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第22話 助っ人登場
これで森本杏奈も男鹿のことを諦めてくれるだろう。ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、わたしたちを取り囲む生徒の一人が、男鹿を責めるように声を上げたのだった。
「そんな言い方ないんじゃね? 森本さん、いい子じゃねーかよ!」
男鹿は見知らぬ男子生徒の介入に首を傾げる。
「ええと……誰だあんた……?」
「森本さんの何がそんなに不満なんだ? そっちの尻軽ビッチよりか、ずっといいだろ」
噂を微塵も疑わないその言葉に、悠衣がびくりと体を強張らせたのが分かった。森本杏奈たちが口にした悠衣の噂は、全部でたらめだ。悠衣が中学時代、悪意ある同級生に流された嘘なのだ。悠衣のことをよく知らなければ、噂を信じてしまうのかもしれない。
許せないのは森本杏奈たちだ。悠衣はせっかく新たな学校生活を送ろうとしているのに、大勢の生徒の前でわざわざ中学時代の噂を暴露した。どんな理由があろうと、とうてい許せるものではない。
「お前らいい加減にーーー」
しかし、悠衣をかばおうとした私の声を遮るように、男鹿の低く重たい声が廊下に響きわたる。
「……今、何つった?」
普段の穏やかな男鹿からすると、信じられないような険しい表情を浮かべていた。男鹿は男子生徒をにらみつけたまま、松葉杖でつかつかと歩み寄ると、両手で男子生徒の胸倉に掴みかかったのだった。
主を失った松葉杖が、カランと硬質な音を立てて廊下の床に転がる。
「あ、おい!」
入江が慌てて男鹿を止めようとするが、二人分の鞄を抱えているため間に合わない。
「痛ぇな! 何するんだよ!?」
悠衣を『尻軽ビッチ』呼ばわりした男子生徒は非難の言葉を口にしたものの、その声は上擦り、心なしか怯えているようにも聞こえる。
男鹿はそれでも止まることなく、激しい怒りをぶつけた。
「お前こそ、いい加減なこと言うな! 姫崎のどこが『尻軽ビッチ』なんだ!? お前が姫崎の何を知ってるっていうんだ!!」
「は、放せよ! 俺はただ聞いたことをそのまま言っただけで……!!」
「ふざけんな! お前らのような奴らがいるから、何度でも同じことが繰り返されるんだ!!」
「はあ……? 俺に関係無いだろ!?」
男子生徒は、どうして男鹿がそんなに怒るのか理解できないといった風に吐き捨てる。
「お前のちょっとした言葉が、どれだけ人を傷つけるか考えたことはあるか!? 噂だけで人を決めつけて、色眼鏡で見てることにも気づかない……それが誤解を広めてるんだと、なぜ分からないんだ! それとも噂を聞いただけの自分は、悪くないとでも言うつもりか!?」
男鹿のあまりの剣幕に、男子生徒は気圧されたように黙り込む。
「いいか、適当な噂だけで姫崎のこと勝手に決めつけてんじゃねえ!! これ以上、姫崎を追い詰めるようなら俺が許さねえからな!!」
男鹿は足の怪我などお構いなしに、男子生徒の胸倉を力いっぱい締めつける。もともと運動をしている男鹿は細身ながらも筋肉質で、腕力も強い。掴まれた男子も抵抗を試みるが、男鹿の腕を振り切れないでいる。
かくいう私も、すっかり驚いてしまった。いつもは温厚な男鹿の中に、こんなにも激しい感情が眠っていただなんて。
ちらりと視線を転じると、男鹿のあまりの迫力に森本杏奈たちはすっかり蒼白になっていた。彼女たちも、これほど怒る男鹿を見たのは初めてなのだろう。
周りの生徒は余計な火の粉を被るまいと、男鹿と掴みあっている男子生徒から慌てたように距離を取る。私と悠衣だけが男鹿に駆け寄ると、必死で止めに入った。
「ちょっと落ち着けって! 足を怪我してるんだぞ!?」
「男鹿、もうやめて! ……もういいから!! あたしのことはいいの! 男鹿に何かあったら、そのほうが嫌だよ……!」
悠衣が悲痛な声を上げるが、男鹿は悠衣の声を聞いても、男子の胸元から手を放そうとする気配がない。
「何言ってるんだ! 中学の時の噂にどれだけ苦しめられたか……姫崎だって忘れたわけじゃないだろ! こういう奴らは放っておいたら駄目なんだ! ……『いつか』飽きるだろう。『いつか』終わるだろう。『いつか』分かってくれるだろう。その『いつか』なんて永久に来ないんだ。『いつか』を待って大事な人が潰されるなんて……俺は嫌だ!」
「男鹿……!」
「中学時代のこと、俺も後悔してる。あの時、女子のことに俺が首を突っ込んでも、話がややこしくなるんじゃないかと思って口を出さなかった。下手に庇ったら姫崎の立場が悪くなるんじゃないかって……。でも、間違いだったんだ。ちゃんと戦うべきだった! だって姫崎が変な噂を流されたことは、俺はおかしいと思ってたんだから!!」
男鹿の怒気に呑まれたのか、廊下はしんと静まり返った。
男鹿の言葉を聞いた入江もまた表情を曇らせる。半分は強い罪悪感を抱いていて、半分は自分自身も傷ついている――そんな表情。
男鹿や入江、そして悠衣が中学時代のことを話題にすることはなく、互いに何もなかったように振舞っている。
だが、口にしないからと言って決して忘れたわけではない。中学の時に経験したいじめで悠衣が傷ついたのと同じように、男鹿や入江も傷ついていたのかもしれない。
大事な友達がいじめられることに。いじめられている友達に何もできない自分に。いじめられている友達を見て見ぬ振りをするクラスメートに。誰も助けてくれない大人たちに。
だが、最も傷ついている悠衣を前で口にするわけにはいかない。だから三人とも、互いに忘れたようなふりをしているだけなのだ。
「もういいよ……! その言葉だけで十分だよ……!!」
悠衣は声を震わせて男鹿の腕に縋りついたが、男鹿は完全に頭に血が上っているらしく、男子生徒を掴んでいる手を放す気配はない。
(このままじゃ、マズいーーー)
何かのはずみで手が出るようなことになれば最悪だ。良くても反省文、悪ければ自宅謹慎などのペナルティは免れない。
私が内心でどうしようかと焦っていると、不意に、静まり返った廊下にパンパンと両手を叩く乾いた音が響いた。
音のしたほうへ顔を向けると、私たちをぐるりと取り囲んだ人垣の向こうに、なぜか蒼司の姿があった。
他の生徒たちも一斉に蒼司に視線を向けるものの、当の蒼司はいっさい動じることなく、割れた人垣を颯爽と通り抜けて、こちらにやって来る。
「みんな廊下で集まって何を騒いでいるのかな? とっくに下校の時間は過ぎてるよ?」
「あ……えっと、これは……」
この騒ぎの張本人である森本杏奈は、ひどくバツが悪そうに、その天使のような可愛い顔を歪めた。彼女たちもおそらく、ここまで事が大きくなるとは思っていなかったに違いない。公衆の面前で悠衣に恥をかかせたら、自分たちまで火傷しないうちに、さっさと切り上げるつもりだったのだろう。
それなのに男鹿が登場してきて真相を暴露したあげく、教師までやって来たのだ。状況は彼女たちの想定の外に転がっていた。
端整な顔立ちの若い男性教師の出現に、生徒たちはざわつきはじめた。
「え……誰? すっごいイケメン……!」
「うちの高校に、あんなかっこいい先生いたっけ?」
「確か美術の先生だよ。水瀬先生が産休に入ったから、その代わりに赴任したんだって」
「いいなー、あたしも芸術選択科目、美術にしとけば良かったー」
注目を浴びることに慣れている蒼司は、どよめく生徒たちに無駄に笑顔を振りまいている。そして目だけでこちらを見ると、私にだけ気づくように小さくウインクをした。何を調子に乗ってるんだと突っ込みたいところだが、今回ばかりは正直、助かった。
蒼司の登場で冷静さが戻ってきたのか、男鹿が掴みかかっていた男子生徒の胸元から手を離した。そんな男鹿に目を留め、蒼司は穏やかに口を開く。
「君は男鹿くん……だったよね? どういう理由があれ喧嘩は良くないよ。一緒に職員室へ行こうか」
「……はい」
蒼司にそう告げられ、男鹿はうな垂れたように小さく返事をした。先ほどまでの威勢は鳴りを潜め、教師に呼び出される事態に少なからずショックを受けているようだ。
そんな男鹿を気遣うように入江が手を挙げる。
「あ、俺も! 俺も一緒に行きます!」
蒼司は「ああ、構わないよ」と頷いて入江の同行を許可すると、次にぐるりと森本杏奈たちや他の生徒へ視線を向けた。
「それから……この騒動の首謀者は誰? いったい何が騒ぎの原因なの?」
そう問われ、森本杏奈たちのみならず、他の生徒たちも、一様に気まずそうに黙り込んだ。名指しされないように全員、視線をうつむけたり、顔を背けたりしている。もちろん、騒ぎを起こした森本杏奈や友人たちが進んで自己申告するはずもない。
生徒の反応が無いことはある程度、予想していたのだろう。蒼司はそこで追及の手を緩めるつもりもないらしく、わずかに語調を尖らせる。
「どうしたの? 黙ってちゃ分からないよ。説明できないの? それとも人には言えないような恥知らずな真似をしていたのかな?」
蒼司に強い言葉を向けられ、さすがに黙ってやり過ごすことはできないと思ったのだろう。森本杏奈の友人が首を振って弁明した。
「いえ……何でもないんです! ただその……いろいろとあって……本当に何でもないんです!」
あんなに正義のヒーロー気取りで、悠衣のことを『尻軽ビッチ』呼ばわりしておいて、今さらこそこそと隠すのか。いざ他人に問い詰められると、釈明ひとつできないのか。そう考えると私は腹が立って仕方がなかった。
彼女の言葉から何かを誤魔化そうとする気配を感じたのか、蒼司は目を細め、森本杏奈たちへ懐疑的な視線を向けた。
「ふうん……? まあいいけど。もう高校生なんだから、少しは分別のある行動を心がけようね。知ってると思うけど、高校は義務教育じゃないんだよ。当然、中学校とは違うんだから、どんな傍若無人も子どものいたずらで片付けてもらえるわけじゃない。……その事を忘れないほうがいい」
先ほどまでの穏やかで優しげな態度とは一転し、蒼司はぞっとするほど冷ややかな口調で告げた。言葉こそ柔らかいものの、声音は容赦のない脅しの色を帯びている。蒼司は端正な顔立ちをしているから、余計にその冷酷さや酷薄さが際立つようだった。
そう感じたのは私だけではないようで、廊下の空気はすっかり凍りついてしまっている。氷のような蒼司の忠告に、森本杏奈の友人は蒼白になって「は……はい」と小さく答えたのだった。
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