09

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 柳に翼を摑まれた出来事から数日は、伯皓の遊び相手として驪竜の私室に留まることになった。いつまでも驪竜の寝台を占拠する訳にもいかず、赤麒殿から通うことにしようと思うと、ある朝驪竜に話すと、気にせず使えば良いと返されてしまった。  確かに赤麒殿に戻っても、会話できる誰かが常にいるわけではない。紫麟殿で寝泊まりできるようになったのは嬉しい。驪竜が人嫌いということもあってか、赤麒殿よりも使用人の数が少ないのも嬉しい。紫麟殿の使用人の中には、柳の他にもセンのことを妖か何かだと思っている者も最初はいたようだ。驪竜がセンのことを使用人たちに紹介してくれて以降は、あからさまな嫌悪を向けられることはないものの、予想外の客人に戸惑っている雰囲気を感じる。 「それは、何をしているのですか?」 「ああ、これはね。干していた果物を細かくしているんだよ」  伯皓が寝ている時は、台所に顔を出すことが日課になりつつある。台所に柳が寄り付かないのもある。年老いた男女たちがあくせくと働いているのだが、彼らはセンのことを特別気にすることもなく、質問すると楽し気に返してくれるのが何よりも嬉しかった。紫麟殿には年配の者が多く、一番若いのが柳だという。柳は元々地方を治める伯の家の子どもらしく、先の戦で驪竜にほれ込み、紫麟殿に押しかけて来たのだという。 「果物! 翼飛のみんなも、大好きだって聞いたことがあります」 「そりゃみんな好きだろうさ。センも食べるかい?」  台所の中でも、一番センを可愛がってくれているのが年長の朱(しゅ)だ。丁寧に切り分けられていく干した果物を見て、センは困ったように笑いながら首を横に振った。 「お気持ちだけで、十分です。決められたもの以外を食べたら、神さまのところに飛んでいけなくなるから……春になったら、翼飛に帰らなくちゃいけないので」 「え? 帰るなんて話、聞いてなかったのに……そうなのかい。せっかく紫麟殿にも可愛らしい子が入って、驪竜様も、伯皓も喜ぶとばかり……」  残念そうに返してきた朱に、センは首を傾げた。 「ハクは喜んでくれている気はします。……驪竜さまはどうかなあ」 「なあに、本当に迷惑ならとっくに追い出しているよ。あの方は大層な人嫌いだからね、陛下に言われたからといって、自分の寝所に気にくわないのをずっと置いたりはしないよ。柳のやつくらいさ、嫌がられてもしがみついているのは」  そうかなあ、とさらに首を傾げていると、いつもなら台所に詰めている一人が、慌てながら戻ってきた。センを見つけると「ああ!」と声を上げる。 「センだ! ちょうどよかった。あんた、空を飛べるんだろう? 驪竜様の御召し物を干していたら、飛んでいってしまったんだよう。どうか、取ってもらえないかねえ」 「どのあたりですか?」  センが軽く請け負うと、話しかけてきた中年の女性は安堵の表情を浮かべた。  紫麟殿の西側にある小さな庭に行くと、洗濯物が干されて風にはためいていた。使用人たちが数人、紫麟殿の屋根の上を指して騒いでいる。それほど風は強くないが、突然強い風が吹いてきたのだと、その場にいた者から聞いた。 「あの屋根のところに引っかかっているんだよ。私らじゃ届かないし、かといって、驪竜様がとても大事にされているものだから、失くしたとは言えなくて」 「ああ、あの青い布」  よいしょと背を伸ばすと、屋根の上でふわふわとしている青いものが見える。黒い双翼を思いっきり羽ばたかせると、地面を強く蹴ってセンは飛翔した。ずっと地上を歩いていたので久しぶりに飛ぶと気持ちが良い。風を上手につかみながら屋根に近づき、青い布を捕らえる――が、そんなセンに思いっきり何かがぶつかってきて、均衡を崩してしまった。 (あ、青い布が……!)  ただ青く染められただけでなく、その布は細かい刺繍が施されているのが見えた。冬の間、翼飛の女性たちが手慰みに作るものに似ている。センも亡き母からもらった、同じ色の布を持っていた。しかし、いつの日からか失くしてしまったことを思い出す。きっと、あの布も驪竜にとって大事なものなのだろう。  何とか取り戻そうとしたものの、センにぶつかってきたもの――大きなカラスは、センよりも早く体勢を立て直すと、ぱっと青い布をくわえて飛んで行ってしまう。 「ええっ?! うそだ、待てって……うわっ」  カラスを追いかけようとしたその時。運悪く突風が吹いた。センも風に煽られて、近くの塔に体を打ち付けてしまう。 「セン!」  下から、大きな声がセンの名前を呼んだ。何とかそちらに方向を変えて、ふらふらとしながらも降りていく。今度は、風に邪魔されなかった。ふらふらと落ちてきたのを、駆けつけた驪竜が抱きとめてくれた。 「お前、怪我は――」 「ご、ごめんなさい! ……驪竜さまがとても大事にされているものだって聞いていたのに……か、カラスが持って行ってしまって」  センを呼びに来た中年の女性をはじめとして、使用人たちが怒られてしまうかもしれない。それよりも、驪竜の大切なものを、手の届かないところにやってしまった。そんな自分の不甲斐なさに打ちのめされ、必死に謝っていると、驪竜はセンの顔を覗き込んできた。 「お前の命と比べようがないだろう。それより、身体を打ち付けたのではないか? 灰羅を呼ぶから、部屋に戻るぞ。……お前たちも、布が飛んでいったくらいで慌てずとも良い」  そう言い放つと、足早に紫麟殿の中へと戻っていく。どこからともなく、カラスが人を嘲笑うように鳴いているのが聞こえた気がした。  それに反応し、「カラスのせいだ……」と小さくセンは悔しげに呟く。その呟きを聞いた驪竜が、これまた小さく笑いを零すのが聞こえ、センは目を丸くするのだった。
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