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後日談 蜜色の雨が止んだ朝に
夏が終わるこの時期、朝は少し肌寒いほどに気温が低い。
特に朝日が昇って間もない雨上がりは、しっとり濡れた空気が冷たかった。
そんな、至るところに雫を作った住宅街の中を、俺は李緒先輩と並び立って歩いていた。
ふわ、と可愛らしく欠伸を漏らした先輩に少し笑って、繋いだ手を軽く引っ張る。
「せーんぱい、まだ眠いですか?」
「眠いにきまってんだろコノヤロウ。あー、くっそ…。眠い……。」
彼女が朝に弱いと知った。寝起きは機嫌と口が悪くなることも。
初夜が明けた早朝、俺の知らなかった先輩を知り、酷く嬉しかったことは言葉にしていない。
気づかれないように先輩を見れば、彼女は睨みつけるように真っ直ぐ前だけを見つめていた。幸い俺の視線には気づいていないようだ。
その目元がうっすら赤いのは、昨晩散々に泣かせてしまったから。
寝不足に不機嫌なのは、寝かせてあげる余裕を失っていたから。
そうやって怒られそうな要素を作った男の手を離さないのは、名残惜しいと感じてくれているから、なんて。
聞くつもりもないけれど、なんだか満たされた気分だった。
「……ごめんね、樹。」
突然、先輩の口が謝罪を紡ぐ。
ぼんやり彼女を眺めていた俺は、ハッとして慌てて問いかけた。
「え、何のことですか?」
先輩はなんと言うべきか、迷っているようだった。それでも懸命に言葉を探して、目を伏せている。
俺は彼女の手を引いて、歩みを止めた。釣られて立ち止まった彼女が、驚いたように顔を上げた。
「ゆっくりでいいですよ。待ちます。」
安心させるように笑みを浮かべる。
どうせ誰もいない住宅街だ。立ち止まって恋人の言葉を待つ贅沢くらい、許してくれるだろう。
歩き損ねた半身で振り返る先輩は、数秒固まって、そして深い溜息をついた。
「……ありがと。気を遣ってくれて。」
情けないなぁ私、なんて、彼女は絶対口にしない。言いたげな顔だが、言うことはあり得ない。
そう言えば「そんなことない」と俺が否定するのを分かっているから。与えられる自己肯定に甘えないのは、彼女の美点か、別のものか。俺にとっては愛しさしか湧かないけれど。
制限時間が無制限になって、余裕が出来たらしい。次に顔を上げた先輩は、言葉を詰まらせなかった。
「樹。」
「はい。」
繋いだままの片手に、きゅ、と少しだけ力が入るのを感じた。
「初めて一緒に迎えた朝を、慌しく過ごさせることになって申し訳ないと思っているよ。」
「……やっぱり、そのこと気にしてましたね、先輩。」
「そりゃね。」
私は案外シンプルなロマンチストだよ、と戯けて笑う先輩は、きっと重苦しい空気にしたくないんだろう。
時は約一時間前、初夜を過ごした幸せな朝に早く目覚めた俺たちが、ベッドで軽い攻防と言う名の戯れ合いをしていた時に遡る。
口では嫌だと言いながらもキスを拒まない先輩に対して、大胆になってきた俺の動きを遮ったのは、短く鳴り響いた通知音だった。
それは、ベッド横のテーブルに置いていた先輩のスマホからである。体をぎこちなく起こしながら手を伸ばす彼女だったが、その顔が若干不満そうだったのは見間違いではないと思う。
だが、ロック画面の通知を確認した先輩は、数秒固まった後表情を青ざめさせた。
どうやら穏やかな連絡ではなさそうで、俺は彼女の名前を呼んだ。
そして、先輩が呆然と告げた言葉に俺も青ざめることとなる。
『兄さんが、あと二時間くらいで帰ってくる……。』
李緒先輩のお兄さんといえば、自他共に認めるシスコン、なんて生易しいものではないほど妹を溺愛することで一部から有名だ。
もちろん、先輩自身もそのことを理解した上で、兄を家族として愛している。
そんな彼は、現在別の県に出張という名の手伝いに駆り出されているわけだが、仕事が早く終わったため、予定より大幅に短縮した時刻に戻ることになったらしい。具体的には、十時間ほど巻いている。
兄さん有能、と李緒先輩は虚ろな目で呟いた。
先輩は、昨晩俺の家の外泊許可を父親から取ったと言う。つまりお兄さんは、彼女が初夜を過ごしたことを確実に知らない。
本気ではないだろうけどね、と前置きして先輩は言った。
『まだ樹と兄さん、夏休みの決闘…ふふ、決闘の決着ついてないでしょ?だから兄さんは、私の交際を認めない!って立場だと思うんだよ。なのに今の状況、絶対面倒になるだろうね。』
だから早く帰るよ、と苦笑する彼女。
しかし、言ったことが全てではない気がして、俺は俺なりに考えてみる。
多分だが、彼女はお兄さんに自分なりの義理を通そうとしている。お兄さんからの愛が分かりやすすぎて見落としがちだが、李緒先輩だって十分兄を大切にしているのだ。
お兄さんは俺をよく知らないし、俺もお兄さんをよく知らない。夏に一度会ったきりである。
互いに理解してない中、大事な妹を預けるのは不安な筈だ。
そんなお兄さんの心情を汲んで、自らから察するより先に、先輩の口から直接告げたいのだろう。
これが身勝手な我儘であると、きっと先輩は思っている。
考えていたことは告げずに、俺は彼女の頼みを承諾した。
そして現在、雨上がりの朝、先輩の家へと歩いているわけである。
「……あ、見て。」
ふ、と先輩は視線を落とした。なんの脈絡のない話で、つい釣られて思わずそれを追う。
その先にあるのは、足元近くにあった水溜りだ。写った空は青と灰色が混在していて、水面が揺れ反射する太陽が時折銀色を見せていた。
その逆さの空が綺麗だと思ったのか、李緒先輩の目が和らぐ。
「…綺麗ですね。」
「うん。水溜りに写った空、結構好きなんだよね。」
ふふ、と嬉しそうな顔は口調共にいつも通りで、どうやら目が完全に覚めたらしい。
先程までの、我儘の後悔を忘れた訳ではなさそうだが、少し心に余裕を取り戻していた。彼女の顔をこっそり見て、内心胸を撫で下ろす。
日常に紛れた美しさを見つけることが得意な人だ、と思う。
例えば、見上げた空の色。紫が混ざったときの夕暮れが一番好きだと、笑っていた。
水滴に彩られた紫陽花。窓を叩く雨の音、そのリズム。いつの間にか咲いた花の形。小説の中の言葉。映画の鮮やかな風景。
そうやって、彼女の中で自己完結することも出来る「綺麗なもの」を、言葉で指し示してくれるようになったのは、いつからだっただろう。共有してくれるようになったのは、いつからだっただろう。
李緒先輩にとっては些細なことかもしれない。無意識のうちかもしれない。
だけど、俺には酷く嬉しいことなのだ。
彼女の見ている世界に触れること、それを許してくれることが。
だから、我儘を苦になんて思うはずがない。
李緒先輩の見る世界が、少し分かるような気がするから。
「李緒。」
あえて名前だけで彼女を呼ぶ。ぴくっ、と繋いだままの手が震えた。
顔を合わせることに躊躇を感じたようで、先輩は俯いて黙っている。
というのも、今のところ俺が先輩を名前だけで呼ぶ時は、大体が先輩に明確な意思を持って触れるときだけだからだ。
「りーお、俺を見てください。」
声音に毒を混ぜるように、甘く囁いた。
次は素直に顔を上げた先輩だったが、不満そうに頬を膨らませている。
「…狡いんだよ、樹は。」
「はは、すみません。」
「誠意が全く感じられない。」
はぁ、と軽く息を吐いた彼女は空いていた俺の手も取り、両手を繋いだ。咎める理由もないので好きにさせて、いたずらに指を弄る先輩に言う。
「何度でも言いますけど、俺は気にしてませんよ。」
「だろうね。」
即答だった。
事実、俺はあまり気にしていないし、そのことを先輩だってわかっているだろう。それでも自分の感情優先で謝るのが、李緒先輩という人なのだ。
俺は困ったような笑みを浮かべて、彼女の名を呼ぶ。
「じゃあ、どうしたら俺はあなたを許せますか?」
李緒先輩がパッと顔を上げた。分かりやすく甘やかした俺に、何か文句を言おうとして、だけど結局動かした唇を引き結ぶ。
そんな一連を、俺はニコニコしながら見守った。
繋いでいた先輩の両手が、するりと離れる。そのまま流れるように俺の背に手を回して、彼女の頭が胸に収まった。
早朝とはいえ、李緒先輩が外で触れ合いたがるのは珍しい。少し驚いたが、それ以上に喜びや愛おしさの方が強く、俺も抱きしめ返す。
すっぽりと腕に馴染む華奢な体。
身長差と密着度で、彼女の顔は見えなかった。
「…樹。」
「はい?」
「……午後に、また樹の家行っていい?」
少し、泣きそうな声だった。
昨日散々聞いた泣き声とは違って、俺の苦手な類のそれだ。
いいですよ、とゆったり答えて、羊羹色の長い髪を撫でる。すり、と先輩の頭が胸に擦り寄ってきた。甘えたがりの猫のような動きに、思わず天を仰ぐ。
声のトーンが変わらないように気をつけて、俺は彼女に言った。
「じゃあ、その時にお菓子作ってください。この前持ってきたマフィン、また食べたいです。」
先輩は料理が上手だ。しかし、普通の料理よりもデザートやパンの方が得意だと、本人は語っている。
何度か食べさせてもらったが、夏休みに「季節には合わないけど。」と言いながら生徒会室に持ってきた蜂蜜味のマフィンを、俺は一際好いている。
「…わかった。」
「やった。」
肯定を聞いて、俺は声を出して笑う。
もぞりと先輩の頭が動き、目だけが見上げていた。僅かに覗く頬は赤みが差している。
「樹は可愛いのかカッコいいのか統一して?心臓に悪いんだけど。」
「えっ、何がですか?」
「自覚ないんかい。あなた今どんな顔してると……って、この流れ昨日もやったな。」
既視感のある会話に先輩は面白そうに口元を緩ませて、そのままその後の行為まで思い出したのか俺から目を逸らす。じわじわと、頬の赤みが濃さを増して、熱をより明確に伝えてきた。
「…先輩、キスしますか?」
「いやしない。ここ路上だよ?」
「それは残念。」
「大して残念そうじゃないんだけど…。」
とは言いつつも、未だ抱きしめ合ったまま彼女は離れようとしない。
言葉とは裏腹の行動。可愛いと口にすれば、先輩は怪訝そうな顔で首をかしげる。
「やっぱり、樹の可愛いの基準がわからないな。こういうのは面倒なだけじゃないの?」
「いやいや全く。」
俺はいつも通り、明るく笑った。
ふぅん、と興味なさげに曖昧な返事をする先輩だが、いい加減この人も気づいた方がいい。
俺に大事にされているという自覚があるくせに、妙なところで鈍感、逆もまた然りで妙に鋭かったりする。
そんなあなたを全て肯定してしまえるほど、愛されているということに。
それを言葉にしない悪戯に気づくのは、一体いつになるのだろうか。
腕時計を見て、そろそろ歩き出さないといけないことを思い出す。
そんな俺の動きを見て察したのか、李緒先輩が数歩下がって体を離した。水が手からこぼれるような軽い動作で、彼女の熱が腕から消えた。
「さて、じゃあ帰るか。」
「そうですね。」
仕切り直すように言った先輩に、俺も肯定を返す。自然と引き合って繋いだ手。歩いてきたときと同じく、指を絡めた。
それは、昨日激しさを増す雨の中、確かに感じた温度よりもずっと優しい熱。手の中にある幸福を噛みしめるように、握る力を少し強めた。
朝日が昇り、久しい。
太陽の光が空気に染み渡り、もう肌寒さは感じなくなっていた。
足取り軽く歩き出した先輩が先導する歩みに付いて行き、いつもの距離感を保つ。
あれほど渇望していた彼女の全てを貰って、けれど特に何かが劇的に変わったわけではない。
ただ俺は、今まで知らなかった愛しい人の新しい一面を知り、それを受け入れ愛した。
まだ少し薄暗い朝に好きな人の体温を感じて微睡む幸せや、冷たい手に温度が交わっていく時間を慈しんで、大切にしようと誓った。
それだけ。
そして、ただそれだけの朝に、酷く感謝をしている。
「李緒先輩。」
「んー?」
間延びした返事に少し笑って、俺は彼女を見ながら言葉を紡ぐ。
「好きですよ。」
「………。」
こちらを向いた瞳では、様々な感情が移ろいゆく。驚き、呆れて、迷って、そして最後にはふわりと和らいだ。
それはただ幸せだと、そう伝えてくるような。
雨上がりに美しく映えるような。
「………私も好き。」
そんな笑い方だった。
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