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「大きな声を出すな……般若湯が不美味なる」
「はん!何が般若湯だよ。いっちょ前に気取っちゃってさァ。酒と言いな、酒と。生臭の身分で、気取ってんじゃないよ」
「おい、おい、あんまりな言い種だ。お前の方がよっぽど般若だな。唯でさえ細い目を、こう、そんなに吊り上げて、額から角が飛び出そうではないか。何をそんなに息巻いておる」
「……よくも、まぁ、抜け抜けと。あーあー、阿呆らし。え?憎らしいじゃないか。人を馬鹿にするのも、大概にしろってんだよ。頭迄ぼんやりになったのかい?まったく、馬鹿にするんじゃないよ!」
「おい、物言いには気を付けろ。どうして怒っているんだと、正面から効いているんじゃないか。そう怒ってばかりいては話が進まん。言いたい事があるんなら、遠回しをせず、正面から打つければよい」
「…………」
「言えというんだ。おい、言えというんだ」
「……お登美姉さんだよ」
「なに?」
「お登美姉さんだよ!お前さん、姉さんにお熱だろ。こっちはスッカリ承知しているんだ。えェ?あたしという者がありながら、姉さんの顔をじっと見詰めたりなんかして、こっちにゃ見向きもしやしない。あたしゃね、悔しいやら、恥ずかしいやら……出入りの芸者に迄哀れまれちゃ、此の商売上がったりだよ。嫌な噂が立っちまう。『あいつは姉貴分にお客を盗られた。どっか足りないんだな』なんて噂されたら、あたしらみたいな商売の女は首を吊るしかないんだ。そしたら、お前さん、あたしん為に経を上げてくれるかい?」
「縁起でもない。いきなり何を言うかと思えば、とんだ脅かしだ」
「脅かしなもんか。ねェ?きっと経を上げてくれるね?」
「止さんか。止せと言うんだ。馬鹿馬鹿しいのはどっちだ。首を吊るのなんのと、こっちの首が痒くなる。興醒めというものだ」
「じゃあ、あんた、お登美姉さんだけは止しとくれ。ねェ、どうかお願いだよ。其りゃあ、お前さんは坊主だから、こんな店に来なけりゃ、女と顔を合わす事もないだろうけどね、他の女郎屋に行っても良いから、どうか姉さんだけは止しとくれ。ね?あたしにしとくれよ」
「止さんか、みっともない」
「みっともないったって、あたしだってね、他の女にお前さんを盗られるってんなら、あたしの女っぷりがいけなかった、負けたんだって、諦めも付きますけどね、お相手があのお登美姉さんだってから、お前さんを心配して、みっともなくとも、こんなに頼んでんじゃないか」
「これは珍妙な事を申す。他の女ならいざ知らず、相手がお登美であるが故に憂いているとは、ハハハ、女の嫉妬は根深いと聞くが、そんな見栄を張るとは、深いどころかねじくれておるな。いや、いや、心配には及ばん。早合点も甚だしい。私がお登美に懸想する筈がなかろうが。あれは久兵衛の女。幾ら生臭坊主といえど、友と認めた男のものを横取りする盗人には身を落としておらん」
「本当かい?」
「本当だとも。無量寿経には『心口各異、言念無実』とあるが、拙僧、仏の五戒を破りはせぬ」
「今更、どの口が言うかねェ。仏の教えだってさ。褥ん中じゃ、あたしを拝んでたじゃないか。お前さんが坊主なら、あたしゃ菩薩だよ……本当だね?お前さん、浮気しないね?」
「諄い。しないと言ったらしない」
「あァ良かった。安心した。ほっとしたよ。胸の患いが晴れたみたいに気持ちがスッとしたよォ。お前さんの口から約束が聞けて、心底嬉しいじゃないかァ。えェ?良かった良かった……しかしねェ……」
「何だ?未だ何かあるのか?」
「いえねェ、これでお前さんは安心だけれども、今度は久兵衛さんが心配になっちまってね」
「未だ言うか。お登美がどうのこうのと、あれは嫉妬が生んだ嘘であろう」
「嘘なもんかね。お登美姉さんに附いて足掛け三年、あたしぐらい姉さんを知り尽くしてる者はおりませんよ。姉さんはね、掃き溜めに鶴、静かで雅で、器量の良い、其りゃ出来た御方だがね、あたしはあの姉さんの綺麗な顔を見ていると、時々、ゾッとするんだ」
「風邪か?」
「からかうんじゃないよ。あたしはね、まったく、姉さんのあの白い横顔なんかを見ているとね、目元なんかが、こう、キラリと光る様な気がしてね、其れを見る度にゾッとするんだ」
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