキなんだ、俺は。
かっこ悪……とため息をつきながらつぶやいて、暗くなり始めた空を見上げた。
2年後、姉貴は東京で一人暮らしをしながら大学に通うようになっていた。
俺は地元の高校に進学し、相変わらずサッカー三昧の日々を送っていた。
翌年、姉貴から連絡がきて、紘人の好きなサッカーチームの試合のチケットが手に入ったから一緒に観に行こうと誘われた。
試合は土曜の夜だから、一泊二日の予定で姉貴の部屋に泊まらせてもらうことになった。
当日は午前中に東京に着くバスへ乗り、新宿で姉貴と待ち合わせをした。
姉貴はスカイツリーやお台場に俺を連れて行ってくれた。
姉貴に会うのは久しぶりだったが、姉弟だからか不自然もなく楽しく笑い合いながらの観光だった。
夜のサッカーの試合は残念ながら俺の推しチームが負けたが、生で見る試合は大迫力だった。
その後、姉貴の部屋に着いたのは少し遅い時間だったが、
「よし、紘人。ちょっと呑もう!……と言ってもお前は未成年だからジュースね」
と姉貴が冷蔵庫から缶チューハイと俺が昔から好きだった炭酸飲料を出してきた。
日中の観光の時もいっぱい話したが、そこでもテーブルで向かい合ってお菓子をつまみながら2人で色んな話をした。
俺は普段の両親の話をしたり、高校の話をしたり。
姉貴からは大学の授業の話やバイトの話を聞いた。
途中で俺は、前にこの部屋に来た時にテレビの横に飾ってあった写真立てが無いことに気が付いた。
姉貴が高校の頃から付き合っていた彼氏と遊園地に行ったときに撮った写真が飾られていたはずだった。
あ、気付いた?あの人とは別れたから写真は捨てたの、姉貴はと言った。
確か九州の大学へ進学して遠距離恋愛になったと聞いていた。
でも、ついこの間も東京に遊びに来たと聞いていたし、仲良くやっているんだと思っていたので驚いた。
姉貴は新しい缶チューハイを開けて一口飲んで、遠距離恋愛はやっぱり難しいね、と言った。
彼が向こうで好きな子ができたって言うの。私のこと、嫌いになったわけじゃないけどごめんって謝るの。
嫌いじゃないってずるい、ごめんってずるいよ……といいながら姉貴がポロポロと泣き出した。
……あの強かった姉貴が泣いている。
俺は結局、姉貴を守れていないと思った。
とりあえず俺は姉貴の近くに座り直して、小さい頃、自分が骨折したにもかかわらず俺にそうしてくれたように、姉貴の頭をなでた。
姉貴は一瞬、驚いた顔をしたが、
「……一人前みたいに慰めてくれるの?紘人」
と言って、俺にしがみついてわんわん泣き出した。
俺は黙って姉貴の頭をなでる事しかできなかった。
……その後しばらく泣いていた姉貴だったが、泣き疲れたのか俺にしがみついたまま寝息を立て始めた。
俺は姉貴を起こさないようにそっと抱き上げ、ベッドに運んだ。
「ん……」
姉貴が寝ぼけて首にしがみついてきたので体勢が崩れ、まるで押し倒すような形になってしまった。
その時、姉貴が何かつぶやいた。
もしかしたらあの彼の名前だったのかもしれない。
でもすぐに腕の力は抜け、起きることなくベッドに横たわった。
その途端、俺の中に激しい感情が押し寄せてきた。
この人に……触れたい。
男として彼女を抱きしめたい。
俺はこの人を姉としてではなく女性として好きなんだ、と思った。
とっくの昔に気付いていたけど、ずっと気付かないフリをしていた。
俺はしばらく目の前で無防備に眠るの彼女をじっと見下ろしていた。
そして、そっと手を伸ばして寝ている彼女の頬に触れた。
……そして『弟』として『姉貴』の乾ききっていない涙をぬぐう。
俺はこの人に嫌われるのが何よりも怖い。
幻滅されるくらいならずっと『弟』として生きていく。
起こさないようにそっと姉貴に布団をかけて電気を消し、俺のために用意してくれた布団にもぐりこんだ。
それから月日は流れ、姉貴は東京、俺は大学卒業後地元で働いて数年経った。
俺はというと、あの時感じた姉の美琴への想いを上回るほどの女性に出会えていなかった。
それでも俺は仕事で充実した日々を送っていた。
そんなある日のことだった。
姉貴から、結婚をしたい人がいるから今度彼と挨拶に行くねと両親に連絡が入ったと聞かされた。
2人が実家に挨拶に来た日は母が手料理を振る舞い、ささやかな宴会が行なわれた。
姉貴の相手は、優しい感じのとても好意の持てる男性だった。
サッカーが好きらしく、推しのチームも俺と一緒だったので色々話が盛り上がった。
今度3人で一緒にサッカー観戦をしようと、嬉しそうに姉貴が俺に言った。
姉貴の結婚式の日取りも決まり、もう家族4人で過ごすことが無くなるだろうから旅行に行きたいと姉貴が言い出した。
結婚の準備も忙しいから遠くには行かず、一泊で温泉旅行へ行くことになった。
観光が目的じゃなくて、家族4人で過ごすのが重要なんだからのんびり行けるところにしようと父親が言った。
旅行当日、姉貴はスマホで景色や両親や俺の写真を撮りまくっていた。
温泉では、母と秘密の女子トークをしたらしい。
夕食では父親とお酒を呑みながら結婚生活で大切なこととは、みたいな少し真面目な話をしていた。
両親が寝てからは、俺と思い出話や仕事の話、彼と付き合って詳しくなったサッカーの話をたくさんした。
俺に彼女がいないと分かると、紘人は昔から草食系男子だったね、と姉貴は苦笑していた。
話題は尽きることがなく、ふと外を見ると空が明るくなり始めていた。
突然姉貴が、アイスが食べたくなったからコンビニに買いに行こうと言い出し、2人で両親を起こさないように部屋を出た。
周りがだんだん明るくなり、向こうの山から太陽が昇り始めた。
橋を渡っていると、朝焼けが映る川が綺麗だと言って姉貴が足を止めた。
風になびく髪を押さえて景色を見ている姉貴の表情があまりにも幸せそうで、綺麗で。
俺は堪らなくなって姉の腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。
華奢な彼女を抱きしめて、だた一度だけ……と許してほしい願った。
「美琴……好きだ」
ただ一度だけ、1人の女性としてあなたの名前を呼ばせてほしい。
ただ一度だけ、男性としてあなたを抱きしめさせてほしい。
彼女は俺の背中に手も回し、背中をポンポンとたたきながら言った。
「……紘人、ありがと。でもごめんね、大切にしたい大好きな人がいるの」
俺ははっと我に返り、慌てて体を離した。
弟から告られるなんて引くよな、ごめんと俺は謝った。
姉貴は、可愛い弟が自分の想いを伝えてくれたのに引くわけないでしょ、と笑いながら軽く俺の胸にパンチをしてきた。
……姉貴にはやっぱり敵わない。
今も昔も、いとも簡単に俺を救ってくれるヒーローだ。
早くアイスを買いに行こうと姉貴が言って、また2人でコンビニへ向かった。
俺は振り返って朝焼けを映した川を見た。
いつか俺に好きな女性ができたとしても、きっと一生この景色を忘れないだろうと思った。
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