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 母の三回忌を身内だけで細々と執り行いそのまま兄が私の家にきた。 母と二人暮らしだった私は今でも古びたこの一軒家に一人で住み、未だに母の物を捨てられずにいる。 兄にとっても実家であるためつかつかと上がるとさっさと喪服を脱ぎ、置いてあるスウェットに着替え炬燵の電源を入れる。 「寒い寒い…一軒家はいつも寒い…」と文句を言い炬燵に潜り込む。 私はやかんを火にかけ、「冷えたしお茶漬けでも食べようか。お寿司じゃ食べた気にならないね。」と冷蔵庫の中を吟味する。 「あの元気な母さんが死んでもう三年もたつなんてな。信じられないよ。今でも台所から歯は磨いたのか~人様に迷惑かけてないか~って聞いてくるんじゃないかって思うわ。」炬燵からちょっとだけ顔を出して兄は言った。 「そうだね、母さんはいつも台所にいた。」 『美味しいご飯があればみんな帰ってくる』 それが母の口癖だった。 料理を人に振る舞うのが好きな母は父が存命中は毎週末のように父の同僚を招いて自宅で食事会をしていた。 独身の若い人たちはとても喜び大いに食べるので母はいつも大量に食事を作り、余ったものは持たせたりもした。 父は兄が中学生、私が小学生のとき事故で亡くなった。 保険金でなんとか暮らすことはできたが母はパートにでて兄はお決まりのようにグレ、帰らない日が多かったにも関わらず、母は毎日食事をつくった。 兄のことでいつも謝って歩いている母をみると私はとてもじゃないがワガママなど言えず、中学生という多感な時期は反抗期を経験することなく波風立てないことだけを心に日々を過ごしていた。 私の高校受験を前に兄の友達が頻繁に泊まるようになった。辛うじて兄は高校に通っていたが進学校に進んだ幼馴染みはそれまでの兄の友達とは違い真面目そうだった。 彼は家庭の事情があるとかで、母はそんな彼にいつもご飯を食べさせていた。 それがひどく嫌だった私は食卓につくことはなくなり受験を理由に部屋に閉じ籠るようになった。 母はお盆に食事を載せ、私の部屋の前に置く。私は反抗してるわけじゃないことを醸し出すため「ありがと~」「そこおいといて~」などと白々しく声をかけていた。 食べた食器は夜、こっそりと洗って戻した。 そんな生活が三ヶ月ほど続いたときだろうか。 私が帰ると母も兄もいない家に彼だけがいて寝っ転がりながらテレビをみていた。 その余りにも堂々とした姿に唖然としつつもなぜか正当な住人である私がコソコソと自分の部屋へ向かった。 「おかえり。」 始めは自分に声をかけられているとは思わなかった。彼はあくまで兄の幼馴染みで私とはほとんど遊んだ覚えなどない。 「おかえり。ねぇ、珈琲飲む?」その場を動けずにいると彼はそう尋ねてきた。 「珈琲?」返事をしてしまってからはっとした。しかし時すでに遅く彼はガバッと起き上がり 「そう、珈琲。飲みに行かない?」 「いちいち外に飲みに行かなくてもインスタントがあるよ。」 「もっと美味しいの。絶対美味しいから。さ、用意して!早くしないと!」 押される形で珈琲を飲みに出掛けることとなり制服から私服に着替えて玄関に向かうと準備をすませた彼が待っていた。 「そんな格好?…まぁいっか…よし行こう!」彼は乗ってきていた自転車の2人乗り部分にタオルを巻き、おしりが痛くないようにしてくれていた。 「自転車で?」 「自転車で。疲れたら交代ね。」 都会とも言えない町だが明らかに商店街とは逆方向にすすむことが不安になった。 「どこいくの?」 「秘密!」息をきらしてゆるやかな坂道を登り、下り坂のときは 「わー!!」と大きな声ではしゃいだ。 30分ほど漕ぐと小さな山の山道前に自転車を横付けする。 「ここ?」 「まだまだ。」 立ち入り禁止のロープをくぐる彼に 「勝手に入っちゃだめじゃないの?」とおろおろしながら声をかけるが 「うちの山だから大丈夫、早くしないと!」 山道とも言えない獣道に恐る恐る足を踏み入れる。小枝がパキパキと小気味良くはじけた。 こんなところに喫茶店なんてあるんだろうか…。若干薄気味悪くなってきたところで草むらからガサッ!と大きな音が聞こえ飛び上がった。 「あはは!大丈夫だよ、たぬきとか小動物でしょ。」私のまぬけな姿がお気に召したようでその後もずっと笑っている彼を見て、声をだして笑う彼を初めて見たなぁなどと呑気に思ったものだった。 山道は割りと険しく軽装備だったことを悔やんだが、人工的ではないまばらな紅葉の美しさは目まぐるしく変化し先へ、先へと私の足を運んでくれた。 どのくらい歩いただろうか、目の前が急に開け広場のような所に着いた。 「到着~!お疲れ様。いま珈琲淹れるから待っててね。」 周りを見渡しても店一つなく驚いていたところ、これから珈琲を淹れると言う。 背中のリュックを降ろしガランゴロンとガスバーナーとやかんをとりだしお湯を沸かし始める。 珈琲ミルでゴリゴリと豆を挽き始めたのを興味津々で見ていると 「やる?」と声をかけられた。そんなにやりたそうな目で見ていたのかと恥ずかしさが先行するがおずおずと受け取る。 手動式のミルは使い込まれた木製のものでゴリゴリとレバーを廻すと木の引き出し部分に粉が溜まった。 手に伝わる珈琲が削れる振動がなんとも心地よくいくらでも挽いていられる気がする。 「オッケー、あとは任せて。」気持ちよいところを邪魔されむっとするが、粉をフィルターに移しドリッパーにお湯を注ぐ姿は真剣そのもので息をのんだ。 ゆっくりとお湯を注ぐとぶわぶわと粉が泡立ち香ばしい香りが立つ。 「いい香りだろ。あ、これ椅子。座ってて」そう言って渡されたのは木箱だった。 しぶしぶそこに座ると秋の日はゆっくりと空を茜色に染めていった。 紅葉と樹木の緑とのコントラストが美しく見惚れていると 「お待たせ。」と言ってホーローのカップに注がれた琥珀色の珈琲をくれた。 持ち手の部分が熱くて慌てたが袖を伸ばして持ち手をくるむ。 たっぷりと注がれた珈琲からは湯気がしっとりと立ち上ぼり夕日へと変化する太陽を隠した。 唇をつけるとホーロー部分はまだ熱く何度も冷まし、恐る恐る一口すする。 珈琲の香りが口から鼻へ抜け飲み込むと後味に苦味が残る。 「酸っぱい…って言っていいの?果物を食べたときみたいに爽やかな酸味がある気がする…珈琲なのに?」普段は珈琲など滅多に飲まない。飲むとしてもインスタントか市販のものでたっぷり砂糖とミルクが入っている。 ブラックのまま口をつけたのは『子供扱いされたくない』という小さなプライドからだったが珈琲がこんなにも複雑に味が変化していくとは知らなかった。 「砂糖とミルクなしで大丈夫かなぁって思ってたんだけど。酸っぱいで合ってるよ。キリマンジャロ。」自分も木箱に座りながら珈琲をすする。 「ほら。見て、空の色。これを見ながら珈琲飲みたかったんだよね。」 沈みいく太陽を受け止めるがごとく地平線は青と白が入り雑じった藍色に染まる。 美しいというより神々しく後ろめたいことの方が多い私は自分のことをつい省みてしまう。 「俺が家に居着いてごめんな。」空を見ながら彼は言った。 「謝らなきゃって思ってた。行っちゃダメだってのも分かってるんだけどおっかさんのご飯…食べたくてさ。」彼は母のことをおっかさんと呼んでいた。 「俺の母親が出ていって父親と二人になって。家に帰っても誰もいないんだよね、もちろんご飯なんてない。お金はあるけど俺、好き嫌いが多いから食べられるものもなかなかなくてさ。そんなときお前のお兄ちゃんに会ったんだ。すごい痩せちゃってたから驚かれてさ。俺としてはヤンキーになったお前の姿のが驚きだよってね!」 ガサガサとリュックから缶入りのクッキーを取りだし手渡される。 「おっかさんのクッキー。弁当も作ってくれてんだけど育ち盛りっつーの?昼までもたないって話しをしたら焼き菓子作ってくれるようになってさ。『休憩時間に食べなさい!お友だちにもあげるのよ!』って缶に入れてめっちゃ持たせてくれてさ。俺いま缶々王子って呼ばれてんの。」くくくっと笑いを堪えながら彼もクッキーをつまむ。 「そんなんさ、本当の母親だったら恥ずかしいし嫌じゃん。でも他人だから。気を使うっていうのもあるし、なんか素直に聞ける…。俺、実の母親に今まですげぇひどいことしてた。ろくに返事もしない、俺のためにやってくれたこともうぜぇって。母さん、傷ついてたよな…後悔してる…もう遅いけどさ。子供だからって何してもいいわけじゃなかった。友達とかには気遣って優しいふりしてたのに本当は一番大事にしなきゃいけない家族に…どうしてできなかったんだろうな。。。」 気の効いた返事が返せずうつむいていると日はどんどんと沈んでいった。 日が落ちるだけで気温はぐっと下がる。ぶるりと寒さを感じると 「…帰ろっか。ぐいっと飲んじゃって!」にこりと微笑まれ手際よく彼は片付けを始めた。 あっという間に冷えた珈琲を飲み干し私はあることに気づく。 「こんな暗くなっちゃって…またあの道を降りるの?」 「あぁ、普通に街灯がある道あるから。」 「え!じゃあなんで最初からそっちじゃないのさ?」 「…。つまんないだろ?」彼のとぼけた言い草にいよいよ自分がばからしくなり笑ってしまった。 「おっかさんはさ、お前の気持ち気づいてるよ。それでも俺を見捨てられねーの。わりぃな。。」 「…たまになら来てもいいよ。勉強教えてくれんならね。」 「言うなお前~!あ、でも進学校行ってるけど頭よくないからな。お前の兄ちゃんよりはましだけど!」 小さな神社の前にでて賽銭も入れずにお参りし、長い長い街灯のある階段を降りる。 帰りは私が自転車をこいで、家に着く頃には母も兄もいて呆れられたがその後みんなで鍋をつついた。 数年後、母はあっけなくこの世を去った。 気づいたときには手遅れで慌ただしく入院が決まった。 入院直前まで母は台所に立ち冷凍できるおかずをわんさか作って行った。 徐々に痩せていく母に何か食べたいものはないかと聞くと 「餃子が作りたいね、インド風カレーなんてのも作ってみたい。チーズ蒸しパンはお兄ちゃん好きだね、お前は和食が好きだものね。ほんと、お兄ちゃんと好みが違うから大変!」作りたいものなど聞いていないのににこにこと料理の話しばかりする。 私や兄は食べ物のことで喧嘩することが多かったことや、父さんが作った日曜日のラーメンはキャベツだらけで水っぽく不味かったのに言えなかったことなど、昔のことばかりを話したがった。 ころんとしていた母の背中はいつしか骨張り、タオルで拭いてると涙が溢れた。 「ごめんね、もっとあんたたちの世話したかったんだけど母さん、天国のお父さんと神様にご飯作ってあげなきゃみたい。」母はたんたんと語った。 「全然いいお母さんじゃなかったねぇ。ふふふ、子供を産む前はいっつも優しくてお菓子とか作って帰りを待って勉強見てあげて悩み相談とか聞いてあげて…って楽しみにしてたのに実際はいつも怒ってばかり、忙しくしてばかり。あんたは我慢強いからそこに甘えちゃって…ごめんね。」母は泣いていたのだろうか。こんなときに限って何も言えなくなる自分がもどかしい。しかし、「ありがとう」なんて言ってしまったらそこで終わりになってしまう気がして言えなかった。 その数日後、あっけなく母は旅立った。 私が大事なことを言おうと言うまいと容赦なく死は訪れた。 「母さんてなにが好きだったんだろうな。」私が作った鮭茶漬けをすすりながら兄が聞いた。 「好き嫌いのない人だったからね。」 紅鮭は網で皮がこんがりするように焼いた。そのはじで海苔もあぶりほうじちゃを沸かした。 昨日とっておいた昆布だしとほうじ茶を割り鮭と昆布のつくだ煮をのせたご飯に注ぎ入れたお茶漬けは我ながらうまかった。 結局私は母の子で、食品関係の仕事についている。丁寧に料理をすることが好きだった。 「お義姉さん、今日のこと納得したの?」 兄は高校卒業と共に結婚し相手の家に婿養子として入った。いわゆる『できちゃった』のだ。相手の親はカンカンになって 「筋を通せ!根性見せろ!」と言い「見せてやる!」と言い張った結果だったが今では腕のいい大工として評判もよい。 「『嫁のあたしが行かないなんて筋が通らねぇ!!』ってゲーゲー吐きながらわめいてたけどうちのクソガキ共連れて悪阻がひどい妊婦連れてとか鬼だろ。お義母さんに頼んできたよ。親方も孫たちには甘くてさ、張り切って面倒みてくれてるよ。」 義姉は元ヤンで顔も怖いし口も悪いが心根の優しい人情家だ。母が亡くなる前に孫の顔も見せてもらい、入院中もお世話になった。母の死に予想以上にショックを受けた兄をしっかりと支えてくれた感謝してもしきれない相手だ。 「そろそろ帰るわ、チビの相手も大変だろうしさ。」 兄はそういって紙袋に喪服を入れるとスウェットのまま帰っていった。 数分もしないうちに玄関でガタガタという音がした。 忘れ物でもしたのかと扉を開けると兄の幼なじみがそこにいた。 「よ。久しぶり、おっかさんは?」と言いながら大荷物を抱えズカズカと居間に向かう。 「いきなりだね。元気だった?」 「今ブラジルにいるんだよ。」 兄と同じように上着を脱ぎ散らかしこたつに入ると紙袋を渡された。 「おっかさんに。」紙袋をのぞくとまだ熱いホカホカの焼き芋が入っている。 「焼き芋?」 「焼き芋。おっかさんの大好物。」 「母さんが?」母が焼き芋を食べている姿など見たことがない。 「俺らに隠れて食べてたんだよ。おっかさん、なんでもくれちゃうじゃん?でも焼き芋だけは譲れなかったんだろうな。あるとき俺が早く帰ったら食っててめっちゃ慌ててさ。『二人には内緒よ。』って分けてくれてたのよ。可愛いだろ。」お茶を出しながら聞いた母の話しは意外なものだった。 「母は三年前に亡くなったんだよ。」という私に彼はひどく驚いた。驚いたというより狼狽えた。無言で家の中を探し回り遺影を目にしてがっくりとうなだれる。 「…なんで教えてくれなかったんだよぉ。」目に涙を浮かべながら訪ねる彼が少し可哀想になり母の最期を彼に話した。 「連絡しようと思ったんだけどどこにいるか分からないしさ。母さんいつも心配してたよ。…ちゃんと食べてるかって。」 「…だよな。俺、高校卒業してそのまま南米に行っちゃったから…。バックパッカーみたいなことして食べ物も合わないし苦労したけどおっかさんのことを思い出して自分で作ったりしてさ…。おっかさんが大変なときに何してたんだ俺は…。」大の男がわんわんと泣いたかと思うとぴたりと泣き止み 「会いに行こう。」 「今日?」 「今日!」 大きなリュックを背負った彼は私を引っ張りあげ連れ出す。言い出したら聞かない彼だ、苦笑いしながらコートだけは掴んで外に出た。 外には古びた自転車があり内心『また2人乗りか』と思いつつ後ろに乗る。 彼は子供のように泣きながら自転車をこいだ。この町には一つしかお寺はない。暗くなり始めた西の空は蒼く頬に当たる風は冷たかった。 お墓に着いたときにはすでに暗く彼の涙も枯れていた。涙が流れた痕が可愛らしく笑うと不思議そうな顔になった。 「おっかさんはどこだ?」新しい墓を建てる余裕などなかったため父も母も父の実家の墓にいる。 昼に花を挿し、掃除をした墓には線香の名残があった。 その前で熱心にお参りをする彼を少し離れたところから見守った。 しばらくすると唐突に 「よし、飲もう!」と言うのでここから行けるお店は…なんて考えているとおもむろにリュックから珈琲ミルを取りだしまたか!と笑った。 母の墓の前に座り込みお湯を沸かし、交代で珈琲豆を挽く。 コポコポとお湯を注ぎながら彼が話し出した。 「ブラジルの珈琲農園で働いてるんだ。そこの子と結婚して子供もいる。おっかさんに孫を見せたかった…。」 「孫じゃないけどね。」 「初めて珈琲を淹れた相手はおっかさんなんだ。教えてもらいながらじっくり珈琲入れて。おっかさんが美味しいって言ってくれるとめちゃくちゃ嬉しくてさ。焼き芋と珈琲飲むんだぜ?合わないだろ。」涙目で笑う彼につられ私も鼻の奥がつんっとする。 「お前らにも悪かったな、力になれなくて。」そう言って彼はホーローのカップを母のお墓に供える。私にも差し出されたが同じ轍は踏むまいと事前に袖を伸ばし取っ手を持った。 「俺が育ててローストした豆。日本にも輸出してる、なかなか評判いいんだぜ?」 ふーふーと気を付けながら一口すすると苦味があるのにさっぱりとした味わいで柔らかくほっとした。 彼に珈琲を淹れてもらってからブラックで飲むようにしてる。珈琲を飲むと元気になるし明るい気持ちになることを教えられた。 母が亡くなってからちょくちょくと父の元同僚たちが線香をあげにきた。 お世話になったから。 彼らは母か作った食事について涙ながらに語った。美味しかったと、味方がいてくれると、心強かったと。一食にそんな力があるものかと思ったものだが食べることは生きることだ。彼らの中にも私の中にも母の思いが息づいている。 珈琲を飲み終わりそう言えば母にも彼にも言えていなかった言葉を思い出した。 「ごちそうさま!」
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