名前のない関係の私たち

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名前のない関係の私たち

 好きな人がいる。 「お会いできて、光栄です」 「可愛らしいです。よくお似合いですよ」  会いに行くと、彼はいつも丁寧に迎えてくれた。いつもと違うおしゃれをしていると、必ず気づいてくれた。  彼のアプローチのひとつひとつが、心地よかった。行き届いた接客は、未熟な私を簡単にときめかせた。  カウンターの向こうでしか会えなくても、それで充分だった。アニメの主人公と同じ、触れられないはずの存在だったから。 「ご一緒、致しませんか……?」  どんな話の流れでそうなったのかは、正直覚えていない。  彼と、デートすることになった。  SF系の映画を見に行った。  博物館の展示を見に行った。  おしゃれな喫茶店に行った。  バーへお酒を飲みに行った。  誘われる度に感じていた罪悪感は、彼に何度も会う内に気にならなくなっていった。  経験の少ない私と比べるまでもなく、彼は異性の扱いに慣れていた。肩を抱き寄せる動作一つでも、さり気なく、嫌味がない。  惹かれないはずがなかった。  もっと触れてほしいと願うのに、自分からは手を伸ばす度胸もない。彼のファンに出会う度、滲み出る不安は見ないふりをした。 「あなただけにしか、しませんよ」  特別扱いされて、不安なんて吹っ飛んだ。  こんな簡単に喜んでしまうのだから、私はちょろい。彼の掌の上で、ころころと転がされているくらいがちょうどいいんだ。  きっと。  だから、余計に驚いた。  軽く抱き寄せられたことは、今までにも何度かあった。でも、こんなに強く抱きしめられたのは初めてだったから。  余裕がない彼の姿に、私は戸惑った。 「あ、の……」  身じろぐと、私の背中と腰に回った腕に、また少し力がこもった。胸の中に閉じ込められて苦しいくらいだったけれど、頭の中がぼうっとなって動けなくなった。  このかすかにスモーキーな香りは、一体何の香りなんだろう。ずっと、感じていたくなる香りだった。 「……さゆり」  耳元で、彼が私の名前をささやいた。  私が顔を上げたらきっと、私たちは一線を越えてしまうだろう。
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