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第25話 『常識』って面倒くさい
蒼司のくせに、やけに小難しいことを言う。私はむっと押し黙り、非難交じりに唇を尖らせた。
「役に立たないアドバイスだな……じゃあ私はどうすればいいんだ?」
「僕はね、立夏のしたいようにすればいいと思うよ」
「私のしたいように……?」
「……僕の知る立夏は、いつも真剣に相手のことを考え、相手の立場になって動いてる。大切な人を守るためなら、戦う勇気も持ち合わせている。考え方も僕よりよほどしっかりしてるしね。その立夏が、話し合って欲しいと思うなら、きっとそうするのがいいんだよ」
どうやら蒼司は、私が漫画の主人公という仮定で現実の人間関係の相談をしていたことに、とっくに気づいていたらしい。その上で、私の好きにするといいと言ってくれているのだ。
「……えらく私のことを評価してるんだな」
何だか気恥ずかしくて私が口の中でもごもごと答えると、相変わらず蒼司は妙な確信に満ちた口調で断言する。
「正しい方法がどれかなんて、僕にも分からない。でも、僕は立夏のことを信じてるから……立夏がしたいようにしたらいいと思う。もし失敗したら、その時は愚痴くらいなら聞いてあげるよ」
「まったく……蒼司らしいアドバイスだな」
私はひどく呆れたが、同時に蒼司の言葉に励まされてもいた。
私が『常識』だと思っていること。それは蒼司の中にある『常識』とは全然違うし、他の人もきっと、みなそれぞれ違う『常識』を持っている。そしてみんな、自分の中の『常識』を通して世界を見ているのだろう。
そして自分の『常識』の中に偏見や思い込み、決めつけといった色眼鏡が混じっていることに誰も気付いてはいない。
だから自分の中の『常識』が、他人にとっての『常識』と同じだと思っていると、行き違いが起きたり、大きなトラブルが起きてしまうのだ。
自分の中の『当たり前』を疑いもせず、社会的な『常識』だと思ってしまうと、私のほうが正しい、貴方のほうが間違ってる、となってしまう。何故なら、私は『常識』的な行動をしているのだから――
でも『常識』は、私たちが思ってるほど『当たり前』じゃない。蒼司の言った通り、善悪や正邪で簡単に判断がつくことではないし、本当は根拠なんて無いのかもしれない。
実際、森本杏奈の『常識』と私の『常識』は、最後まで交わることは無く、平行線に終わった。あとに残ったのは、途轍もない疲労感とやり場のない虚しさだけだ。
どうして分かってくれないのだろう。どうして考えを改めてくれないんだろう。どうして自分の『常識』が誰かを傷つけていると思わないんだろう。
自分の『常識』と他人の『常識』のにある、果てしない壁を目の前にすると、その途方もない高さに、どうしていいか分からなくなってしまう。何が正しいのか、何が間違っているのかすら、自信が持てなくなってしまう。
けれど、蒼司は私を信じると言ってくれた。自分に自信を無くしかけていた私に、蒼司は迷い悩む私の全部を引っくるめて信じると言ってくれたのだ。だから今は、私も自分自身を――信じると言ってくれた蒼司の言葉を、信じようと思う。
蒼司にそんなつもりがあったかどうかは分からないけれど、蒼司の言葉は確かに私の背中を押してくれたのだ。
「何だか……少し気持ちが楽になった。何をすべきか、自分が何をしたいと思っているのか、分かったような気もするし。……相談に乗ってくれてありがとな、蒼司」
「いえいえ、どういたしまして」
私が吹っ切れたのが分かったのだろうか。蒼司は柔らかく微笑んでそう答えたのだった。
結局、私が絵のモデルを務めたのは、この日も三十分ほどだった。蒼司はその間、数枚のスケッチを仕上げた。蒼司はかなり筆が乗っているようで、絵のタッチも力強い。弾んだ表情を見るに、かなり絵の構想が固まってきたようだ。
私はと言えば、相変わらず自分の姿が描かれた絵を見るのは恥ずかしく、背中がムズムズしてしまうけれど、心なしか絵の中の私は徐々に表情が柔らかくなっているような気がした。蒼司が絵を描くのに慣れてきたのか、私がモデルをするのに慣れてきたのか。おそらく、その両方だろう。
いよいよ夜も更けてきたので母屋に戻ろうかと思っていると、最後に蒼司は私へ声をかけてきた。
「あさってから、一年生は宿泊研修だそうだね。ここ数日間、会えなくなると思うと淋しくてたまらないよ」
「なに言ってるんだ……小さな子どもじゃあるまいし」
「好きに老いも若きも関係ない。人間は本当の恋をしたら、年齢なんて軽々と飛び越えてしまうものなんだよ」
「はいはい、分かった分かった」
蒼司は何ら曇りのない純粋な笑顔をにっこりと浮かべた後、ふと大切なものを見守るような、優しげな眼をして付け加えた。
「くれぐれも気をつけて、楽しんでおいで」
「……うん。行って来る」
私はそう返事をし、アトリエを後にした。
宿泊研修まで残り一日。悠衣と男鹿の問題は、もはや先送りできないところまで差し迫っている。
悠衣と男鹿は互いに想いあっているのは間違いない。それを考えると、まったく関係修復の芽が無いわけではないのだ。二人の間にできてしまった亀裂を埋め、すれ違いの軌道を修正できれば、仲直りできる可能性は十分にある。
何が正解かは分からないけど、できるだけの事をしよう。あの時、ああしておけば良かったと後悔しないように。
私はそう心に決め、母屋に向かって歩き出した。
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