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〈22 信じること〉
和んだ空気を変える気になれなくて、僕は話を変えようと思った。加奈子さんの辛い過去をすべて暴きたいわけではないし。
「結局……あの制多迦童子像から見つかった人骨が、慈桂上人だったってことなんだよな」
「おそらく」
そうなると疑問はさらに膨らむ。
「じゃあ、あの奥の院に安置されている慈桂上人は……?」
一体何者だ。慈桂上人として信仰を一身に集める異形の仏様は。
弦はぼた餅をほおばりながら、こともなげに言う。
「あの日、瑞芳寺の書庫で見ただろ、おそらくあれが甲府から流れてきた罪人だ」
あの寒い書庫での古記録の捜索を思い出す。そういえば、そんなことを弦が言っていた。あのとき、僕はそれどころではなくて、真剣に聞いていたわけではなかったけど。
「入れ替わっていたということ?」
「……その可能性が高い」
「そんなことができるのか?」
僕は何も考えずに聞いていた。なにがどうしてこうなった。
「もちろん、羽生家から出てきた古記録が、瑞芳寺の住職が残した日記が嘘であった可能性は否定できない。でも、俺は二つの理由で骨壺の主と慈桂上人がテレコになっていた可能性があると思っている」
二つ?
僕は気づけば身を乗り出していた。
「一つはあの人骨だ。あれはちゃんと調べた結果、火葬されたものなんだろ。ちゃんとは見ていないけど。江戸時代に火葬されることは地域差はあっても一般的とは言い難かった。火葬が一般化したのは明治以降。政府の方針でな。それ以前は宗派や地域によって差があったけど土葬も多かった。理由は簡単だ。火葬するには燃料になる薪が必要で金がかかるからだ。だから、流れて匿われていた罪人が火葬されたというのは考えにくい」
弦によると、江戸時代には地方や身分によって火葬もあったが、罪人を火葬することはなかった。このあたりは土葬が一般的だったそうだ。
「じゃあ、そもそも疑問に思っていたのか」
「そうだなあ。火葬されていると聞いたときには、それなりの立場の人間だったのだろうけど、なんでこんな仏像に納められていたんだろうなって思ってた」
ちょっとまて、と僕ははたと思う。
「あれ、そういうことを大学教授が知らないわけないよね?」
「さあな」
近江教授はそんな疑問があったから、調査の強行を決めたのだろうと僕は思った。
「まあ今となってはわからないけどな」
僕の思考を読みとってるかのように弦は絶妙なタイミングで合いの手を入れてくる。
「あと、羽生家の当主の日記。当時調べたときには、年代的には間違いはなかったが、記載されていることが真実かはわからなかった。まああれが真実だと証明する術は難しいかもな」
ちなみにその日記は参考として警察に提出しているけど、事実かどうかは警察だって調べないだろうな、と弦は言った。僕と喧嘩別れした後、弦はその書物を取りに自宅に帰っていたそうだ。
「えっと、即身仏は慈桂上人本人ではない、だっけ?」
弦は頷いた。
「個人の日記だから、結構赤裸々だったぞ。瑞芳寺に安置されている即身仏は罪人である。それよりも先立つこと数年前に慈桂上人が即身仏になることを失敗した、みたいな感じのことが書かれていた」
その失敗という言葉に僕は驚いた。
「失敗って……」
弦は皿から四つめのぼた餅を取り上げる。よく食べる。本当に好きなんだなと思う。
「あるんだよ。即身仏になるっていうのは、長い苦行の末に到達するものだ。千日後に掘り起こされるとミイラになっているというものだけど、わりとそこにはいろいろな顛末……悲喜交々があって。例えば、関係者と信頼関係を築いておかないと、うっかり放置されたりすることもあったらしいぞ。この日本にはまだ掘り起こされていない即身仏もあると、オカルト紛いに言われていたりもする。しかも、そんな長く辛い修行を経たすべてが即身仏になれたわけではない。体内に水分が残っていたばかりに、腐食し白骨化してしまったケースもある。土や風土や陽気が悪かったりしても即身仏になれない。日本はミイラになるのに適さない風土なんだ」
だから即身仏になれるのかは賭けに近いし、だからこその苦行として成り立つのかもしれない、と弦は言った。弦が言いたいことは分かる。しかし、そのような状況がどうなれば罪人が即身仏になるという展開になるのか僕には理解できない。
そんな僕の疑問を弦がにやりと笑って応じる。
「仏教界ってのはえぐいぞ」
知ってると、僕も頷く。
「当時、即身仏があれば参拝客を呼べた。だから寺院側が即身仏になることを条件に罪人を匿ったという話もある。あの慈桂上人と呼ばれる人物が、そういうやりとりで匿われたのかは分からないけどな」
なるほど。即身仏になりきれなかった本物の慈桂上人の身代わりとして、匿われた罪人が慈桂上人として即身仏となったという訳か。
「罪人が即身仏。本人は死にたくなくて、助かりたくてここに逃げ込んできたわけだから、きっとすげーえげつないことが行われていたってことが簡単に想像できるな」
あの慈桂上人もそのような経緯で納められた即身仏だったのかもしれない。
「……一方、本物の慈桂上人は運が悪かったということか」
弦も頷いた。
「自ら即身仏になると決意し、仏教のなかでも苦行中の苦行とされる修行を経た慈桂上人を掘り起こしてみると、腐敗していた……。本人の無念もさることながら、周囲も衝撃だっただろうな。しかも、寺としては慈桂上人の影武者のような即身仏をすでに手配していたから、きちんと弔うこともできず、制多迦童子像の胎内に弔ったのだろう」
それから百八十年、僕がその制多迦童子像の修復を請け負うまでずっと眠っていた。しかし、その本物の慈桂上人だって、制多迦童子像の一部として、長くこの地域の人々の信仰を集めてきた。即身仏の慈桂上人ではないが、人々の祈りの対象であったことに変わりはないのだ。
仏像はどんなに立派なものでも最初は木の彫刻にすぎない。しかし、人々の祈りを受けて真の仏様になると僕は師匠から教わった。実際にその通りだと思う。
だから、もう誰が慈桂上人なのか、なんてどうでもいい話ではないかと思う。
あの即身仏になった罪人とされる人物は、いろいろあった末にあの姿になった。大事なのは、その姿が仏様として長くこの地の人々の信仰を集め、その仏性を実際に感じるということだ。
「あの慈桂上人は、元は罪人であったかもしれないけど、もう長い間人々の祈りによって、慈桂上人という仏様になっている。本物の慈桂上人は即身仏になることは叶わなかったけど、この寺の制多迦童子像に向けられる人々の信仰心を通して仏様となっている」
仏様と人々の信仰というのはそういうものではないのだろうか。
となると、僕は仏師としてまだまだ未熟だ。
「胎内から骨壺が出てきたとしても、僕がそこで大騒ぎをする必要はなかったのかもしれない」
弦が苦笑した。
「いや、それは普通に驚くだろ」
「それでもあの制多迦童子像は、胎内に納められていた骨壺を含めて、瑞芳寺の制多迦童子像だったのだから、もっといい方法があったのかもしれない」
僕は自分で辿り着いた結論にがっくりときた。まだまだ修行が足らない。技術的にも精神的にも。
「こんな顛末はだれにも想像できないさ」
弦がらしくなく慰めてくれる。
「そう言えば、国領和尚は」
僕は一人息子の猛が逮捕されて、孤高の山寺に取り残された国領和尚を思った。
弦は首を横に振る。
「心労が祟って入院しちまった」
僕はやるせない気持ちに襲われて、ため息を吐いた。仏門の人だ。その息子が犯罪に手を染めていたと聞いて、その衝撃は計り知れない。やっぱり僕が覚えていれば、と思ってしまう。どこかで止められたのではないか。
過去形で「たられば」は、後悔しか生まない、とても不健康な想像だと自覚はしている。しかし、それでも考えてしまうのだから仕方が無い。
「……真琴は優しいよな」
ふいに弦がそう言い出す。僕は焦る。
「そ、そうかな?」
しかし、弦を見るとどうも親切心で言っているような言葉ではなさそうだった。どこか探るような視線を感じる。
「お前自身、かなり酷い目にあった事件だろ。幸い腕は折れていなくて軽傷で済んだけど。憧れだった加奈子さんには恋人がいて、その加奈子さん自身に殺されかけたんだ。なのに、どうしてそんなに気遣える?」
そんなことを言われても僕には答えようがない。確かに、僕のなかには加奈子さんにも猛にも憎しみはない。怪我も大したことがなかったためだろうかと思うが、なぜと問われても分からない。
僕とは比べものにならないくらい辛い過去を背負う加奈子さんに同情しているのか、そんな彼女を守り、共に墜ちた猛に共感めいたものを抱いているのか。
彼らがやったことを、完全に最悪なものとして突き放すことができない僕は、うまく丸め込まれている状態なのかもしれない。弦曰く、僕はチョロい人間らしいから。しかし、それでもいいかなとい思う自分がいるのだ。
「弦。お前は……、ショックじゃないのか、猛が」
弦はふっと真顔になって僕を見た。
「話してくれなかったのはショックだったけどな。でも仕方ねえ。俺とあいつがダチなのは変わらんしな」
猛と加奈子さんはこれから厳しい人生が待っていると思うが、そのなかに少し変わらないものがあってもいいだろう。猛を未だに友達と言い切れる弦もまた、お人好しだと言われるかもしれない。
ただ、僕はそれが嫌ではない。
そう、こいつは基本的に悪い奴ではないのだ。
「や……優しいっていうなら、お前の方だよ」
端から見て、二十代の男ふたりが「お前優しいな」「いやいや、お前の方が優しいよ」なんて会話を交わすのは気味が悪い。
「俺?」
意外な表情を浮かべている。
「僕の……暴言を、ゆるして戻ってきてくれただろ」
信用なんてできるわけがない、迷惑だから、どこかにいけよと叫んだあの一件だ。
「それでも戻ってきてくれたから、僕は命拾いをした」
ありがとうと言いかけると、弦がそれを止める仕草を見せた。
「違う。あれは、誤解を解きたかったんだ」
いやむしろ、弁解したかったんだ、と弦は言った。
僕が密かにショックを受けていた高校の卒業式の後には、まだまだ続きがあるというのだ。
「確かに俺は卒業式のときにお前の存在を知った。……っていうか、それまでは本当に興味がなかったんだ。実は学年トップだったっていうのも知らなかった。でも、あの時のお前の傷ついた顔がどうしても頭から離れなくて。まずいことを言ったんだなって気になっていた。……本当に俺は加奈子さんのときから成長していなかったんだよ。何を言えば人が傷つくのか、分かっているようで分かっていなかった」
……確かにそうかもしれない。
「卒業してからしばらくしてガッコに行った。本当は直接お前に会いに行けばよかったのかもしれないけど、そんな勇気はなかった。そして、そこでお前のことをいろいろと聞いたんだ。なんでこんなに身近におもしろいやつがいて、興味がなかったんだろう、って思ったよ。でも、結局連絡を取ることもできなくてさ。きっと俺が勝手に咀嚼しまくって、あたかも自分が経験したような気分になっている出来事もあると思う。それできっとお前は混乱したんだ。今更だけど、悪かった」
それは謝ることなのだろうか。
「……僕でも覚えていないようなことを、弦は覚えているんだな」
高校生の頃、無視されることよりも、いじめられる方が悲惨だと思っていた。だけど、自分のことを誰も覚えていてくれないこともまた悲しいことだったと、僕はあの卒業式で初めて知った。
「僕はたぶん、瑞芳寺で再会してお前と行動をともにして、まんざらではなかったと思う。ただ、理解できなかっただけなんだ。だって、あのとき。お前が信じて待てってメールをくれたから、僕は待てた」
「へえ?」
弦の語尾が少し上がる。少し嬉しそうな声色だ。
「そういえば、真琴、お前吃音が減ったな」
言われてみれば。自分でも気がつかなかった。
「俺に慣れてきたのかな」
弦の言葉に、僕はどうしても付け加えたくなる。
「……お前の強引さにな」
弦が嬉しそうな顔を向けてくる。こんなコミュニケーション力が求められるやりとりを、難なくこなすことができるようになった自分に驚く。自分に足らなかったのは場数だったのかもしれない。
「あのときは、助けてくれてありがとう」
このように他人に礼を言うなんて久しぶりだ。なんだか面と向かって言うにはとても気恥ずかしい。礼だって言い慣れないと、ハードルが高くなるんだな。
すると、弦も照れたような表情を見せてこう言った。
「あはは。オレなんかを信用するなよ」
【了】
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