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その日の夕方
「いま駅にいるんだ」
LINEが来た瞬間から、私はどうやって家をあけるか、そればかり考えていた。
「ちょっと出てきます」
納屋の横にとめた自転車にまたがる。
この街に嫁いできて1年。
きついことを言えば都会から来た嫁は、すぐいなくなってしまう。そう考えているのか、家族は皆私に優しかった。それなのに、ここに来たときから私には秘密はいくつかあった。
時折、ごめんなさいと心の内でささやいた。
子どもができないのは隠れてピルを飲んでいるから。
「目つむって、昔好きだった人の顔とか、アイドルとか想像するの。そしたらすぐ終わるって」
こっちに来てからできた数少ない友人の
麻里はそう言う。麻里も都会から結婚でこの
集落に来た。けれどこちらの暮らしにもうすっかりなじんでいる。
毎日の暮らしと引き換えにするなら
なんでもないこと。平気なふりでいること。そういうことが私にはつらかった。
迷った末 ワンピースを着て家をでる。
麻の入った綿素材で、風をうけるたび
ストライプの生地がふわりとふくらむ。
「急に呼び出してごめん」
駅につくと本当に正志がそこにいた。
「出張で近くまで来たんだ」
「‥‥‥」
「顔だけ見たかった」
正志はまぶしそうに私を見た。
「元気そうだな。若奥さんてかんじ」
「そう?」
川沿いの道を歩く。
「次の電車で帰るよ。夕飯時に悪かった」
電車は1時間に一本。
(まだ、帰らないで)
(結婚、まだしてないの。
無理言って籍入れてないの。
毎晩ずっと正志のこと考えてた)
それが言えない。いつも思ってたことが言えない。
正志が時計を見る。それから、歩みが遅れた私の方を振り返った。
「なんで泣いてるんだよ」
正志の顔を見られない。
次の瞬間、強い力で抱きしめられた。
「電車遅らす」
山の稜線に陽が落ちる一瞬、強い光が私たちを包んだ。
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