05

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「なるほど。この花は匂いがとても強いから、吸い込むと具合が悪くなるのか。根が薬にもなると聞いたし――すごいな」  以前倒れこんだ、内廷の中でも一番大きな庭園を横切りながら、センはこれまでに得た知識を口の中で呟いて吸収する。雑多で生きていくことに必要があるのか不明なことでも、翼飛は学ぶことが好きな種族だ。そうやって少しでも覚えて、雲上の国に住まう皆に話す土産ができたらいいな、とセンはほくほくとしていた。  センは『応』という、神の世話役として生きてきた。翼飛の者たちとも縁遠かったが、例外として姉や父など、肉親とは親しく話すことができた。父はもういないけれど、翼飛の中でも群を抜いて美しいと誉れ高い姉のことを思い出す。 (……本当に恥ずかしいな。陛下もこの国のみなも、姉上のことをお望みだったのだろうに)  『応』は翼飛の中で一番格が高いとされている。一番高貴な、そして子を孕むことができる存在となると現在はセンになるので、こうやって禮まで送り出されたのだが。春が来て、誤解が解ければ今度こそ姉が禮王の許に嫁ぐだろう。翼飛たちは禮の王族が好きだ。姉だって、例外ではない。センが禮に向かうことが決まった時、姉は喜びつつ惜しんでくれたが、きっと姉の番が来たとなれば喜ぶだろうな、と思うし、それで良いのだとも思う。自分が本当に番いたかった相手は、自分のことすら覚えていないようだから。 「……あれ?」  花に気を取られてしまい、似た建物が続くところで迷ってしまった。今は禮王に頼まれて書簡を運んでいる途中だ。初めてのお使いだからと、センの身体を検めたあの若い医官にあてた書簡なのだという。一度案内され、覚えたと思ったのだが、さすがに王宮の中は複雑な造りをしている。敵の侵入を防ぐために、よくできている。空に飛びあがったところで、上空から建物の中が透けて見えるわけでもない。  元に戻って聞き直そう、と踵を返したところで、大きな体躯のオオカミが目の前に現れた。気配もなく忍び寄ってくるのは狩る側の特技なのだろうが、センはあまりにも驚いて飛び上がった。無意識に逃げようとして、翼を動かして飛び上がりかけたが、きゅうーとオオカミが小さく鳴いた。怖くないよ、と言われているようだ。ドキドキとしながらも、センはオオカミを見やった。 「お、おれのこと食べたりしませんか? ……オオカミの顔の神さま」 「だから、お前のようなやせ細った小鳥など誰も食べぬ」  すっかり座り込んでパタパタと尾を振っているオオカミ。しかし、声はセンの後ろから聞こえる。そう思って、振り返り――ぬっと現れた長身の男に、「うわあっ」とセンは短く叫んだ。  飛び上がろうとしたのだが、翼よりも足をじたばたとさせてしまったせいで均衡を崩してしまう。尻もちをついた翼飛を、腕組みをし、銀糸に暗い青という色合いの上衣を纏った長身の男が見下ろしている。  まさか、飛び立つのに失敗するとは。あまりにも恥ずかしくて顔を赤くしながらも相手を見上げる。精悍な風貌は微笑むなどということはなく、鋭い鳶色の瞳がセンを見ていた。その顔は、最初、この地に降り立った時にセンが真っ先に飛びついた男のものだ。呆然としてまったく動かないセンに、男は無言で手を指し伸ばしてくる。その手を握り返そうとしたのだが、男はセンの腕を掴むと力を入れて立たせた。同時に、座り込んでいたオオカミもすくっと立ち上がり、センに頭を摺り寄せる。 「助けていただき、ありがとうございます。驪竜さまが、オオカミ顔の神さまの、本体だったのですか?」 「オオカミ顔の神? 一体、何の話だ。それより、医官の灰羅に書簡を届ける途中ではなかったのか」  センの問いかけに男は渋面を作り、それから庭を突っ切った向こうにある一つの建物を指さした。よく見ると、その建物の装飾は白で縁取られている。医官がいる、というしるしなのかもしれない。 「ありがとうございます。――実は、迷っていたので」 「……だろうな。俺がここの近くを通って、戻ってきてもまだいるのだから。伯皓に引っ張られて来てみれば……翼があるのに、どうやって転ぶことができるんだ」  伯皓、というのがオオカミの名前なのだろうか。それよりも、先ほど思いっきり尻餅をついたことを驪竜に揶揄されて、センは更に顔を赤くさせた。 「……お恥ずかしい限り……」 「身体の弱い翼飛が、地上の国でやっていけるのか? 地上にも雪が降る前にとっとと故郷に戻ったら良いのではないか」  驪竜は薄い鳶色の瞳でセンを見やり、王ですら言わなかった言葉を放つ。センは恥ずかしいのとはまた違う感情で顔を赤くすると、ふい、と驪竜から視線を逸らした。幼い頃、センは確かにこの男――驪竜と約束をしたはずなのだ。それはすべて間違いだったらしいと分かっても、やはり諦めがなかなかつかない。  男の冷たい言い方に、センは色んな感情がこみあげてくるのを必死に抑えた。地面を見ているうちに涙が出そうになるのを堪えて、口を開く。 「おれはっ! ここで、禮王陛下のお役に立つために来ました! 今さらおめおめと故国には戻れません。陛下も、この冬はいても良いと仰った。翼飛は、少しでも多くの知識を後世に遺すことが一番大事なこと。おれの身体がどうなろうと、この地で役に立ち、知識を得なければ生きている意味などないのです!」  冷静な自分が、「意味が分からない」と心のどこかで文句を言った。驪竜にまくし立ててしまうと、センはそのまま一足飛びに医官が詰めている建物へと駆け寄った。オオカミはとても優しそうなのに、その主は意地悪に思える。 (あんな意地悪な方だと、思わなかった……!)  あの時。約束を必ず果たす、とセンに誓ってくれた少年は、どこにもいなかったのだ。『応』として、荒天の日だろうがなんだろうが必死に神への供物を運んだのは、いつの日か、あの少年と番いになるためだったのに。  興奮のせいで翼が広がりきり、扉に引っかかって通ることもできず恐慌状態になったセンを迎え入れたのは、必死に笑うのを我慢する若い医官だった。
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