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妊娠中絶は許さんけえのう。
(六)妊娠中絶は許さんけーのう
一月三日、耕輔が本土の学校へ帰る日である。母親が耕輔の好物の葱卵を作っていた。耕輔は思いきって母に尋ねる。
「母さん、聞きたいことがあるんじゃがのう」
「なんじゃい?」
「町に原口産婦人科医院があるじゃろうが」
「ああ、あそこはお前を取り上げたところじゃ。あの先生にはお世話になってのう。それがどないぞしたんか?」
「いや、あそこでは人工中絶なんかやっちょるのかなと思って?」
「けったいなこと聞くのう。そりゃやっちょるじゃろう。それがどないした?」
「人工中絶は人殺しや。やっっちょるんじゃったらやめささにゃあいけん」
「いや、三軒隣の若奥さんが何でも病気の子供が産まれることがわかって、中絶したとかきいちょるがのう。そりゃ、しょうがないからと言って中絶したって言うで」
「いかん。それは殺人じゃ。聖書に『あなたは母の胎にある時から神に覚えられている』と書いてあるけんのう」
「そんなこと言うても仕方がないこともあるじゃろうが。例えば強姦されてできた子供はどうなるんじゃ?」
「それも中絶してはいけん。神がそう言うちょるんじゃ」
「また、この子はおかしなこと言い始めた。そんな無茶なこと神さんが言うかねえ?」
「『言うかねえ』って、聖書に書いてあるから言うんじゃ。無茶ではなか」
「お前は一体何ちゅうキリスト教に入ってるんじゃ?牧師がそんなことぬかしたんか?それはおかしいで」
「いや、殺人は殺人じゃ。わかった。中絶しよるんやのう」
「ああ、多分な」
「わかった」
「お前、何かするつもりか?あの子安地蔵もお前の仕業じゃないじゃろうのう?」
「そんなこと知るか」
「それならいいんじゃが、原口先生はお前を取り上げて下さった優しい方じゃぞ。変なことするんじゃなかぞ」
「わかっちょるわい。変なこと心配するな」
母親の心配をよそに耕輔は次の犯行の計画を練っていた。勿論、ターゲットは原口産婦人科医院である。妊娠中絶は神の法に逆らう殺人だというのがキリスト教ファンダメンタリストの考えである。そんなことをする医者は血祭りに上げねばならない。これは神の法を実行するためのものであって、何ら非難されるべきことではない。確信犯の耕輔はそう考えていた。
そして、ゴールデンウィークに耕輔は帰省した。いよいよ計画を実行すべき時である。子安地蔵のことは迷宮入りになったが、村では自警団が結成され、子安地蔵ばかりか寺や神社まで警護するようになっていた。産婦人科なんかは何の防御もしていない。ただし、医者の家だから、防犯カメラくらいは備え付けれていることだろう。そんなことも考慮して耕輔は目出し帽を被り、上下つなぎの漁師の格好をして真夜中に出かけることに決めていた。靴は前回のお地蔵様と同様に地下足袋である。
五月三日の憲法記念日の夜、耕輔は灯油の入ったポリタンクと燐寸を持って車を島の東側にある町へと急がせていた。いよいよ計画の実行である。
夜中の一時に耕輔は原口産婦人科の目の前にある公園に車を止めた。公園にはほの暗い街灯が灯っている。誰も見ていないことを確かめると車を降り、重い灯油の入ったポリタンクを両手で持って二~三百メートルほど歩いた。かなり重い。ハーハー言いながら路地を歩いた。途中で誰にも見られていないことを何度も確かめながら歩いた。お地蔵さんの時のハンマーなんかよりもはるかに重い。また、ハンマーとは違って引きずっていくわけにはいかない。必死だった。そして、原口産婦人科医院の看板と正面玄関が見えてきた。ここで休むわけにはいかない。監視カメラに映ってしまう。そう考えて裏口に回り込んだ。そして、誰も見ていないことを確かめると灯油を一面に撒いた。これは明らかに犯罪である。そのことは耕輔も重々承知していた。だから、心臓が高鳴るのを覚えた。しかし、悪魔を成敗するのである。そんなことで躊躇するわけにはいかない。耕輔は灯油を撒き続けた。最初は重かったポリタンクも徐々に軽くなってくる。そして、最後の一滴を撒くと燐寸を今撒いた灯油に放り込んだ。一気に火が回ってきた。あまりのことに耕輔は動転し、ポリタンクを持って車まで走りに走った。そして、キョロキョロと回りを見渡すと、すぐに車のエンジンをかけ、港の方向へと走り去った。なぜか家へ戻ろうとは思わなかった。
翌日、新聞の地方版にボヤ騒ぎの記事が載っていた。港で既に消防車の音を聞いていたので、早く気がついたのであろう。
「原口産婦人科でボヤ騒ぎ。灯油を撒いて放火した形跡あり。怨みによる犯行か?」
子安地蔵と関連づける者はいないようであった。そこで、耕輔はワープロで犯行声明を書いた。
「原口産婦人科医院様。
私は貴医院を放火しようとして失敗に終わった者です。
貴医院は神の戒めに反して妊娠中絶手術を施していると聞き及び、この犯行の挙に出たわけでございます。妊娠中絶は殺人であります。今すぐに悪行を悔い改めて、子供を取り上げ赤ん坊の面倒を見る良心的な医者になって下さい。さもなければ二回、三回と犯行を繰り返します。 神の下僕より」
また、耕輔はあろうことか寺・神社・警察にも脅迫文を送りつけた。警察へは次のような犯行声明を送りつけた。
「警察の皆様へ。
私は原口産婦人科を放火未遂した男です。私はこの犯罪をやめることができません。なぜならば、人工妊娠中絶は殺人だからです。それをわからせるために原口産婦人科医院に鉄槌を下しました。例え人間の法が中絶を許したとしても神の法では許されません。だから妊娠中絶を行っているこの医者を成敗しようとしたまでです。また、子安地蔵を破壊したのも私です。人間が刻んだ石にしか過ぎないものを崇拝の対象とすることを神は最も嫌われます。だからお地蔵さんを粉砕したのです。私を捕まえられるものならば捕まえて下さい。そうしないと第二、第三の犯行を計画しています。 神の下僕より」
また、米田神社と先覚寺には次のような脅迫状を送りつけた。
「あなた方は石や人間の造った偶像を拝んでおりますが、たった今からやめて頂きたい。偶像崇拝は日本の伝統かも知れないが、神の目から見たら大罪なのである。また、それを無垢な村人に強制しているようであるが、これではあなた方は村人とともに地獄行きである。だから私は神の下僕として忠告する。今すぐに偶像崇拝を止めよ。そうしないと、あなた達はこの世でも地獄を見ることになるであろう。
神の下僕より」
これで犯罪が確定した。脅迫罪、現住建造物放火未遂、器物損壊である。警察も動き始めたようである。しかし警察は一向に手がかりさえつかめないようであった。先ずは本土に住む外国人が疑われた。しかし、正月にこの島へ来た人間はいなかった。また、島の人間で過激な宗教的背景のある人物を特定しようとしたが、耕輔は疑われることはなかった。耕輔がキリスト教徒である事実を村の大半の人は知らないし、またキリスト教がそこまで過激な思想を持っていようとは警察も思い至らなかった。また、怨恨の線でも調べたが、米田村のお地蔵さんなんかに恨みをもつ人間がいるはずもなく、また原口医師は地元から尊敬を集めることはあれ、恨みを買うような人でもない。捜査は行き詰まってしまった。そして、大胆にも耕輔は第三の犯行に及ぶのである。
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