9人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
起
刑場と申しますと、これは大変不吉な、縁起の悪いもんで、罪人の首を切る場所ですから、いつでも人間の生首が晒されておりました。首を切られても、人間、数秒は意識があるそうです。其の間、一体、何を考えるのやら、おぞましい話ですが、晒し首、晒され頭、これが転じてしゃれこうべと、呼ぶようになった訳ですな。
江戸の時分には、日本橋小伝馬町にも刑場が御座いまして、有名な歌川広重の浮世絵、東海道五十三次の一番目、日本橋朝之景にも、晒し場が描かれております。絵の中心に描かれております橋の手前、向かって右側、犬が群れているところがそうで御座います。犬が何故群れているかといえば、罪人の首を喰っている。バウバウ喰う。しかし幾ら犬畜生といえど、喰うのは皮や肉や目玉だけ、ゾッとしますが、犬共がペロリと平らげちまった後には、真っ白い骨があるばかり。丸い頭蓋骨、野晒しの髑髏、しゃれこうべが、コロンと転がっているばかりで御座いました。人間誰しも、骨に迄戻ると、無垢な、真っ白い本性が現れる様で御座いますな。
さて、そんな日本橋に構える大店の御隠居、黒屋長太郎という、四十絡みの男が、秋の夜長に近所の寺の住職を訪ねてからがお話。
「おーい!延生!延生はおらぬか」
「えぇ、はい、御住職。此処におります」
「延生、其処におるか。一寸こっちに来なさい」
「はい唯今……何か御用で御座いますか?」
「もっと近くへ来なさい。さぁさ、此方へ座って……態々呼び立ててあい済まんが、ここにいらっしゃる御隠居さんが、お前に頼みがあるそうでな」
「頼み事、で御座いますか」
「うむ。此方の御隠居さんは、黒屋長太郎さんといって、反物を商いのタネにした、立派な大店を昔支えていらっしゃった立派な御方で、今は御長男に店を譲り、引退なすったんだが、実は次男坊の事で頭を痛めておいででな、其れでお前に頼みがあるんだそうだ」
「黒屋様。えぇ、御名前は承知しております。近所では随一の御布施を頂戴しております檀家さんで」
「余計な事は言わんで宜しい……次男坊の名は久兵衛と申すのだが、此の久兵衛は、幼き頃は身体が弱く、可哀想な息子を不憫と思った御母堂が、息子ながら娘の様に蝶よ花よと可愛がり、いやいや、母も息子も悪い訳ではない。悪い訳ではないんだが、どうも久兵衛は男ながら姫育ちなものだから、身体は丈夫に育ったが、性根は一向育たぬ儘、いやいや、純真無垢に育ち、姫らしく趣味も風流でな、書画芸事に凝り、故に教養も深く、何処に嫁がせても恥ずかしくない息子なんだが」
「息子の嫁ぎ先の相談でしょうか」
「そうではない。何と申せば良いか、父親の目の前で、息子をドラとは言えぬであろう」
「久兵衛はドラ息子なんですか」
「こら、声が大きい。無礼を申すでない」
「いやいや、御住職、構いませんよ。こうハッキリ言われた方が、こっちも却って気分が良い……延生さんと言ったかな?急に呼び立てて済まなかったねぇ。修行の邪魔をしたね」
「いえ、滅相も御座いません。して、拙僧に頼みとは?」
「うむ。お恥ずかしいんだがね、頼みというのは他でもない、今話題に出たドラ息子の久兵衛の事でね、今年で二十だというのに、芸事にばかり精を出して、肝腎の商売は兄や番頭に任せ切り、なのに奉公にも出ない、全く困った息子なんだが、病気の家内をよく看る、根は大人しく優しい奴だから、今迄は、まぁ、諸々大目に見ていたんだが、近頃どうも素行が良くない。ひと頃に比べて女郎買いが甚だ激しくなった。いやなに、廓通いは、私だって若い時、随分やった。通うにしたって、節度さえ堅かったら、私だって五月蠅く咎めやしない。しかし、どうやら、久兵衛は堪え性がないもんで、深川の岡場所に入り浸り、小遣いを直ぐ使い切っちまうもんで、何度も何度もせびってくる。其れで本当に困ってしまってねぇ」
「はぁ。御心痛の程お察し致します。しかし、父親ならば、きつく叱り付けるのが一番かと。第一に、小遣いをやらねば、女郎買いも当然止むでは御座いませんか」
「うむ。全く其の通りなんだが……恥の上塗りを覚悟で打ち明けるがね、家内が久兵衛を度々庇うんだよ。家内は久兵衛がこんな小さい頃から猫可愛がりなもんで、今は看病して貰ってもいるから、其の負い目も拍車を掛けて、何にしても久兵衛の側に付く、其れどころか、こっそり小遣いをやるといった具合で、何しろ病人のやる事だから私も強く叱れない。そんな内に、久兵衛は又、母親に貰った銭で深川へ行く。これでは……はぁ……まったく」
「委細、よく承知致しました。して、拙僧に頼みたい事とは?」
「そうだった、そうだった。愚痴ばかりでなかなか本題に入らず申し訳ない。歳を取ると、言い方がどんどんと遠回しになっていかん。言い難い事から逃げる回りくどい技を身に着けてしまって……」
「其の様ですね。夜も更けて参りましたので、日を拝む前にお聞かせ願えますか」
「いかん、いかん。どうも年寄りは長話になっていかんな。先日も番頭さんが私の話している途中で寝てしまって……」
「坊主の前で堂々巡りしておりますな」
「こりゃいかん……うむ。宜しい。腹を決めたぞ。お主に頼みたいのは、不肖の倅の友になって欲しいのだ」
「友?友とは、友人の意でしょうか?」
「そうだ。倅の友人になって貰いたい。なってはくれないだろうか?」
「くれない、という事は御座いませんが……少々、妙な頼みなものですから。父が、息子の友を頼みに来るとは」
「うむうむ。いや、不審に思われるのも尤も。しかし此方にも其れなりの訳がある。というのも、久兵衛は口が達者でな、私や御住職の説教ものらりくらり躱してしまう。今迄にも数えられぬ程叱ってきたが、どうにも見込みがない。加えて、先にも述べたが、母が庇うから、強くも出られない。其処で、久兵衛と歳の近いお主から諭して貰いたいという訳なんだ。麻に連るる蓬の譬えもある。お坊さんの友があれば、久兵衛も真っ当に戻るやも知れんし、或いは友の説教ならば耳を貸すやも知れん。そういう訳だから、どうだろう、一つ、頼めないかね」
「はぁ。ですが、友というのは、頼まれてなるものでなく、人と人との心持ちが合って自然となるものですから、引き受けてもお約束致し兼ねます」
「其れでも構わん。兎に角、一度、久兵衛に会ってくれたら良いんだ。早い方が良いだろうから、明日にでも訪ねてくれないかね。どうか、年寄りの願いだと思って、どうか、お願いしますよ」
と、長太郎は無理に押し切って、帰ってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!