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「御母堂が、し、死んだ?そ、其れは一大事!か、か、帰らねば!」  延生も大慌て、足が(もつ)れて立ち上がるのにも難儀するといった体たらくでしたが、どうにか二人は店を出て、七転八倒、夜の深川を駆け抜けまして、日本橋は黒屋の家に帰るってぇと、おっ母さんは既に事切れている。布団ん中で、真っ(ちろ)い顔で横たわっております。  仏さんの床の周りには、親兄弟、番頭を始め店の者もズラリ居並んでおりまして、息荒く飛び込んだ久兵衛を、其の全員が白い目で睨む。けれども、仏さんの御前ですから、説教というのは憚られまして、兎に角、粛々と通夜をして、荼毘に付す。そうして、おっ母さんがスッカリ骨になっちまってから、久兵衛詮議の段となりました。  これが相当に厳しい詮議となりました。まぁ、女を買って親の死に目に会えない、なんて酷い失態をした訳ですから、勘当も已むなしと、久兵衛もこう覚悟しておったんですが、本当に母親とは有り難いもんで、今際の際にこう言い残したそうで御座います。 「あんた……長太郎さん……久兵衛を、宜しく頼みますよ……あんまり叱ったら、可哀想ですから……あれは、こういう、良くない子だけどね、心根の底は、真面目な、優しい子なんだから……久兵衛を、どうか、頼みますよ……死人の頼みと思って、どうか聞いておくれ……」 「あぁ、あぁ、判った。きっと請け負った。だから、気弱な事を言うでないよ。お前、しっかりしなきゃいけないよ。今に久兵衛も帰って来るんだ。今少し、踏ん張っておくれ。今少しだよ」 「そうだねぇ……あんた、くれぐれも頼みましたよ……」 「判った。九兵衛には厳しくしない。約束しよう。だから安心しなさい」 「良かった……これで安心しましたよ……きっとだね……」 「うむ。きっとだ」  と、仏さんとこう約束しちまったもんだから、親爺さんも強くは出られませんで、際どいところで勘当だけは免れる。とは申せ、流石にお咎めなしとは参りませんな。謹慎を言い渡される。久兵衛も、おっ母さんを亡くして気落ちしたんでしょうな、深く反省致しまして、大人しく自分の部屋に閉じ籠る。外に出ない。家の手伝いもしてみる。段々と人が変わった様に、働き始めました。  では、延生はどうかと申しますと、此方は巧くやりまして、 「御母堂の死に際と聞き、急ぎ久兵衛の居場所を突き止め、訝しがる奴を引っ張って参りました。取るものも取りあえず駆け付けましたが、寸でのところで間に合わず、面目次第も御座いませぬ……いや、友として当然の務め。当たり前の事をした迄で御座います」  とか何とか、調子の良い事を言って、破門どころか感謝されるといった具合、諸々は不問に処され、何喰わぬ顔で寺の修行に戻っております。  こうして二人への処遇が決まりまして、暫くの間は別段何事もなく、日を暮らしておりました。人間誰しも、悪事を暴かれた後は心掛けが殊勝になりまして、俺はもうこんな馬鹿な事は二度としない、俺は生まれ変わるんだ、明日には堅い職に就いて、真っ当に暮らしていくんだ、と、こう腹を決めるもんですが、しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れる、男なんて堪え性のないもんですから、殊に悩みの種が美人とあっちゃあ、偉くお堅い殿方だって、次第に我慢ならなくなる。()してや坊々の久兵衛なんぞが我慢出来る訳がない。  てなもんですから、おっ母さんの四十九日が済んだ頃、黒屋の使いが慌てた顔で寺に駆け込み、久兵衛の様子がおかしいから直ぐ来て欲しいと言ってきた時も、延生は特には驚きませんで、寧ろよく此処迄辛抱したものだと感心しながら、使いと一緒に店へ行く。 「久兵衛も意外に信心者よ。四十九日が明けない内は、と考えたのであろう。しかし、其の間も、お登美の顔が胸の内にズット()ぎっていたに相違あるまい。行けるとあらば、韋駄天が如く、深川迄走って行きたいものを、無理に足を抑え付けるものだから、慣れない我慢が募って随分荒れている筈。やれやれ、仕様のない奴だ。折を見て、私から長太郎殿に謹慎を解くよう、頼んでやろう、拙僧の頼みとあらば無下にはすまい、そうしてお登美の所へ洒落込もうではないか、なに御銭の心配はするな、拙僧が工面する、遠慮はいらん、これも散々馳走になった礼だ、だから今暫く辛抱せよ、これも修行である、と、こう言い含めてやれば、久兵衛とて、もそっと辛抱が続く筈よ」  と、こう見当を付けまして、久兵衛の部屋の手前、襖を開けてみるってぇと、どうも見当と様子が違う。久兵衛の様子は、おかしいはおかしいんですが、我慢ならんという風でない。我慢し切れんって者は、普通ですと、落ち着かない風で、春先の猫みたくむやみに部屋ん中をうろうろ歩き回ったりしてるもんですが、久兵衛は薄暗い部屋の隅っこで、こっちに背を向けて陰気に座り込んでいる。其れも、こっちが話しかけるのを躊躇うくらい、変に落ち着いていて、岩の様にじっとして動かない。其れが妙に物凄い、近付き難いんですが、今更引き返す訳にも参りませんで、延生は恐る恐る声を掛ける。 「御無沙汰……久兵衛、息災か?いや、挨拶が遅れ申し訳ない。いや、なに、案じてはおったのだ。御堂で経を上げていても、久兵衛は沈んではおるまいか、御母堂を亡くしては誰とて辛い、取り分け、お前は御母堂の秘蔵っ子、可愛がられておったから、悲しみも一入(ひとしお)というもの。いや、息災れば良いのだが」 「ん?……どちらさんで……あぁ、延生か。よく来てくれた。さぁさ、此処に座ってくれ」 「お、おぉ……うむ、では失礼するが、こう暗いと、座布団が何処にあるのか、よく判らんな」 「おっと、済まん。ちっとも気付かんで。ぼんやりだったな。ハハハ。今、雨戸を開けよう」
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