村八分?そんなことするんやったらお地蔵さんをぶっ壊してやる。

1/1
前へ
/8ページ
次へ

村八分?そんなことするんやったらお地蔵さんをぶっ壊してやる。

(三)キリスト教徒への道    休職が決まってから、耕輔は自堕落な生活を送っていた。もう何も愛することも出来ないし、信じることもできない。カルト宗教からも足を洗うことになった。せっかくの卒業生であったが、送り出せないままに終わるのだ。とにかく遊び回った。現在では教師が鬱病で休職したら「あまり外へ出歩くな」という指示が管理職から出る。世間様の目が厳しいからだ。しかし、この頃はまだ教師の鬱病も少なく、教師にとっては平穏な時代であったのだ。  また、心の中では志恩ちゃんを愛していても、思い出すと心が取り乱されるので、彼女との関係のあるものへは一切近づかなかった。例えば、「パッヘルベルのカノン」は彼女との思い出のある曲だったので一切聴かなくなった。合気道の道場も行かなくなった。  そして何をしていいか分からなかった耕輔は、先ずは卒業生に電話を入れた。何人かの女子生徒の卒業生が遊びに来た。遊び回るのもつまらなくなってくると、英会話を習い始めた。英語の教員免許は持っていたが英会話には自信がなかったからである。そして、復帰を目前に控えて韓国へ遊びに行った。  卒業式の案内が来たが、耕輔は卒業式にも出なかった。  そんな折、志恩ちゃんの幼なじみであった島元さんから手紙が来た。手紙には「○○キリスト教会」と書いてあった。  「何だ、キリスト教か。馬鹿にしやがって」と思って封を開けた。4枚の便箋にキリスト教がいかに優れた宗教か、また、罪が許されて天国へ行けるのはこの教え以外にないなんて言う意味のことが書かれていた。あまりの馬鹿馬鹿しさに読む気もしなかったが、最後の方に添えられていたパウロの言葉だけが心に残った。  「私の強さは弱さの内に完全に表れる」  そう。彼女は耕輔の「弱さ」を知っていたのだ。教師という職業柄、弱さをおくびにも出せなかったそれまでの耕輔であったが、こんな小娘にも分かるくらいに耕輔の心は脆かったのであった。  「まあ、からかいにでも教会とやらへ行ってやるか」  そう考えて4月に学校へ復帰してから教会へこっそりと忍ぶように出かけた。目的は牧師を「からかう」ことである。  車で二〇分も飛ばしたら目的の教会があった。呼び鈴を鳴らして呼びかける耕輔。  「あのー。牧師先生に相談があるのですが---」  間もなく牧師が出てきた。まだ若い青年牧師である。年齢は耕輔よりも少し上といったところか?耕輔は切り出した。  「Excuse me. Are you a paster of this church?」  「Sure. please come in.」  そして英語でいきさつを説明した。三〇分くらい英語での話し合いが続いたが、牧師もきちんと英語で答えた。後から分かるのだが、かなり有名な牧師で、英語なんかお手の物だったようである。そして耕輔は日本語で切り出した。  「イエス・キリストや使途の時代は癒やしなんかいくらでも起こっていましたよね。今ではそれはなくなったのですか?」  牧師は即座に答えた。  「いえ。ありますよ。聖霊派の教会なんかは癒やしを行うことで有名です」  「そんな所があったのか?母の行っていたキリスト教会には癒やしなんかなかった。それが当たり前のキリスト教だと思っていた」  そして牧師は耕輔にヨハネ伝のニコデモの出てくるところを読んで欲しいと告げた。また、「『神は私を愛している』と言って下さい」とも付け加えた。  教会から帰ると、耕輔は島元さんに電話を入れた。  「教会へ行ったけど何もなかった。でも牧師は英語が上手かった。なかなかやるじゃないか」  「ええ?○○先生と英語で話したの?」  「ああ、神を試したらいけないが牧師をためしてもいいんだろ?でも教会へは行けない。志音ちゃんも行ってるらしいじゃないか」  そう。そんな教会へ行けば恩音ちゃんと鉢合わせである。どんな気まずいことになるか想像もできない。  しかし、耕輔はとりあえず聖書というものを読んでみようと思った。この子達がなぜこんな教えにだまされたのか興味もあった。  耕輔は大学時代にニーチェの信奉者であり、キリスト教なんかは弱者が強者に対抗できないから生み出した奴隷道徳だと本気で思っていたからだ。また、ついこの間まで入っていたカルト宗教に未練もあった。そのカルトは「聖書や仏典などはカビの生えたような書物であり、我が教団の出す機関誌を読んでいれば真理がわかる」と訴えていたのだ。しかし、志恩ちゃんが言っていたことがある。  「聖書や仏典のように何千年にもわたって読まれているものの方がすごいと思うよ」  そして、聖書を読むうちに、あのカルト教団の言っていることに少なからず疑問も沸いてきた。例えば、その教団では天使ミカエルを崇拝していたが、「天使崇拝はいけない」とはっきりと書いてあった。また、パウロの師ガマリエルの言葉として、「これが正しいものならば残るだろう。間違っていたら消えていくだろう」とも述べられていた。実は、このカルト教団は教祖の死とともに地上から姿を消してしまったのである。まあ、そうなるのはこの何十年も先のことであるが---。             *  やがて、耕輔は島の学校へ転勤になった。島の学校というとのどかな学校を思い浮かべる方が多いと思うが、耕輔の赴任した学校は荒れていた。授業をまともに聞こうとする生徒などいなかった。教室へ一歩入ればそこは「野獣の檻」であり、教室の後ろでは紙麻雀をしたり、実習用の長靴でキャッチボールなんかをしている生徒が大半であった。  耕輔はつくづく島の学校に転勤したことを後悔した。しかし、志恩ちゃんのことは忘れたことがなかった。そして島元さんとの連絡も続いていた。  「また宗教にでもおすがりするか」そう思った。  こうして、耕輔はあれほど嫌いだったキリスト教の「教会遍歴」を始めた。やってることは志恩ちゃんとなんら変わることはない。 また、耕輔は「洗脳」されることを望んでいた。なぜなら、既にカルト教団で洗脳された経験を持つ耕輔にとって、「洗脳されたら楽」だということが身にしみてわかっていたからである。だから、耕輔はカルトに代わってキリスト教によって洗脳されようとしたのだった。しかし、どこのキリスト教会へ行ってもとおり一辺倒の道徳を説くだけであって、耕輔の望んでいた「洗脳」とはほど遠いものであった。  洗脳する方法は簡単だ。イエス=キリストや使徒達の時代のように何か奇跡を見せて有無を言わせないようにすればいいのだ。  先ず、耕輔が目を向けたのが、母が通っていた教会であった。そこで牧師からとんでもないことを言われた。  耕輔はこの教会に電話をかけて、疑問をぶつけたのだ。  「あのー。この教会では病気は治るのですか?」  「何言ってるのですか?病気の治る教会なんかあるのですか?」  これが返答であった。では、イエス=キリストや使徒達の行ってきたことは何だったのだろうか?そんな疑問が耕輔の脳裏に去来して離れなかった。そして、頭の中にある言葉が浮かんできた。  「神は死んだ」    耕輔は別の教会の門を叩いた。中から耕輔より少し年上で眼鏡をかけた牧師が出てきた。耕輔の聴きたいことは一つしかない。その唯一の疑問をぶつけてみた。  「あのー。この教会ではイエス=キリストや使徒達の時代のように病気が治ったりするのですか?」  「はい、治りますよ」  即答である。余りにも簡単に言うので耕輔は面食らった。  耕輔は自分が病気になった経緯をくどくどと牧師に述べた。すると牧師は考えようともせずに、また即答で返してきた。  「あなたが病気になった原因は、その女の子ですね。あなたは女性を見たらどう思いますか?」  耕輔は返答に窮した。女性を見たらって、様々な反応はあるだろうが、一概に答えようがない。しかし、牧師は即答した。  「私ねえ、犯したくなるのですよ」  「(こいつ何てこと言うんだ?本当に牧師か?)」  「でもね。聖書には『見て姦淫する者は姦淫を犯した』と書いてあるんですよ。どうします?」  「さあ---(この人は何が言いたいんだ?)」  「でもね、それは罪だから全ての人は罪を犯しているんです。その罪の身代わりになってイエス様が十字架についたことを信じることによって罪が許されるのです。罪が許されたら天国へ行けるのです」  「何だ。○○学会の折伏と同じじゃないか。この人は私を折伏するつもりなんだ」  その後、耕輔はこの教会へ幾度か足を運んだ。無料のカウンセリングを受けるような軽い気持ちでしかなかった。しかし、やがてはこの牧師と対立することになる。  ある日のことである。耕輔は「カウンセリング」を受ける気持ちで牧師に電話を入れた。すると、牧師から意外な解答が返ってきた。  「あなたは生徒を愛してますか?」  「いいえ」  耕輔の勤めていたのは教育困難校であった。授業さえまともに聴こうとしない生徒なんか愛せるわけがない。すると、また意外な答えが返ってきた。  「じゃあ、どうして先生なんかやってるのですか?」  耕輔は怒りと悔しさでいっぱいになった。生徒を愛したら生徒はおとなしく授業を聴くと思っているのか?教育現場を知らない人ってこんなことを言うのか。そう思って逆に牧師に聞き返した。  「じゃあ、牧師先生はどうなんですか?」  そして、次に牧師から出た言葉に耕輔は我が耳を疑った。  「私は世界人類を愛してます」  「(『世界人類を愛する』だって?そんなこと不可能だ。ドストエフスキーも『カラマーゾフの兄弟』の中でゾシマ長老の言葉として言っている。『世界人類を愛するという人は目の前にいる一人の人間も愛せないのだ』」  そんな時である。イラクの人質事件が発生した。牧師の目を覚まさせるために(何ていうことを考える程、当時の耕輔は傲慢であった)教会へ電話を入れた。  「もしもし○○先生ですか?今、イラクで人質事件が起こって先生の大好きな、いや愛する世界人類が喧嘩してますよ。なぜ止めに行かないのですか?」  「あなたは何を言いたいのですか?教会まで来なさい」  耕輔は放課後、車を飛ばして教会へ直行した。喧々諤々の言い争いになった。そして耕輔はドストエフスキーを持ち出してきた。  「ドストエフスキーが『世界人類を愛すると言う人は目の前の一人の人間も愛せない』と言ってるんです。そこで、先生が本当に世界人類を愛しているか確かめたかったのです」  「あのねー、ここは教会なんですよ。だから文学の話を持ち出されても困るんですよ」  耕輔は唖然とした。そして思った。  「(ドストエフスキーが単なる『文学』?その深い宗教性も、この人は『文学』の二文字で片付けてしまうのか?)」  それ以来、耕輔の足はこの教会からも遠のいた。  そんな時である。耕輔はあの教会の牧師の言ったことを思い出した。  「聖霊派では病の癒やしもやりますよ」  「そうか、ならばその聖霊派の教会とやらへ行ってみよう」  そして、アッセンブリース・オブ・ゴッド教会という教会の門を叩いた。丁度、水曜日の祈祷会が行われていた。先ず驚いたのが、聖歌の演奏にピアノだけでなく、ドラムやエレキベースやエレキギターなどを使っていたことだ。しかも音楽はけたたましい程で、みんなが手拍子をしながら大声で歌っていた。そんな音楽が何曲も続いた後、牧師が「では、祈って下さい」と言った。突然、みんなが聞いたこともないような言葉で祈り始めた。所謂「異言」である。  「何なんだ、これは?」と思っているうちに不覚にも耕輔の目頭が熱くなり、涙が頬を伝わってきた。  「聖霊だ!」  聖霊という言葉は聖書で聞いたことはあったが、実際に体験するのは初めてであった。そして、二~三度この教会へ足を運んだ後、耕輔は韓国へ飛ぶ。その理由は韓国にある同じ聖霊派の教会では「奇跡」が日常茶飯事のように起こっていると聞いたからだ。  期待に胸を弾ませ、耕輔は機中の人となった。ソウルまでは関西国際空港から一時間もあれば行ける。  当時はまだ仁川には空港はなく、金浦空港が韓国の空の玄関口であった。金浦空港に到着して重たいキャリーバッグを手荷物として受け取ると、円をウオンに両替してタクシーを待った。タクシーはひっきりなしに客を運んでいた。そして、タクシーに乗ると、教会の前のホテルまで直行した。目の前には世界最大という教会が見える。そこでタクシーを降りて、翌日の礼拝に出席することにした。   教会堂は巨大である。三万人もの人を収容するのであるから当然だ。そして、恐る恐る教会堂の中へ入る。スタッフらしき人に「チョヌン・イルボネソ・ワッスンムニダ(私は日本から来ました)」と言うと外国人専用席まで案内してくれた。シートの前には同時通訳機がついていて、「Japanese  English French Spanish German」と書いてあったので、Japaneseのボタンを押してヘッドフォンを耳に当てた。まもなく流暢な日本語が聞こえてくる。見ると、日本武道館のような構造をした教会堂では、オーケストラが出番を待っている。間もなくオーケストラの演奏とともに聖歌が始まった。みんな手拍子をしながら大声で聖歌を歌っている。耕輔も歌い始めた。「悩める人々、御名を聞きなば、喜びの元はイエスなりと知らん---」なぜか耕輔の頬に涙が伝わってきた。  何曲かの聖歌が終わると、司会者が「お祈りをして下さい」と言ったので、耕輔も「主よ」と言った途端に舌がもつれ、聞いたこともないような言葉が口から飛び出した。日本語で祈ろうとしたが、なぜかそんな言葉が出始めてただ「バリバリ」とか「ルヤルヤハレルヤ」とか奇妙な言葉しか発声できなかった。  「俺は気が狂ってしまったのだろうか?」とも思ったが、出るままに言葉にならぬ言葉を発していた。これが所謂聖書にも書いてあった「異言」というものなのか?耕輔はただ呆れてしまった。「俺は異言で祈っている。なぜなんだ?」見ると、三万人の会衆もみんな異言で祈っていた。大声を出して韓国語で「チュヨ(主よ)」と言っている人もいる。そして、奇妙なお祈りが終わると、牧師が出てきて説教が始まった。  「人間がアメーバから進化したなんて言う説を学校で教えるから平気で人を殺したりするようになるんだ」と牧師は言った。  それまでの耕輔はキリスト教徒を「進化論を否定する馬鹿な奴ら」としか思ってなかった。しかし、なぜかその日は牧師の説教に完全同意して、思わず「アーメン(然り)」と叫んでいた。そして、礼拝の最後に牧師が告げた。  「今日初めて来られた方の中でイエス様を受け入れる決心をされた方は立ち上がって下さい」  何の躊躇もなく耕輔は立ち上がった。そして、この異言の現象はホテルへ帰ってからも続いた。「聖書に書いてあることは本当だったんだ」と耕輔が感心するとともに、ここで耕輔に対する「神」からの洗脳は完成した。耕輔が待ちに待った二度目の「洗脳」の瞬間であった。  そして、日本へ帰った耕輔は本土の聖霊派の大きな教会で洗礼を受けることになった。韓国へ渡ってわずか一ヶ月後である。  そして、洗礼式の当日であった。約束通り、島元さんが彼氏を連れて礼拝に来てくれていた。そして、聖歌を歌っていると誰かが後ろの座席からコンコンと耕輔の肩を叩いた。志恩ちゃんであった。  十年前と何も変わってなかった。  「何も変わってないねえ」耕輔は思ったままをそのまま伝えた。  そして、礼拝の後、洗礼式が始まった。浸礼であった。耕輔は白い洗礼服に着替えると、洗礼を受けるために水が張ってある水槽の所へ赴いた。牧師と志恩ちゃんと島元さんとその彼氏が一緒だった。牧師が使徒信条が書かれた紙を耕輔に手渡し、「読んで下さい」 と言った。 「私は我らの主、イエス=キリスト様を信じます。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ---云々」  使徒信条が読み上げられると、牧師が水槽の中へ入るように言ったので、耕輔は水槽に入った。すると牧師は「父と子と聖霊、すなわちイエス=キリストの名によって汝に洗礼を施す」と言って耕輔の全身を水槽に浸けた。これで耕輔はキリスト教徒になったのである。  志恩ちゃんが言った。 「私、すごく感動した。こんなの見るの初めてだったから」志恩ちゃんは「高校を卒業すると洗礼を受ける」と言っていたのに受けてなかったのだろうか?  そして、普段着に着替えた耕輔は志恩ちゃんと一緒に教会を後にした。島元さんが気を利かせて二人だけにしたのであろう。こうして二人だけになるのは十年ぶりだ。二人とも話の切り出しに困惑しているような感じだった。そこで、先ずは耕輔が話し始めた。  「来てくれてありがとう。僕が洗礼を受けるってのは島元さんから聞いたんだね」  「はい。私、十年ぶりに先生に会うって言うにの何を話せばいいか困ってしまっていました。そうしたら彼女が『普通に接すればいいと思うよ。その方が先生も喜ぶと思うから』と言ったのでついてきたの。あ、それからこれお祝いのプレゼント」  彼女は1冊の本を鞄から出して耕輔に手渡した。ウオッチマン=ニーの「キリスト者の標準」という本であった。  「ありがとう」耕輔は気恥ずかしそうにその本を受け取った。 そして、耕輔は心に引っかかっていたことを聞いてみた。  「結婚したって聞いたけど、苗字が変わってなまかったのはどうして?」  志音ちゃんから直球で返答があった。クスッと笑いながらである。  「別れた」  「お子さんは?」また彼女はクスッと笑って言った。  「取られた」  「(そうだったのか。しかし俺って馬鹿なことを聞いたものだ。一番触れられたくないことだったのかもしれないぞ)」  そう思っていると志恩ちゃんは突然話題を変えた。  「私、卒業してから合気道部に一度顔を出したの。なぜかって言うとね、夜公園で後ろからこうゆう風に首を絞められたの。それで顔を出したの」  そう言って耕輔の首を後ろから絞めにかかった。耕輔は冷静を装って言った。  「無理に合気道なんか使おうと思ったらいけないよ。後ろから来られたら相手の足の甲を踵で思いっきり踏んづけたたらいい。女の人はハイヒールなんか履いてるから尖った踵でこれをやられると」大抵は逃げられるよ」  「ふーん。やっぱり先生はすごいね」  「何もすごいことなんかない。武道では当たり前のことだ」  それからどうやって志恩ちゃんと別れたかは耕輔は思い出せない。ひたすら冷静さを装っていた耕輔であったが、実際には久しぶりの志恩ちゃんとの出会いに心が震えて何をしたか、何を言ったのか記憶すらなかったのである。別れ際に何か言葉を交わしたはずなのに、それさえも思い出せなかったのだ。そして、これが志恩ちゃんとの最後の出会いになってしまうように思われた。耕輔は、後悔した。志恩ちゃんが高校生だった頃、本当は密かに恋心を抱いていたこと、教室でリップのことを注意したのは実は英語の村本の差し金だったこと、一ヶ月間志恩ちゃんの顔を見るなと村本が言ったこと。それがどうして言えなかったのか後悔してもしきれない悔しさだけが残った。しかし、耕輔の心にこびりついていた「しこり」のようなものは完全に取れた。志恩ちゃんのことはもう考えないだろう。 そして、それから耕輔はクリスチャン教師としての道を歩み始める。  また、耕輔はこの頃、島の学校で知り合った生徒と結婚した。そしてその結婚を機会に島から出て本土の進学校に転勤することができた。しかし、時折島へは帰っていた。 (四)偶像廃棄  島へ帰った耕輔は、聖書を読んだり牧師の話を聞いているうちに島が偶像だらけであることに気づいた。最初は「仏壇を燃やせ」とか「神社や寺にいるのは悪霊だ」などと言った牧師の言葉に反抗していた耕輔であったが、旧約聖書を読んでいると、「偶像礼拝はいけない」と至る所に書かれてある。パウロもギリシアへ行った時に町が偶像だらけだったことに憤慨している。そこで、耕輔は徐々に洗脳されていったのだ。そして、洗脳の極めつけとして、耕輔は通信制の神学校へ入学した。  神学校の授業は楽しかった。学校で教師として生徒に勉強を教えるよりも学ぶことの方が楽しかった。その頃、耕輔はまた島から出て本土の進学校で教鞭を取っていた。教材研究などに忙しく、神学校の方は疎かになりがちで、三年間の神学校での学びは七年間もかかってしまった。そして、牧師の資格を手にした。  そんな折、故郷の村でお祭りが行われることになった。人手が足らないからと言って耕輔も呼ばれた。村落ごとに神輿を出すということであった。  村の会合が開かれた。村の若い衆が集まっている。耕輔もいつの間にか氏子となっているようである。神輿のかき手がいないのと、後、神社で唄を奉納するので呼ばれたのだ。唄の練習のために耕輔は本土から高速艇で毎夜駆けつけ、土日は実家に泊まっていくのであった。  耕輔の家族は両親と祖父、そして兄と妹がいたが、兄と妹は東京に住んでおり、お祭りに駆けつけることはできなかった。  村の会合が始まった。青年団長が開口一番に告げる。  「この村に生まれて祭りに参加しない者は村の人間とはみなさない。耕ちゃんも兄貴がいるのによー来てくれたなあ」  「いや、これも仕方のないことですから。でも、僕は実際には米田神宮の祭りには参加できないんですよ」  「何でじゃ?」  「宗教上の理由からです」  「耕ちゃんも山口はんとこみたいに○○学会にでも入ってるんか?」  「いえ、僕はキリスト教です」  「キリスト教ちゅうたらそんなに固いこと言うんか?」  「固いことではありません。米田神社に祀られているのはただの石です。それを拝むというのは悪霊を拝むことです」  一同がしらけてしまった。  「おい、何言うとんのや?おまはんはこの米田神宮で産湯につかったんやで。有り難い神さんに対して何ちゅうことぬかすんじゃ?」  誰かが言った。気の弱い耕輔は普段なら反論なんかしないが、ここは信仰を試されていると思ったら思いっきり反抗すべきだと考えて言った。  「何が有り難いんや?米田の神さんが病気でも治してくれるんか?そんなもんただの石やないか?人間が運んでやらんかったら動くこともできへん案山子と一緒やないか」  そこへ祭りの副団長が割って入った。  「まあまあ、耕ちゃんもわざわざ来てくれてるんや。考えは考えで祭りに出てくれるだけでもええやないか」  青年団長が同意した。  「それもそうやなあ。祭りにも出てきよらん奴もいるしなあ。そんな連中はどないするで?」  「そら、村八分やなあ」  「そや、そや、村八分や」  耕輔は凍り付いてしまった。「村八分!」そんなことまで言うのか?この村は?  村八分とは、火事と葬式以外はお付き合いをしないということである。農業を多人数でやっていた頃には、それは実効性があった。しかし、今や田植えも稲刈りも機械でできる。その上、お百姓さんのほとんどは兼業農家で、みんなサラリーマンである。だから実際に「村八分」にされたところで何と言うこともない。しかし、未だに村八分などという言葉が存在していること自体が耕輔にとって驚き以外の何物でもなかった。  そしてお祭りの日がやってきた。数十人の村の若い衆が集まっていた。神輿もあればおどろおどろしい竜の化け物もいる。それを十人ばかりで担いだ。勿論、耕輔もいる。これから、この神輿と竜の化け物が神社までの二キロの道のりを練り歩くのだ。みんな朝から酒を飲んでいてもう出来上がっている者もいる。「よーいやせ」かけ声とともに神輿と竜の化け物は動き始めた。途中で何回も酒を一升瓶ごと飲んだり、「やれどっこい」などの声を上げながら行列は進んでいく。「馬鹿馬鹿しい、こんなことやってられるか?」そうは思いながらも耕輔は竜の化け物を担いだ。担がなければ「村八分」が待っている。両親や祖父にも迷惑がかかるのだ。途中で誰かが卑猥な唄を歌い始める。「奈良の大仏さんがセ○ズリかけば、奈良の都は糊だらけ」  こうして神輿と竜の化け物は神社に到着した。  いよいよ奉納する唄の始まりである。耕輔が唄うのはほんの一節だけ。「いよ、これは異な事」というだけだから簡単だ。しかし、このために二週間を練習に費やしたのである。失敗は許されない。耕輔は声を張り上げた。「いよ、これは異な事!」  その後、弁当を食べてまた村落まで帰るのである。帰りはしんどかったが、祭りが終わったらほっと一息ついた。  そしてそうする中で耕輔は故郷に対して怒りの心でいっぱいになった。     「俺はキリスト教徒なんだ。なぜこんな連中と一緒に神社のお祭りなんかに出なくてはならないんだ。なぜ石なんかを拝ませるんだ。それから『村八分』って何だ?」  そしてその考えは耕輔をとんでもない破壊欲求に導いていく。  「先ずは家にいる偶像の悪魔から血祭りに上げてやる」  そう決心していた。 *  その年の夏休みに耕輔は一時帰郷した。そして考えていたことを実践に移した。祖父は夏休みの前に他界していた。    家の庭のドラム缶で何かを燃やす耕輔の姿があった。それを先ず母が見つけた。  「耕ちゃん、一体何を燃やしているの?」  そう問う母を尻目に耕輔は火の中に何かを投げ入れた。先祖の位牌であった。位牌を投げ込む度に耕輔は言った。  「悪霊め!イエス=キリストの名によって命じる!この家から出て行け!」  驚いたのは母である。  「耕ちゃん、それ何するの?それはご先祖様やないか」  「うるさいわ。あんたもクリスチャンやったんやろ。今悪霊を火にくべているんや。悪霊め、出て行け!」  耕輔の手には祖父の位牌が握りしめられていた。  「わあ、それお祖父ちゃんやで。何するの?この子は。おとうさあん。大変。耕輔が、耕輔が---」  この騒ぎに父が出てきた。その瞬間、耕輔は祖父の位牌を火に投げ入れた。  「何するんや!この罰当たりが!」  父親が耕輔の手を取ろうとしたが、それよりも一瞬速く、耕輔は位牌を火の中へ入れた。  「わー。お祖父ちゃん。お祖父ちゃんになんちゅうことを」  「やかましいわい。こんな所にお祖父ちゃんはおらんわ」  「耕輔、そんなことするんやったら家から出ていってくれ」  父親は懇願するように言った。  「おー、出て行ったるわ。このサタンめ」  母親が口を挟む。  「親に向かって『サタン』とは何?」  「偶像崇拝者はみんなサタンなんや。地獄行きや。お前らじいさんと一緒に地獄へ落ちるんじゃ。」  そう言われて両親は口を揃えて言った。  「狂ってるわ、お前は狂ってるわ」  そこへ運悪く近所の茂吉じいさんが通りがかった。杖をつきながら親しそうに父親に挨拶する。  「𠮷やん、何燃やしているねん?」  「あ、茂吉じいさん。うちの耕輔が、うちの耕輔が、こんなもん燃やしはじめたんや。まあ、このドラム缶の中みたってくれや」  「うーん?」不審そうに茂吉じいさんがドラム缶をのぞき込んで後ろへ倒れ、尻餅をついてしまった。  「なんや、これは?位牌やないか?おお、乙吉じいさんが燃やされとる。何と罰当たりな!これは耕ちゃんがやったんか?」  「そうじゃ。文句あんのか?」耕輔は毒づいた。  父親が慌てふためいて言った。  「耕輔、とにかく今すぐに出て行ってくれ。たのむから出て行ってくれ」  「言われなくても出て行ってやるわ。こんな悪霊の家。それから悪霊の島なんか」  耕輔は隣家の家伝いに狭い通路を通り、表へ出た。なぜか心臓が高鳴るのを覚えた。「とうとうやってやった」という気持ちと、良いことをしたのに、なぜか後ろめたく感じる気持ちが入り交じった複雑な心境であった。そして、最後の力をふりしぼって言った。  「悪魔め!イエス=キリストの名によって命じる!この島から出て行け!先祖・家系の呪いも解かれよ!」  そう言うと車を止めてあった家の前の道へ急ぎ、慌てて自動車のエンジンをかけた。誰も追ってはこないようだ。  「これで一仕事すんだか」そう言いながら耕輔は車を港へ向かって走らせた。  それは、これから起こることのほんの序章に過ぎなかった。 (五)子安地蔵様  耕輔が育った村の入り口には四体の石のお地蔵様が祀られていた。耕輔の肩ほどもある大きなお地蔵様で、なぜか四体ともにお腹が膨れていた。そして、その膨らみを隠すかのように誰かが前掛けをしてあった。安産の御利益があると言われ、そのためか「子安地蔵」と呼ばれていた。村の人々は敬意を込めて「こやっさん」と呼んでいた。耕輔が次に目をつけたのはこのお地蔵様であった。  「石の地蔵。ふん、こんなものに安産の御利益なんかあってたまるか?人間が刻んで置いてあるだけのものじゃないか。自分で動くこともできない。この悪しき偶像め。叩き壊してやるから覚悟しておけ」そう思っていた。事実、旧約聖書に「偶像は案山子と同じで運んでやらなければ自分で動くこともできない」と書いてある。また、キリスト教のファンダメンタルな教えからは偶像には悪霊が宿っているとも考えられていたのだ。  そして冬休み、耕輔は帰郷した。両親ともになぜか耕輔を普通に迎えてくれた。位牌のことには誰も触れなかった。しかし、妹に話は伝わっていた。  「お兄ちゃん、何か位牌を燃やしたらしいねえ。お父さんに『何で?』と聞いたら『あいつは頭がおかしいのや。そっとしておけ。位牌のことも聞いたらあかんぞ。』と言うてたよ」  「お前も海外での生活が長いからわかるじゃろうが。位牌なんかに居るのは悪霊じゃ。そやけん、わしが成敗してやったんや」  「そんなもん、放っといたらええのに。おかしいよ、お兄ちゃん」  「いや、仏壇の中に居るのは悪霊じゃ。そんなもん拝むから母さんは癌になったりするんや」  「いつからそんなこと考えるようになったの?なんか、聞いたらクリスチャンになったらしいけど、キリスト教でもマリアさんの像なんか拝んでいるやないの?」  「それは間違ったキリスト教や。聖書を読んだら偶像崇拝はあかんって書いてある」  「おかしなお兄ちゃん。よく帰れたもんやねえ」  そう言って正月の用意にかかった。母も妹も忙しく立ち働いていた。しかし、この頃には耕輔の脳裏に二番目の「悪魔払い」の計画が浮かんでいたのだ。標的は勿論子安地蔵である。  そして大晦日の夜。母親や妹が正月の準備をしようと忙しく立ち働いているその隙を狙って耕輔は納屋からハンマーを持ち出してきた。石を砕くハンマーであり、かなりの重量感がある。それを両手で持ち上げると、それを持って靴箱まで行き地下足袋に履き替えた。足跡を残さないという配慮からである。家族の者は誰も気づいていない。これを持って子安地蔵まで約一キロの道をテクテクと歩き始めた。耕輔は確信犯である。これからやろうということに何の後ろめたさも感じていなかった。「洗脳」が完成していたのである。  誰にも分からないように獣道を通って丘を登った。冬だというのにあちらこちらが茨で塞がれていて傷をつくりながら茨をかき分けて登った。頂上へ立つと米田神社の大きな境内と鳥居が見えてくる。もう少しだ。ここを降りたら子安地蔵がある。そしてハンマーを引きずりながら山道をゆっくりと降りて行った。  懐中電灯で照らすと目的の子安地蔵が見えてきた。いよいよ犯行に及ぶのである。周りに人がいないことを確かめると、耕輔は先ずは向かって左側の一体の地蔵に向かって叫んだ。「イエス=キリストの御名によりて命じる!悪魔よ!出て行け!」そしてハンマーをお地蔵様の顔めがけて振り下ろした。地蔵の首から上が簡単に吹き飛んだ。しかし頑丈にできているのか顔の破壊までには至らなかった。そこで耕輔は吹き飛んだ顔をめがけてハンマーを振り下ろした。「悪魔よ、出て行け!」そう言って何回も振り下ろした。顔がぐちゃぐちゃになった。次に胴体にハンマーを振り下ろしたが、こいつがなかなか頑丈で、ハンマーの痕がついただけで終わってしまった。  「仕方がない。次のお地蔵さんを片付けるか」   そう独り言を言った後、耕輔はまた重いハンマーを振り上げた。実に重く感じる。しかし自分は正しいことをやっているのだ。この偶像を破壊して村から悪魔崇拝を一掃するのだ。そう思うと自然にハンマーを持つ手に力が入った。そして、今破壊したばかりのお地蔵様の隣のお地蔵様の顔めがけてハンマーを振りかぶった。一撃がお地蔵様の顔に命中する。いともたやすく顔が吹き飛んだ。すると耕輔は、その顔をめがけて何回もハンマーを振り下ろした。「悪魔よ!出て行け!イエス=キリストの名によって命じる!この村から失せよ!」そう言いながら地蔵様の顔面を粉々に砕いた。三体目、四体目のお地蔵様も同様にした。二時間はかかっただろうか?最後のお地蔵様の顔を砕くと、耕輔は慌てて丘を登り始めた。もう紅白が始まっていたから、「行く年来る年」をやっている時間だ。足がつかないように早く帰ろう。そう思って家路の獣道を急いだ。                         *    小さな村の新年が明けた。早起きのお定婆さんがお地蔵様を見に来て大声を上げた。  「大変じゃー!村の衆を呼んで来てくれ!誰か村の衆を!それから警察じゃー!巡査を呼んで来てくれ!」  「これはまあ、お定はん。正月早々からなんじゃいな?」  腰の曲がった近所の益蔵じいさんであった。  「益蔵じいさん、大変じゃ。こやっさんが---。こやっさんが---」    益蔵じいさんがお地蔵様のあった所へ着くなり尻餅をついてしまった。  「なんじゃー!これは!誰がこんな罰当たりなことを!」  暫くすると地蔵の周りは村の衆でいっぱいになった。駐在さんも来ている。村の衆は元旦になると千覚寺という島で一番大きなお寺のある先覚山へてくてくと登るのだ。その途中でお地蔵さんが大変なことになっていることを聞きつけてやって来たのだ。  「こりゃあかんわ。復元もできんほど顔がぐちゃぐちゃじゃ」  駐在が言った。村の衆も口々に言う。  「何と罰当たりな。誰がやったんじゃろうか?」  「ほんに、罰当たりな。お地蔵様の罰があたるでな」  「○○学会かなあ。本土の人間かなあ?」  「いやー。こんな地蔵様を壊すのはやっぱり島の人間じゃと思うんじゃが」  「とにかくこれは器物破損じゃ。署に連絡したいんじゃが、これは誰の持ち物かのう。所有者に来てもらわにゃ」  駐在が言った。  「いや。これは村の総有財産じゃけえ、誰のもんでもないわ」  「そうか、でも器物損壊には違いない。一応署にも連絡は取ってみる」  そこへ若い衆も集まってきた。若い衆の代表で青年団の団長の城山さんが言った。  「わあ、こりゃひどいのう。誰がやったんじゃろうか?そうやなあ、本土の造船所にはイスラム教徒がインドネシアなんかから来ちょるけんのう。そいつらかも知れんのう」  「でも、こんな島まで来てこんなことするんかいのう?本土にはいくらでも国宝があるのに」  「いんや、こりゃあイスラム教徒じゃ。あのバーミヤンの石仏をやったようにこんなもん見つけたんでやったんじゃ」  そうこうしているうちに署からパトカーがやって来た。駐在が敬礼をする。中から二人の刑事らしき私服警官が降りてきた。  「おお、これはひどい。本土の人間でもこんなことはせんでよ」  私服警官の一人が言った。  「いや、この前も本土の厳顕神社に油が撒かれとった。多分同一犯じゃろう」  もう一人の私服警官が言った。そして何か無線で話し始めた。  「こちら米田村の子安地蔵前。署から鑑識をよこして下さい。足跡等の鑑定をお願いします」    しばらくしてから警察の車両が地蔵の周りを取り囲み、非常線のロープが張られた。  「住人の方はロープ内へ入らないで下さい。中から出て下さい」  刑事がそう言っている間に鑑識が足跡の採取などを行っているようであった。  結局、この事件は犯人の特定には至らず、迷宮入りとなってしまった。  一方、耕輔の家では正月の雑煮に家族の者が舌鼓をうちながら、耕輔の父が尋ねた。  「こやっさんのことやけんどなあ、耕輔、あれまさかお前じゃないじゃろうなあ?」  「何言うとるの。お父さん。耕輔がそんなことするわけなかろうて」  母が言った。間髪を入れずに耕輔が言う。  「わしゃ知らんで。そんなことして何になるんじゃ」  そして家族の者全員が黙々と雑煮にありついた。位牌の件は家族の中ではタブーになっているらしく、それ以上誰もあえて尋ねようとはしなかった。誰も一言も発することなく、家族全員が黙々と箸を動かしていた。   *  正月の二日になって、耕輔の高校3年生の時の担任であった武村先生が耕輔の家へやってきた。この先生は教師を定年退職し、村の郷土資料館の館長になっていたのだった。耕輔の担任であったし、また耕輔が高校時代の郷土部の顧問でもあったので、子安地蔵を見に来たついでに立ち寄った次第である。  最初は耕輔の母が玄関で武村先生をもてなした。  「まあ、これは先生、今お茶を入れますね」  「ああ、構わんで下さい。子安地蔵を見にちょっと立ち寄っただけですから。それより耕輔君は帰ってきてますか?」  「はい、今自分の部屋でパソコンを触ってます。今呼びますね。耕輔ー、耕輔ー、高校の時の武村先生がお見えよ」  階段を慌てて駆け下りてくる耕輔。  「あ、これは先生。こやっさんを見にきたのですか?」  「ああ、そうや。何かひどいことになってるようなんでなあ」  「でも子安地蔵ってそんなに文化財的価値のあるものなんですか?」  「ああ。戦前は国宝並の扱いを受けていたんじゃ。まあ、江戸時代初期のもので比較的新しいんじゃがのう」  「今でも国宝か重要文化財なんですか?」  「いや。この島には国宝はなくなったんじゃ。戦前は鳥取神社の神輿と先覚寺の鐘が国宝やったんじゃが、今では重要文化財に格下げじゃ」  「じゃあ、子安地蔵は?」  「うん。あれは文化財としての価値はそれほどないんじゃが、珍しいものなんじゃ。あの四体というのと、お腹の出っ張りが少し珍しいんでのう。本土でも有名なんじゃ」  「ふーん。(この先生はまさか俺が犯人とは思ってないようだ)」  「ところで、あんなこと誰がやったんかいのう?」  「僕は福音派が怪しいと思っています」  「何じゃ、本土のイスラム教徒やないのか。ところで、その福音派というのはどういう連中じゃ?」  「アメリカでは共和党の支持母体になっているキリスト教の原理主義の団体です。メガ・チャーチなんかはほとんどが福音派です」  「耕輔君はよー知ってるなあ。さすがは世界史の先生じゃな。わしは日本史一本で来たからどうもキリスト教なんかには弱くて困る。ところで、耕輔君は何で福音派じゃと思うんじゃ?」  「彼らは原理主義者ですから当然のように偶像には反対しています。LGBTや妊娠中絶にも反対しています。アメリカでは産婦人科の医院を爆破するなんて事件も起こしてますから」   「ほほう、そんな過激な連中がキリスト教にもおるんかいな?それは本土にも信者なんかがおるんかいな?」  「はい。福音派の教会はたくさんあります。でもこんな過激なことをやる連中は聞いたことがありませんが」  「そうじゃのう。過激じゃのう」  そこへまた耕輔の母がやってきた。  「先生、そんな上がり端なんかで話さずに、今コーヒーを入れたので応接間へ上がっていって下さい」  「いやいや、わしは一刻も早く子安地蔵を見たいのでこの辺で退散します」  「何おっしゃるのですか。郷土史の大先生を手ぶらで帰したりしたら私が主人に叱られます。まあ、コーヒーでも」   この先生は白髪が目立ち、眼鏡をかけている。その表情はいかにも郷土史の大家と言った面持ちだ。何を収集するのかわからないが、リュックのようなものも背負って、背広を綺麗に着こなしてている。そのリュックと背広と言ったアンバランスさが、趣味を仕事とすることに成功した初老の紳士と言ったいでたちであった。  「そうですか。それならちょっとだけ上がらせてもらいます」  そう言うと武村先生は靴を綺麗に揃えて玄関のすぐ横にある応接間へ上がってきた。既にテーブルにはコーヒーが用意されている。  そのコーヒーを一口すすると、武村先生は言った。  「耕輔君も上がってはどうかい?」  「はい、それならば」  耕輔も上がり込み、「先生、どうぞお掛け下さい」と丁寧に挨拶をした。話は子安地蔵のことではなく、学校のことを先生は尋ねてきた。  「学校は忙しいかい?」  「いやー。忙しいです。昔は私も世界史だけを教えたら良かったのですが、日本史を持たされたり、現代社会をもたされたり、大変です。その上、モンスター・ペアレントなんかもいますし、文書も多くて、教師なんかブラックですよ。先生のように郷土史をやっている先生なんかいません。学校の事務文書だけでも大変です」  「時代も変わったものじゃなあ。わしの頃は夏休みには寺や神社を回ることもできたもんじゃがのう」  そんな話をしながら、時間が経ち、武村先生はふと柱時計に目を移した。  「いかん、いかん。もうこんな時間じゃ。それじゃあ、コーヒーご馳走様。今から子安地蔵を見に行ってくる」  そう言って背広を着込み、その上にコートを被って帽子をチョコンと頭に乗せ、「それではお母さん、私はここで」と言って、玄関を出、車に乗り込んだ。耕輔は全く疑われていないようだ。車の外から見送る耕輔。本当に疑われてはいない。  しかし、この時には既に耕輔の第二の犯行の計画が耕輔の前頭葉の中に存在した。今度のターゲットは産婦人科医院である。妊娠中絶をやっているらしい産婦人科医院が島に一軒だけあったので、それが狙いであった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加