お下がりのワンピース

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 小学校の頃、みんなおさがりを嫌っていたけど私はむしろ嬉しかった。  すごく短絡的だけど、それだけで敬愛する姉に近づける気がしたのだ。  全面鏡の前でワンピースをふわりと翻す。  澄み渡る空いっぱいにうろこ雲を垂れ流したようなこのワンピースも、高校生の時に姉から譲り受けた物だ。   『ゆいちゃーん。そろそろ学校いかないと遅刻しちゃうよ?』    小学四年生まで手を繋いで登校したものだ。冷え性の姉の手はいつも冷たかったのに柔らかく不思議と優しい感触だった。  母譲りの淡い茶色の髪に華奢な体躯にも関わらず、姉が発する気配というか、存在感のようなものは他の誰よりも強かった。  その上快活で明るく、友達の多い姉に、私は羨望と尊敬を向けており、幼心に『お姉ちゃんみたいになりたいな』と思っていた。   五年生からは姉は中学生になってしまったので一緒に登校はできなくなってしまったけど、四年間で染み付いた感触は残っていたし、着ている服は姉のおさがりだったから、そこまで寂しさは感じなかった。     そんなことを思い返しながら、私はまだ鏡の前に立っていた。皺は寄っていないか、糸くずは付いていないか、なんども確認する。  いつも不思議だと思う。  好きな人に会う時の、高揚感と不安が併存して、その二つが混ざったような……、違う。きっと一つの感情なんだ。私は根拠もなく、そう確信した。  まだ名のない感情。  きっと姉もこの思いを湛えてこのワンピースを着ていたのだろう。これもまた、根拠と言える根拠はない。    姉がはじめて家に恋人を連れて着たのは、彼女が高校に上がったあと初めての夏休みのことだ。    うだるような夏、を眼前に、クーラーの効いた部屋で宿題と格闘していた時のことだ。  私は夏休みというものが得意ではなかった。  あまりにも自由すぎたのだ。  姉になりたいと願っていた私にとって、学校生活という枠組みの中で過ごす方がずっと姉に近づけた。  それに、姉の存在も脅威に感じた。  姉が妹として私に接するということは、すなわち私は姉でないということを証明されてしまうということだった。 姉に妹として接されることで、私はいつまでたってもなりたい自分に、なりたい姿にならない気がして。  そんな気分に悩まされながらもなんとか英語の宿題を終えると、戸を叩く音が聞こえた。    「結衣、ちょっといい?」    言葉のあと、あのワンピースを着た姉が戸を開いた。姉について誰よりも詳しい私だがそのワンピースに見覚えは無く。昨日友達と出かけると言ってたけどその時買ったのだろうか。  推察しながらも私が返事をすると姉は虚空の散らばった言葉を探すように目を泳がしたあと、意を決したように私を見て告げる。   「彼氏、紹介するね」    彼氏。まだ初恋すら知らない私にとって、それはあまりに遠く、英語よりもずっと理解の及ばない言葉だった。 私は曖昧に返事をした。下にいる母にはもう話したのだろうか。漠然と益体のないことを思い浮かべている私の意志を裂くように、   「はじめまして。えっと、お姉ちゃんの彼氏の悠斗です。よろしくね、結衣ちゃん」    彼は現れた。  まるで彼の方向に全部の重力が働いているように、目が、離せなかった。  優しげな目元、八重歯のある白い歯。整えられた髪、少し強張りながらもそれを隠そうとする仕草、振る舞い、それから逆算される性格。全部、好きになる。  それが一目惚れとわかるまで一瞬とかからなかった。  それが恋と知るまで一瞬とかからなかった。   「姉をよろしくお願いします」    そしてそれが失恋へとかわるまでも、また一瞬とかからなかった。  仰々しいもの言いに姉は目を丸くして、彼は笑う。  姉が相手ではしかたない。本心だった。  羨望はあれど嫉妬はない。でもやはり心の片隅には寂しさがあった。  姉が取られることにじゃなく、姉に取られることが寂しいと感じることを、私は理解しないよう努めた。    それからも休日になると姉はよくこのワンピースを着て出かけたり、家に彼を呼んだりしていた。  なぜそのワンピースばかりなのかと訊ねると少し照れて目を伏せながら「似合ってるっていってくれたからさ、嬉しいかったからってのもあるけど、他の服を着るのが怖くて」と言った。  その時の表情は今でも覚えている。当時の私にはまだ理解できなかったけれど、でも今はわかる。きっと同じだから。  リビングに向かい天気予報を見る。五月を向かえうららかな陽気が続いている。一週間の予報も可愛い太陽のキャラクター並んでいる。  それなのにリビングの一角にはの毛糸と手袋とマフラーが置いてある。いや、飾られている。テレビの隣、少し高い所に。朗らかに笑う姉の写真とともに。      姉が入院し始めたのは私が高校に上がった年の秋のことだ。 夏休みの終わりから風邪や体調不良が続き、大きな病院で診察を受けた姉に突きつけられた病名は、彼女らしくきれいな名前だった。    白血病。    発見は少し遅かったが現在医療においては決して治らない病気ではない。  姉の担当医は明るく話してくれた。   「夏休み増えちゃったな」 「受験あるのにな」    不安を圧し殺すように笑う姉を見ているのは辛かったけど、それでも毎日病院に通った。   姉の彼氏もよく顔を出してくれた。姉たちと同じ学校に入学した私は、次第に学校から二人で病院に向かうようになっていた。  初恋の人と乗る電車に浮かれることができるほどの精神状態になく、いつもほとんど会話はなかった。それでも二人で通うのは、一人でいられないほど怖かったんだと思う。お互いに。  担当医の言ったように治療を始めるにつれ白血病細胞は数を減らしていき、完全寛解とまではいかないものの白血病の主症状は減少していった。  そう。白血病は。  その病気の怖いところはそこじゃない。免疫の低下と化学療法による病気の併発。それこそが白血病の怖ろしさなのだ。    私は毛糸の帽子を手に取る。姉が好きそうなカラフルな色彩のそれは、私には似合わない。当然、両親も。  そういう色合い自体は好きだ。それは姉が身につけていたから、とかではなく純粋に趣味だから。  このワンピースだって、初めて見た時から好きだった。ただ似合うか似合わないか、という話になるとやはり姉の方が似合ってしまう。 それでも譲ってもらった時は嬉しかった。    併発した病気は回復の見込みはたたず、姉はどんどん衰弱していった。姉のいない家はまるで音と光が消え失せたかのように暗くなっていた。  病室での両親は反比例するくらい明るく振る舞っていたから、どこか滑稽にも感じた。そういう可笑しさを客観的に見つけることで私はなんとか耐えていたんだと思う。  対する姉は。  大人びた。という言葉が適切かどうかはわからない。ただ、纏っていた活発気配が剥がれ、静かなものへと変貌していた。    その正体が諦観によるものだと知ったのは、それから一週間ほど後のことだった。   「ねえ、結衣」    休日、病室で姉と二人きりだった日のことだ。  姉はだいぶ伸びた前髪を手で梳くと、呼吸を整え続ける。   「お願いがあるんだけど」    私は一度家に帰りリュックを背負って病院に戻った。  看護師に姉を車椅子に乗せてもらい、それを押し、外に出る。  もちろん外出の許可なんて出ていない。  私は公園まで行くと姉にリュックを託した。姉は一人で多目的トイレに入ると、ワンピース姿で出てきた。  薄手のワンピースは落ち葉舞う季節にはあまりに寒そうだったが、姉は何も気にしない様子でふわりと回る。あんなに寝たきりなのに立てるのが不思議だった。 ――死がなぜ怖いか。  それは時間という財産がなくなるのが嫌だからだ。ただ、時としてその財産をすべて払って手に入れたいものがあることがある。自由か、あるいは無か。  姉は自分の財産が残り少ないことを知ってしまった。あとは貯金が消えていくのを待つだけということを知ってしまった。そしてそれをすべて払ってでも手に入れたいものがあることを思い出してしまった。   「もう一度、彼と歩きたいんだ」    空の車椅子とともに、二人で電車に揺られる。  高校の最寄りの河川敷。始めて二人で手を繋いだ道らしい。そこをもう一度。あの時は制服だったから、今度はワンピースで。  そのくらい良いじゃないか。私はハンドルを強く握り震える手を黙らせた。  扉が開くと同時に姉は西日へと勢い良く飛び出す。敢えて少し距離を取り私は姉の後に着く。姉はきっと、二人で歩きたいだろう。恋人のいない私でもわかった。  河原に彼が居る。姉は嬉しさのあまりスキップしようとする。が、足がもつれ転ぶ。  違う。   倒れたのだ。    姉は奇跡的に一命を取り留めた。  私は父に怒鳴られ母に殴られたが後悔はしてなかった。 目を覚ました姉は一度私に「ごめんね」といった後ため息を吐いた。   「お姉ちゃん、もう着られないからさ。これ結衣が着て」    私はただ頷くことしかできなかった。  そうやって、結局財産のほとんどを出して、それでも出しきれなくて、たった一つのささいなものを手に入れることもできずに、姉は息を引き取った。    後悔はしていない。  葬式で、私はずっと念じていた。もう握る車椅子のハンドルもない。それでも、空の手のひらが血で滲むほど握り続けた。  葬式には彼も着ていた。  涙を流す彼の姿。  姉という蓋が無くなったからなのか、私は溢れる感情に飲まれた。恋心なんかじゃない。   濁流のような、罪悪感。  私は逃げるように家に帰ると、ワンピースを手に取った。彼もきっと姉と川辺を歩きたかったんだろう。それは果たさないといけない。姉のために、彼のために。    姉のようになりたい?  違う。  姉になるんだ。    私は帽子を一度かぶり、リビングの鏡で確認する。やっぱり似合わないなあと笑う。  そしてテレビを消し玄関へと向かった。    両親に決心を悟られないように少しずつ変わっていった。所作や立ち振舞。趣味も同じだし、ずっと見てきたから簡単だった。誰かの妹では無くなった分、容易かった。自分が姉になることで姉に対する寂しさもあまり感じなかった。  果たせなかったもののため、彼とも連絡を取り続けた。もちろんそうでなくても彼は仏壇で手を合わせるため着てくれたのだけど、私はもっと沢山会わなければいけなかった。姉もそうしていたのだから。    三年生になった私は近くの大学を志望した。彼が通い、姉が通うはずだった大学だ。受験勉強は大変だったけれど、彼が教えてくれたから大丈夫だった。むしろいい口実ができて嬉しかった。だんだんと、彼は「お姉ちゃんに似てきたね」と言ってくれるようになった。でもその言葉を発する時、彼はいつも虚空を見つめていた。 ここにいる姉の姿を探すように。    そうして、合格発表日。  私は空色のワンピースを着て、川辺を呆然と眺めていた。 合格したこととともに、彼にここに来るように頼んだのだ。 照り返した夕日が目を刺したけど、私はそのまま眺め続けた。昼に茶色く染めた前髪を、手で梳く。   「結衣ちゃん?」    心臓が高鳴る。これは怯えている時の鼓動だ。   「なんで」    彼の目にはどう写っているのだろうか。表情を伺おうにも、太陽の残滓が視界を覆う。  彼の気配が猛然と近づくと、ぎゅっと引き寄せられた。   「ごめん」    苦しいくらい抱きしめられながら、私の耳を震える声が叩いた。   「わかってたんだ。君がそうやってお姉ちゃんになろうとしているの」     彼は声をしゃがれさせて続ける。   「君は君でいいのに」   違う。   「まって、泣かないで。」    私は泣いてもらうために姉になったんじゃない。  胸が締め付けられる。  結局、あの失恋以来彼に対する恋慕なんて、どこにもなかったことを思い至る。      空にうろこ雲を垂れ流したかのようなワンピース。明るい髪の姉には似合って黒くて地味な私には似合わない。  だから。   『もう一回、最初から会ってくれませんか。あの場所で』    そんな簡単なメッセージを送れたのは卒業した後だった。  彼はすぐに返信をくれ、私達は会うこととなった。   凝りもせずワンピースを着てきた私を少し驚いたようだが、すぐに納得したように笑った。  私は黒く染め直した髪をくるくると指に絡ませて笑顔を返す。  風に吹かれ、ベージュのコーディガンが空気を孕んだ。    だから、自分に合う着方をすることにしたんだ。  これなら、落ち着いて見えるから、私にも華美に見えず、似合ってみえる。    私は姉にはなれない。  姉を標榜にした私だからこそ、生み出されるものがある。  雲と空の狭間の色のように。                     
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