二人だけの境界

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 灰田大樹(はいだひろき)が友人宅の広い部屋に足を踏み入れた時、すでに会場は宴もたけなわ、酒とつまみとが並べられた座卓の周りには、酔いつぶれ畳敷きの床に横になっている者までいた。  いや、本当はそれ程、飲んでいないのかもしれない。なにせ、今晩集まっている同い年の男女八人は、小中学校時代を共に過ごした気のおけない仲間。つい、だらしのない格好をしてしまうのも、仕方ないことだった。 「大樹、遅い!」  数週間前にも顔を合わせた面子からの文句に応えた後、大樹は今回の集まりの主賓と視線を交わし、挨拶をした。 「久し振り」  彼女、女友達に挟まれた場所に座る結城愛実(ゆうきめぐみ)は、酒精で少し紅くなった顔で微かに笑みを作り、大樹に会釈を返した。 「じゃあ、私、そろそろ帰るね」  明け方近く、愛実が今まで坐っていた座布団から立ち上がると、皆口々に、そう会える機会のない彼女との別れを惜しんだ。 「おい、大樹。お前、愛実と実家近いだろ?送ってやれよ」  そう言われる前からそのつもりだった大樹は、無言で立ち上がると、愛実より先に玄関に向かった。 「いいよ。都会と違って危ないこともないだろうし。大樹はもうしばらく、ここにいれば?」 「いや、俺も明日も仕事あるし。お邪魔しました。俺、もう帰るわ」  大樹が今夜の会場の提供者に届くよう大きな声を張り上げると、「送り狼になるんじゃねーぞ!」と負けないくらいの声量で返事が返ってきた。  二人が玄関から出ると、まだまだ暑さが続く昼間とは違い、九月の半ばを過ぎた深夜の屋外は、長袖のシャツでも肌寒いくらいだった。 「寒い?」  大樹が薄手のワンピース姿の愛実に訊くと、「ちょっとだけ。でも、歩いてれば温かくなるだろうから」と、彼女は大樹に先立って砂利道を歩き始めた。  大樹は持ってきていた懐中電灯を点けると、自分より少し左側の前を歩く愛実の進行方向の足元を照らしてやった。 「本当に、私一人で帰れるよ?大樹、来るの遅かったし、まだ皆と飲んでたかったんじゃない?」 「いや、いい。あいつらとはしょっちゅう飲んでるし。それより、夜目の利かないヤツが夜中に歩く方が、心配。水路に落ちるぞ」 「まさか。どこになにがあるかぐらい、まだ憶えてるもん」 「そんなこと言ってなめてるとな、本当に落ちるぞ。田舎だって、それなりに変わってんだ」  大樹は心中、安堵していた。飲み会で同じ卓を囲みながら、二人は他の友人たちと話すばかりで、殆ど口を利かなかった。もしかして、愛実とはもう、気軽に話すこともないかもしれない。そんなことも考えていたが、こうして彼女に、いつかの時のように軽口を叩くことが出来た。 「盆には美咲と奈々も、こっち帰って来てたんだけどな」 「うん、そうだったってね。美咲、赤ちゃん連れて来てたんだって?私も会いたかったなぁ」  愛実のフフフと笑う声が、満天の星が輝く空に響いた。やけに空気が澄んだ夜で、大樹には、吐いた息や声が月にまで届きそうに思えた。 「こんな時期まで休み取れないなんて、仕事、忙しいんだな」 「まぁ、ね。本当は今もバタバタしてるけど、お父さんとお母さんに、お盆が無理ならせめて彼岸までには顔見せろって言われてたし、無理矢理休んできた。うわっ!」  話の途中で、愛実の姿が突然、懐中電灯が照らし出す範囲から消えた。 「大丈夫かよ?!」  大樹が懐中電灯をより左に向けると、愛実は道より少し低くなった草むらに手と膝を着いていた。 「怪我は?」 「うーん…大丈夫、みたい?」  愛実は緩慢に立ち上がりながら自分の手の平を払い、膝をさすった。幸い、彼女が倒れ込んだのは伸びきった雑草の上だった。 「言わんこっちゃない。ほら」  大樹が差し出した懐中電灯を持っていない方の左手を、愛実はすぐには取らなかった。すこし、胸に重苦しい感覚が広がるのを感じながら、それでも、大樹は純粋な親切からの手を引っ込めはしなかった。 「意地張ってんな、酔っ払い。また転がりでもして今度は泥まみれになったら、俺が今日飲んだ奴らから責任問われんだから」  愛実は苦笑いを含んだ諦めの溜め息を吐くと、大樹の手を握った。愛実の手は、だいぶ酒が入っているからだろう、大樹の記憶にあるのより温かった。  愛実の手の感触を自分の手の平に感じた途端、大樹の胸の鼓動が、それまでより煩くなった。そうさせたのは、中学生の時、初めて彼女の手を握った気持ちに近いようで、しかし、その時にはなかった、他の、どんよりと暗い感情が確実に混じったものだった。 「明日、帰るのか」  繋いだ手から愛実に何も伝わらないよう祈りながら、大樹は気持ちとは裏腹な乾いた調子で尋ねた。 「うん。実家に帰ったらちょっと寝て、それから、夕方には出ようと思ってる」 「そっか」  それからは、話が続かなかった。二人には、お互いに踏み込めない話題が多過ぎた。それらを避けているせいで、もう、話題を見つけるのが難しくなった。それらというのは、二人の間の過去もだし、それ以外の人とのこれからもだった。  結果として、大樹はただ、その手に愛実の体温を感じて歩いているだけとなり、そうしていると、本当に最初は親切で手を差し出しただけだったというのに、このまま手を引いて彼女をどこまでも連れ去れるような、そんな、妙な感覚に陥った。  本当に、不思議だった。いまなら、いまだけは、彼女から受けた仕打ちを、全て許せるような気がした。  帰り道の同道は、河川の上を横切る長い橋まで至った。  橋を渡り切れば大樹と愛実の別れ道はすぐで、それは、大樹が彼女と繋いでいた手を離さなければいけない時が近いことを意味した。  大樹が橋の真ん中で名残り惜しさのあまり、ふいに立ち止まり、前を進む愛実の腕を引っ張り引き留める形になった。  愛実は大樹の様子を確かめる為だろう、振り返った。その時、二人の間に光が差した。  夜が、明けるのだ。  東からの黄みを帯びた光に照らされた愛実は、まるで、今初めて見るひとのようだった。大樹と付き合っていた彼女とも、他の男を選んだ彼女とも、違う。彼女と大樹の間に過去は無く、また、彼女は誰の物でもないように見えた。  だから、大樹は手を伸ばし、彼女を抱きしめた。誰の物でもないなら、自分の物にしてしまえると思った。手から離れた懐中電灯が地面に叩きつけられ転がる音がして、ああ、壊れたかもなとぼんやり考えた。顔を埋めた首筋から、とても遠くに思える過去に知った薫りと、知らない香りとが漂った。  愛実は、その手で大樹を突き放しはしなかった。だが、その腕を彼の背中に回そうともしなかった。それが、彼女の答えだった。  わかっていても、大樹は離れがたかった。そうして、失ってしまった体温を感じながら、自分は何を間違ってしまったのだろうかと、考えた。  遠距離に耐えられず、他の男に靡いた彼女を許せなかったことか。大学卒業後、地元に戻ったこと?付き合っていることを、他の誰にも言ってなかったことだろうか。  そう、二人が付き合っていたことを、さっきまで一緒にいた同窓生たちは全く知らない。最初は、照れ臭くて言っていなかっただけだった。それが二人が終わるまで続いてしまったのは、きっと、いつかは終わる関係だと、いつの頃からか二人とも感じていたからだ。親の仕事を継ぐ為に郷里に帰ることを決めていた自分と、都会に残り働くことを選んだ彼女。もうずっと前から、二人は結末をわかっていた。それでも切れずに続けていたのは、やはり、気持ちがあったからだったのだが。  だから、二人の間のことを、誰も知らない。たった今、明け方の光が照らす橋の上で、大樹が愛実を抱きしめていることも。  そうして、大樹が彼女を解放してしまえば、愛実は皆の知る彼女に戻る。年が明ける頃には、皆が彼女の結婚を祝うのだろう。だから、誰も知ることはない。彼女もきっと、振り返らない。  もう引き留めることはできない。終わるのだ。誰も知らないこの夜は、まるで、無かったかのように。  それでも今は、夜と朝の、境界。
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