《第一章 滅び》

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《第一章 滅び》

 夜、真っ暗闇の監獄、呉の領地である江陵に、牢獄に囚われの身である老将がいた。彼は、国を背負うほどの人物と言われていたが、傍若無人であったため、その才能を発揮するまでもなく、君主の怒りを買い牢獄生活となった。おおよそ三十年余りが過ぎた。彼に会いに来る人も少なくなかったが、誰も、彼を牢から出してくれる人はいなかった。 「全く…儂の知恵だけ頼って、恩を返すことも無く。儂は、ここで死ぬのかのぉ…」  そんなある時、長江を一隻の船がやってきて、若者が牢獄に近づいた。門番に金品を渡し、中から老将を救い出した。 「若造、お主は…?」 「我が名は…です。貴殿の力を借りに来ました」 「フッ…か。すまないな、我々の祖先は憎しみ合い、互いに命を狙っている者同士であったのだが、時代は変わるものだな」 「大都督、私たちは、国の覇により争うことになっていただけのこと。今後は、大都督の利になるよう、私たちは協力し、手を組むだけのことです。さぁ、巫山を越えれば、蜀の地。そこまでいけば安全です」 「なぁ、六十を超えた儂が、戦場になど出ていけるだろうかな」 「私が必要なのは、軍略家、そして大将軍としての統率力です」 「ふははは。買い被りではないか。あと、我が息子の行方は分かっているのか」 「聞くところによると…廖将軍の家族たちが動いております」 「そうか…中華も華北は平和となったと聞くが。そのまた辺境では、血に飢えた者たちがわんさかいるのだろうな」  山手の方に、流れ星が落ちた。数刻も川を渡れば朝日が昇る。老将と若者が、誰にも知られることもなく船に揺られ、月の光の照らされる長江を進み逃亡を図った…  時は二六三年、その日は、快晴で天気に恵まれていた。戦乱が続く中華の地とは思えないほど、成都城は長閑である。鳥が羽ばたき、風は無風で静かに漂う。しかし、その静けさは、一人の兵士の急使により手を翻したように変わった。人々はざわめき、狼狽え、嘆き悲しむ声が響き渡る。  成都城では、物々しい雰囲気が漂っており、人は皆、怪訝な顔をし恐れ慄いていた。それは、一つの時代が、その日に全てが終わることを意味するのであった。魏が蜀に攻め入り、要所である剣閣を越えたと急使が告げた。 「諸葛殿の軍勢でも止められなかったか…」  皇帝の側近である宦官、文官が狼狽える。魏の将軍鄧艾が首都である成都に及ぼうとしていた。蜀国は皆動揺し、官中では、文官、武官揃って魏への降伏論が唱えられていた。   重臣である譙周は、皇帝劉禅に降伏するよう勧めるが、皇帝劉禅も押し黙ったままであった。官中側近たちが下を向き何も言えずにいると、門から走るものが宮中へ入ってきた。宝玉が散りばめられた双剣を佩剣し、凛々しく聡明な若者がそこにいた。 「待て! 私の話を聞いてくれ」  その者は、劉禅の子北地王劉諶。皇帝の前に着くなり、拝謁もせずに檄を飛ばした。 「死に際を知らぬ者なんぞに、国家の大事に口出しするとはどういうことか!古来より、敵国に降伏した天子がどこにあったものか!」 と、譙周を罵り、 「皇帝!いや、父上!成都にはなお数万の軍勢があります!姜維将軍始め、我が有力な軍勢もほぼ剣閣に残っておるではないですか。 蜀は、自然の要害にあり、攻めるに難い。 全勢力を決起し内外から攻め立てれば、敵軍など蹴散らしていくことができます」  列席の文官に指を突き付け、続けた。 「腐れ儒者風情が降伏などを唱え、父上の心を乱しますが、考え直してください。今、蜀漢建国という先帝のご遺業を棄てられることはないと存じます。 城を背にして戦い、国家のために死んでこそはじめて先帝に合わす顔ができる。降参する道理がございましょうか」  劉禅の前で跪き、頭を地に打ち付け、懇願した。劉禅は、しばらく黙ったが、ため息を一つ吐き口を開いたが、その答えは、劉諶の意に反するものであった。 「我が国の大臣たちは皆、口を揃え魏に降伏するが良いと申しておる。そなた一人、血気の勇に走り、城内を血の海にする気か。そなたのような青二才に、政が理解できるのかと皆思っておる。今こそ、時代は変わるのじゃ。 お前に天の時がわかるのか?」  と一蹴され、劉諶は配下に官邸から出されてしまった。魏に降伏の書状を送り、戦上にいる将軍へ書簡を送った。数日後、蜀という国が滅びるのだ。  官内にいた張飛の次男張紹は、幼き頃から劉諶を教育し、よく交わった者であったため、心配になり後を追った。  悲しみにくれ、劉諶は自分の邸宅に帰るなり、妻の崔氏に 「崔氏よ、私は先帝の意思を貫こうとしたばかりに父から見放された。死んだ方がまし。 先帝に申し訳ない…」  と呟き、どうしたら良いものか妻に問うた。  崔氏は、 「先帝は、あなたの善行を見ております…。あなたは、よくやった。必ず、天国では、良いお導きがあるはず」  と慰め、短剣を持ち劉諶の目を見て、涙を流しながら心臓を突き斬った。劉諶は、自分の子を帯刀している双剣で斬りつけ、先帝劉備の廟の前で、 「私は降伏などしない。死んで先帝陛下にお目にかかりお詫びする」  と言い、自らの首も掻き斬った。間もなく、張紹は、劉諶の妻、崔氏の亡骸を見て青くなり、事態を理解するには時間が必要であった。周りを見渡し、近くに劉諶の子、劉仁がまだ息をしていることを確認し、配下と共に、自分の邸宅に運んで医者に治療を施すよう言い伝えた。廟に入り、劉諶の遺体を見つけ、張紹は嘆き、首を横に振り、共に追って来た廖化に涙ながら訴えた。 「この者こそ、王にふさわしく、天下の忠臣であった…。我が国の希望の光は、潰えたか」  仙人のような風貌になった、老臣である廖化も、顔をクシャクシャにし慟哭し、遺体をそっと着物で覆った。 「七十を超えた儂は、不幸を背負わせるこんな幾ばくもない皇子に何ができよう…」  劉諶が帯びた剣が急に音をたてて動き、外からの光に宝玉が反射した。二人は、まだ息のある劉仁に、死なせてはならぬと光を感じているのであった。 その数日後、鄧艾将軍たちが成都に入国した。劉禅は降伏し、この日、蜀は滅亡した。蜀の配下たちは、降伏した者は魏国の配下となり、前線で戦っていた将軍たちは敗戦を知り、降伏する者もいれば、討たれたか散り散りとなっていった。劉禅は、成都を追われ、安楽公として官職をもらい、配下と共に洛陽の邸宅に運ばれた。張紹も、劉禅に付き添って洛陽へ向った。  その日は大雨で雷雨であり、劉禅一行は、古柏の林道で休んだ。張紹は、 「劉禅殿をお守りしろ」  と、護衛に申し付けると、劉禅は馬車から降り、大雨に打たれ言った。 「もうよい、張紹。我は、皇帝でもなく、一人の人間である。すべては、終わったのだ… 天命とは、至極非道なものであるが、お主たちと共に蜀で過ごしたこと、忘れないぞ」  張紹は、感涙を流し、張飛譲りの地鳴りのする怒号で泣き崩れた。魏の管理に劉禅が頼み込み、張紹は、蜀の地にすぐ戻れることとなり、途中引き返した。  
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