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「書き物?写経か?」 「流石はお坊さんだ、冗談だって有り難いね……うちにある巻物は全部反物ですから、経の一本もありませんで、写経じゃ御座いません。歌舞伎の筋を書くんです。俺は近松門左衛門になりたいんです」 「カブキ?」 「そうです。いやぁ、お笑いでしょうが、こっちは真剣で、おっ母さんの看病をする合間合間に、少しずつ書いてるんです」 「ほう。カブキは書く物なのか」 「は?いや、歌舞伎は舞台でやるもんです」 「舞台で書くとは、変わっているな」 「ハハハ……面白いね……からかっちゃいけませんや。歌舞伎ですよ、歌舞伎。お寺の近くにも小屋があるじゃありませんか」 「小屋が……では、カブキは暮らすものなのか。犬猫の親類か?」 「こりゃ参った……歌舞伎を御存知ない?」 「うむ。此方も恥ずかしいが、拙僧は幼き頃より仏門に入った身である故、世相に(うと)く、カブキというものもまるで知らずにいるのだ」 「へぇ……其りゃあ……成程……いや、失礼致しました。歌舞伎ってのは善い物です。なかなか含蓄の深い物ですよ。眺める物なんですがね、(ただ)眺めるだけで、修行するくらい得る物があるんです」 「ほう……修行するくらいとは、何と徳の高い。其れで、お前は其のカブキを書いておると。矢張り写経ではないか」 「えぇ、そうです。写経みたいな物です」 「ふーむ。偉い。病気の母の世話の合間に、カブキを写経とは、偉い。しかし、修行というものは、僧の身でも難しい、何かと間違いもする。経も読み間違えれば、瞑想かと思えば昼寝する者もある。説教も一々難しい。お前が修行するというのなら、此の延生、若輩ながら、お前の親爺殿や御住職に頼まれた身でもあるから、これから修行に付き合い、色々と助言して進ぜようと思うが、どうか?」 「其りゃあ願ってもない申し出、是非、共に歌舞伎へ修行と洒落込みましょう」 「うむ。立派な心掛けだ。お前がそういう心掛けでいてくれるなら、私も(つと)めて協力致そう……長居したな。今日はこれにて」  と、延生は立って、寺に帰って行きました。其れを見送りました久兵衛は、家に戻ると、母親の床が敷いてある奥座敷へ入り、病人の枕元に落ち着いて、額の汗を拭ってやりまして、 「おっ母さん、おっ母さん」 「おや……久兵衛かい?あぁ、気持ち良いね……こうやって汗を拭ってくれるのは、お前だけだよ。有り難いね」 「おっ母さん、こんな事で有り難がっちゃあいけませんよ。もっと有り難い事があったんですよ。延生ってぇお坊さんが、俺の友になってくれるって、こう言うんです」 「おや、まぁ、こいつは嬉しいね。私の息子に、お坊さんの御友達が出来るんてねぇ……本当に有り難い……」 「本当ですよ。其れで、俺は友になってくれるって人に隠し事は嫌だから、稼業も手伝わずに歌舞伎の筋を書いてるって、本当の事を白状しちまった。そうしたら、おっ母さん、延生さんは、其れを偉いって言うんですよ。写経ぐらい偉いって、俺を褒めるんです」 「まぁ!其りゃ本当かい?写経くらい?お坊さんが、お前を偉いって……ううっ……あたしは救われたよ。えぇ?お前が人様に、其れもお坊さんに偉いって、褒められるなんてね……病気じゃなけりゃ、小躍りしていくらいだよ」 「()して下さいよ。おっ母さんには、早く良くなって貰わなくっちゃいけないんだから……其れで、おっ母さん、俺はスッカリ延生さんと友になった積もりでいるんだが、延生さんが俺の修行に付き合ってくれるって言うもんですから、今度、二人で連れ立って、歌舞伎を見に行く事に決めましてね」 「そうかい、そうかい。行ってらっしゃい。良いお坊さんだ。お前が歌舞伎の筋を書く修行に付き合ってくれるなんて」 「全く其の通りなんです。色々助言もくれると言うんで」 「そうかい……そういう御友達は、お前、本当に大切にしなくちゃいけないよ。つまらない事で喧嘩別れなんかしたら、罰が当たるからね……お前ね、其処の、床の間にある戸棚の二段目の奥……そうそう、其れだ……持ってお行き。二人分の御銭(おあし)だよ。お坊さんの分もだ。なに、これも御布施、私の悪いのもこれで良くなるんだから……ゴホッ、ゴホッ……遠慮なんかするんじゃないよ……さぁさ、持ってお行き……」  病人は優しくそう言いますと、嬉しさ余って疲れちまったのか、スッと目を閉じまして、スゥスゥ寝息を立て始める。九兵衛は懐に二人分の金を入れながら、眠った病人を起こさぬよう、そっと、母の枕元を離れてった様で。
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