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 夜半ですから、家ん中はしーんっとしておりまして、耳に痛い静けさがいやに身に沁みる。二階も物音一つしない。()しかすると、心中はもう果たされたのではないか?座敷の襖を開けたら、血の海……ぶるぶる、冗談じゃない、そんなものと関わり合いになるのは御免(こうむ)ると、芯から臆病風に吹かれますと、延生の口が勝手にお経を上げ始める。 「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時……」  せめてもの供養、これで成仏してくれと、一生懸命に唱える。そんな内に、暗い廊下の、座敷の前に立ちます。ですが、もうスッカリ怯えておりますから、襖を開ける肝っ玉は御座いません。 「照見五蘊皆空、度一切苦厄……」  ボソボソお経を続けながら、そっと、襖を僅かばかり開け、其の隙間から中を覗き見る。と、これがよく見えない。中も妙に暗い。もう少し開けてみますと、二間続きの十六畳の片隅、床の間近くに、蝋燭一本の淡い灯りが揺れておりまして、其の傍にお登美がこっちに背を向けて座っております。其れが頻りに手元を、こう、動かしておりまして、はて、何をしているのか、延生が息を飲み飲み、じっと見ているってぇと、お登美が少し身体を傾ける。  此の景色が(まさ)に地獄絵図、凄絶、此の世ならざる姿。延生は腰を抜かす。目を覆いたいが、不思議と目が離せない。  ゆらゆらと蝋燭の火が照らしますは、お登美のあられもない恰好。着物が(はだ)けて露わになった胸元の白い肌に、真っ赤なものがべったり付いている。これが胸元どころじゃない。上は口元から首へ、胸から下は腹に至る迄、ダラダラと血の川が流れております。  其れから、お登美の膝の上、西瓜(すいか)に似た(もん)が乗っている。丸くて、地が青、切り口から赤い汁が垂れている。所々黒い。しかし、どうも其の黒い所が西瓜らしくない。変にフサフサしている。そうだ、あれは髪の毛だ。(まげ)を結っている。そうかと思いますと、其の丸い物がゴロンと転がりまして、廊下の延生と目が合う。西瓜と思った其れは見慣れた顔、久兵衛の生首で御座いました。  お登美は久兵衛の生首を膝枕して、奇妙ですが、耳かきしている。硬くて細い棒を、こう、生首の耳に深く突っ込みまして、カサカサと動かしている。そうして棒を引き抜きますと、先っぽにくっ付いて一緒に引き上げられました、耳の奥にある肉の蝸牛(かたつむり)を、ペロリと、一口で美味そうに平らげちまいました。 「舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色……」  と、ガタガタ震える延生に覗き見されているとは露知らず、お登美はブツブツと、小声で独り言を始めます。 「困った御方……()かん坊は、お坊ちゃんだからですか?いきなり心中だなんて、こんな危ない物を振り回して。頭一個に、鱗一枚。お前さんに刺された此の胸だけで、一体、何枚の鱗が無駄に散ったと思うんですか。とてもお前さん一人では追っ付きませんよ……憎らしい、恨めしい……せめて、存分に舌鼓を打たせて貰わないと、割に合いませんよ……嗚呼、やっぱり此の蝸牛は絶品。特に久さんのは美味しい。色々な芸を聞いてきたからかしら?……しかし、心中、心中と騒がれるなんて、毒の利き過ぎも考えものね。(ねや)の中で噛み過ぎたかしら。久さんがよく、私の噛み癖をからかうものだから、つい、余計に毒を入れてしまったかも知れない。ふふっ……最初は痒いだけ、其の内、噛み痕から毒が回って、首が青くなる。そうなったら食べ頃……其れにしても、薬屋が今夜来てくれて本当に助かった。私が欲しいのは首だけ、余った身体は邪魔なだけ。其れをあの薬屋が買い取ってくれるんですもの。有り難い……あのおっきな薬箱に首無しを入れて、何処かで腑分けするんですって。すり潰した人の肉や骨が、霊薬や仙薬として、其の筋に高く売れるというんだから、因果なものですね……でも、首だけは私の物……頂きますよ……んっ……んんっ……ゴクッ……はぁ、堪らない」  と、魂消(たまげ)た事に、お登美は久兵衛の頭を一息で丸呑みにしちまいます。あの小振りな口で如何にして丸呑みにしたか、袖の陰に隠れて見えませんでしたが、確かに丸呑みにした。其の証拠に、お登美の胸から腹へ、身体ん中を大きくて丸い物が下がっていく。蛇は鼠や雛を丸呑みに致しますが、蟒蛇(うわばみ)ともなると、犬やら猪やら、人の子だって呑んじまう。すると、あの紐みたく細長い身体が、呑んだ物の形に膨らむ。丁度あれと同じでして、お登美の腹が、久兵衛の頭の形に膨らみまして、まるで身籠ったかの様な姿。 「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提……」  必死になって念仏を唱えます延生は、もう凍えた様に全身をガッタガタさせております。其れでもお登美に見付からないのは、唱えている般若心経の御加護で御座いましょう。「耳なし芳一」でも、坊主の全身に般若心経を書きますと、忽ち幽霊の目に坊主の姿が映らなくなりましたが、あれと御同様の法力が、延生の身を魔物から守っておりました。 「故知、般若波羅蜜多……」  そう、お登美は蛇の化物だったのだ。あの畳の上でチカチカ光っている欠片こそ、お登美の肌から剥がれた鱗に違いない。 「是大神呪、是大明呪……」  早く逃げねば、私も喰われる。早く逃げねば! 「是無上呪、是無等等呪……」  しかし、足がどうしても言う事を聞かん。こいつめ、どうにか動け。我が足だろう。主が動けと言うのが聞けんか! 「能除一切苦、真実不きょ……」  と、其の時、首にチクリと痒みが走り、焦った延生がお経をとちる。悔いても泣いても、もう手遅れ、お登美の目が、バッと、襖の方を向きまして、隙間から覗く延生を見付ける。  こん時の延生の驚いた事。腰が抜けちまいまして、尻餅をつく。お登美はスッと音もなく立ち上がって、こっちに来る。 「これはこれは、延生さん。お前さんも来てくれたんですね。嬉しい。きっと全部見ていたんでしょう?お前さんに入れた毒は未だ青くなっていないけど、今は一枚でも多く鱗が欲しいですから、有り難く頂きましょう」  そう言って、うっすら笑う。其のお登美の、血だらけの笑顔が、怖くの怖くないの、延生、這う這うの体で廊下を後退(あとずさ)り、ワーッと叫びながらゴロゴロ梯子を転がり落ちまして、慌てて店を出ては、微かな月明かりを頼りに、寂しい通りを懸命に走る。其の後ろを、半裸のお登美が、包丁を手に追い掛けて来る。大の男が死に物狂いで走っているんですが、お登美の方ではそんなに足も動かしていないのに、スーッと段々に近付いて来る。  其れで、到頭、日本橋は小伝馬町の刑場近くで坊主頭を鷲掴みにされまして、キラリと月に光る物があったかと思うと、女とは思えぬ怪力で、スパンと、延生の首を切っちまう。  事切れる直前、延生は自分の身体がドサリと道に倒れるさまを見下ろしながら、ぼんやり考え事をする。 「これも仏罰、拙僧も年貢の納め時、色に溺れた坊主の末路であろう。しかし、どうにも惜しい。最後に、せめてもう一度、女と(ねや)を共にしたかった。だが、此の首、お登美に呑まれてしまったら、もう何処にも洒落込めない」
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