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第19話 待ち伏せ
午後の美術の授業は、いよいよ作品制作に入る段となったが、その前段階として西洋美術の歴史を学ぶことになった。美術史と言ってもかなり大まかなもので、今週と来週の授業を使って原始美術からルネサンス、印象派から現代美術まで習うものらしい。
蒼司が教科書を片手に黒板へ板書していくのを、私たち生徒はノートに書き写していく。教科書に書いてあるけれど、授業で学習した美術史の内容を、最後にレポートにまとめて提出しなければならないのだ。
正直なところ、蒼司に授業なんてできるのかと心配していたが、これが意外と分かりやすいし、面白い。蒼司は専門学校でも講師のバイトをしているから、その経験が生きているのだろう。もともと口達者な性格だし、人前で喋ることに慣れているのだ。
女子生徒たちは蒼司を目の前にすると興奮するらしく、声を抑えているものの、キャッキャとささやく声が漏れ聞こえてくる。これでもかなり落ち着いてきたほうだ。
教科書を片手にビシッと立ち、手際よく板書する蒼司は様になっている。ただ、非常階段での件があるせいか、生徒からキャーキャー言われ、さも当然のような涼しい顔で受け止めている蒼司に、私はどうもイラっとしてしまう。
私は黒板をノートに書き写しながら、悠衣と男鹿のことを考えていた。途中、蒼司の横槍が入ったものの、男鹿の気持ちがはっきり聞けたのは良かった。
男鹿は悠衣のことが好きなのだ。だからこそ森本杏奈の告白を断ったのだろう。男鹿も本当は悠衣と仲直りしたいと思っているのだ。
悠衣は相変わらず男鹿と距離を取っている。そのおかげか面と向かって男鹿との関係を悠衣に問い質すクラスメートはいないものの、みな言葉には出さないだけで、興味を失ってはいないのが分かる。悠衣と男鹿、そして森本杏奈の三角関係の結末がどこへ向かうのか、ワイドショーのように楽しんでいるのだ。
たが、悠衣が男鹿のことを避けている理由が、まだ分からない。周囲の視線を気にしているのもあるが、悠衣と話してみた感触として、それだけではないような気がする。
悠衣は男鹿のことを怒っていないと言っていた。男鹿が森本杏奈とつき合うというのなら、その意思を尊重するけど、悠衣自身は男鹿と付き合うつもりは無いのだと。何が悠衣に男鹿と離れさせる要因となっているのか、私にはいまいち分からないのだ。
男鹿も悠衣の態度に腹を立てているというより、戸惑っているみたいだった。男鹿にも悠衣の本音がどこにあるのか、よく分からないのだろう。
(中学時代から悠衣を知っている男鹿にも分からないんだ。知り合って一ヶ月の私に、悠衣の考えが分かるはずもないのは当たり前だけど……それでも何とかしたいんだ)
タイムリミットは二日後に控えた宿泊研修までだ。私と悠衣、入江と男鹿は同じ班だから、嫌でも行動を共にする時間は増える。
(宿泊研修まで今みたいな状態が続いていたら、二人の関係は悪化するばかりだ。それどころか二度と元に戻らなくなってしまうかもしれない……)
宿泊研修は虹ヶ丘高校に入学して初めての行事だ。できることなら良い思い出にしたい。ギスギスしたり不協和音全開で、『早く家に帰りたい』みたいな悲惨な結末にはしたくない。
(……私だって楽しみにしてるんだし)
高校生活は三年間だけど、もう二度と経験することのできない大切な三年間だ。大人になって思い返した時に、後悔しない宿泊研修にしたい。
(そういえば今日の夜、蒼司に絵のモデルを頼まれていたな。前回も意外にまともなアドバイスをしてくれたし、もう一度相談してみようか……)
チャイムが鳴り、五、六時限目の美術の授業はあっという間に終わってしまった。あとは家に帰って蒼司と相談しつつ、じっくり考えよう――私はそんなことを思いながら悠衣とB組の教室へ戻った。
しかし、現実はそう甘くはなかった。端的に言うと、私はあまりにものんびり構え過ぎていたのだ。そういう時に限って、良くないイベントが不意討ちのように襲ってくるのだ。
現実はいつだって、想定しているより遥かにスピードが速く、背中に乗せている私たちを容赦なく振り落とすような勢いで爆走していく。そして『現実』という名の暴走車両は、進路を塞いでいるトラブルに正面から激突すると分かっていても、決して進路変更したり急ブレーキをかけたりしない。ましてや衝突に備える余裕なんて、与えてはくれないのだ。
それは掃除当番を終え、悠衣と共に美術室へ向かっている途中のことだった。
テスト週間が終わり、クラブ活動が再開されたため、他の生徒たちもすぐには帰宅せず、教室に残ってお喋りしたり、廊下で待ち合わせをしたりしていた。
1‐Bの教室を出て私と悠衣が並んで廊下を歩いていると突然、数人の女子に行く手を塞がれた。誰だろうと思って相手の顔を見ると、A組の女子だった。
森本杏奈とその友人二人が立ち塞がり、私と悠衣を睨んでいる。おそらく、私たち二人を廊下で待ち伏せしていたのだろう。
しまった――私は内心で舌打ちをした。膠着状態に痺れを切らせたのは、なにも私だけではなかった。森本杏奈と友人たちもまた、現状を打破しようと仕かけてきたのだ。
これまで森本杏奈は、私や悠衣をにらみつけても、直接文句を言ったり、嫌がらせをしてくることはなかった。私も、どうせそんな度胸も無いだろうと高を括(くく)っていたが、その考えは甘かったのだ。
廊下で立ち止まり、真っ向からにらみ合う私たちは、目立っていたのだろう。廊下を行きかっている生徒たちが、いったい何事かと興味と驚きの混じった視線を向けてくる。
厄介事に巻き込まれたくないのか、私たちの近くから波が引いたように人がいなくなる。それでも好奇心には勝てないらしく、私たちを遠巻きにするように大勢の生徒が様子を窺っていた。
私や悠衣はそれに気づいて眉根を寄せた。こんな風に見せ物みたいに取り囲まれて、愉快なわけがない。
ところが森本杏奈たちは、大勢の生徒に取り囲まれても物怖じもせず、舞台の脚光を浴びるかのように自信に満ちあふれ、堂々としていた。
(――何をするつもりだ、こいつら)
私が眉をひそめたのも束の間、森本杏奈は後ろでもじもじと手を組むと、おもむろに悠衣に向かって口を開いた。
「あ……あの! あなた、姫崎悠衣さん……ですよね?」
「そうだけど……。私に何か用?」
悠衣はさっと顔をこわばらせると、肩からかけているスクール鞄の持ち手を握りしめ、固い声で答えた。悠衣が嫌々、相手にしているのは明らかだが、森本杏奈はお構いなしに続ける。
「わたし、A組の森本杏奈といいます。わたしが男鹿くんに告白したこと、知ってますよね?」
森本杏奈はかわいらしくちょこんとお辞儀をすると、小首を傾げた顔に人差し指を添えた。
「まあ……知ってるけど。だから、何?」
悠衣が素っ気なく答えると、森本杏奈は懇願するように両手を前で組み、つぶらな瞳を涙で潤ませながら、上目遣いでこう切り出した。
「お願いがあります。わたし、本気なんです! 本気で男鹿くんのことが好きなんです! だから彼から手を引いてください。彼を自由にしてあげてください!」
(何言ってるんだ、こいつーーーー)
私は驚きを通り越して呆れてしまった。悠衣は男鹿と口も利かず、目も合わさないほど距離を取っている。むしろ、男鹿に付きまとっているのは森本杏奈ではないか。
そう思ったのは私だけじゃないらしく、悠衣もすぐに反論を口にする。
「何を言ってるのか、よく分からないんだけど。あたしは別に男鹿を縛ってなんか……」
ところが、悠衣が言葉を言い終わらないうちに、森本杏奈は涙で滲んだ目尻をきっと吊り上げ、甲高い声を張り上げた。
「嘘ばっかり! あなたが男鹿くんをしつこく誘惑しているせいで、男鹿くんがあなたから離れられないの、こっちはちゃんと知ってるんだから! 中学生の時から彼と仲がいい事を利用して、彼がわたしとつき合えないようにしてるんでしょ!? だから男鹿くんは、どれだけ告白しても私の方を振り向いてくれないのよ!! 卑怯な手段で私たちの仲を引き裂くのは、もうやめて!!」
これもまた耳を疑うような主張だった。男鹿が森本杏奈との交際を拒んだ理由は、彼女のことを良く知らないからであり、それなのに軽々しくOKを出すのは失礼だと考えたからだ。それを悠衣のせいにしてしまうなんて、それこそ男鹿の誠意を否定するのと同じではないだろうか。
森本杏奈は鈴の鳴るようなか細い声と、舌足らずで幼い話し方をしているのに、言葉の内容はずけずけとしているので、甘い毒のような気味の悪さがある。
悠衣も一瞬だけ息を飲んだが、すぐに深呼吸して体勢を整えると、冷静に反論を試みる。
「なにか勘違いしてるみたいだけど。あたしは最近、男鹿とは一切話をしてないし、あなたと交際しないように唆したりもしてない。男鹿はあたしにとって友達の一人だよ。誰とつき合おうが邪魔するつもりも無いし、もし付き合うなら心からお祝いするつもり。あなたと男鹿が交際できないことを、あたしのせいにされても困るんだけど」
「……とぼけるつもり!?」
足を内股にしてわめく森本杏奈に、悠衣は感情的になることもなく、あくまで冷静に返す。
「だから何でそうなるの? あたしはあくまで本当の事を言っているだけだよ。……話はそれだけ? もう行っていい?」
悠衣のあまりにも素っ気ない態度に、森本杏奈は悔しそうな顔をする。相手にしないことでマウントを取られているのだと、そういう風に思っているのだろう。悠衣はただ事実を言っているだけなのに。
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