《第一章 滅び》

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名将張飛の子という名声があるため、張紹の人事は成都城に残り殺されずに魏国の臣下として用いられることになった。しかし、官職は解かれ位も低いものとなったが、張紹の悩みは、そこではない。心配は、匿まっている劉仁であった。傷の回復がなかなか思うように進まず、高熱にうなされ、ほぼ寝たきり状態であった。看病の甲斐もなく、目を覚ますことはない。 「まだ、七つの幼き皇子よ、なぜこのような動乱の中に生命を持ちたもうや…」  張紹は、涙を流し、手を握りながら天を仰いだ。劉仁の手に一瞬力が入り、握り返したようだった。その時、寝台の脇に置いてあった、父劉諶の双剣が倒れた。さやから刀が滑り出て、南を指し、蝋燭の火の光に反射し、宝玉が赤く光りだした。張紹は、目を丸め、これは天神の声であると悟り、この子は生きて大義を果たすと信じた。  数週間の中、魏の動きは緩やかであったが、蜀の魏への上奏、そして、鄧艾と魏で実質権力を担っている司馬昭の一族が成都に君臨することとなった。小さな反抵抗力があったが、姜維一味が、剣閣に立てこもり応戦する構えであるとのことだった。鄧艾は、降伏するものには厚遇し、財産も略奪せず善良に計らい蜀の者には大変気に入られていた。 「鄧艾の野郎め、自分だけよく見せようとしやがって」 魏将鐘会は面白くなかった。姜維は、野心家の鐘会をそそのかし、鄧艾を裏切り者に仕立て、司馬一族に逮捕させた。また、鐘会にクーデターを起こさせ、共に剣閣に立てこもった。魏将胡烈などは、その攻略に戻り、長安より軍を派遣するよう指揮をとった。  その頃、張紹は、官中より南方の異民族対策へと一時配属されることとなった。これは、好機と思い、配下と共に、見つからないよう劉仁を荷車に乗せ、益州南の地、江州へと向かった。  張紹は、江州に駐屯した。そこからはるか南に南蛮の国がある。かつて、諸葛亮孔明が、南蛮王孟獲と何度も戦い属国となった国。現在は、蜀とは、良好な関係であり、国の文化を取り入れ、蜀が介入しながらも独立した政治がなされていた。蜀滅亡の日に、降伏論に反対のものが南蛮に流れたが、それ以前、疫病に苦しむ関羽の子関索がその地に渡ったと、話を聞いたことがある。  張紹は、側近である関興の子関統とともに従軍し、南蛮国を訪れた。張紹は、南蛮王孟獲の子、猛虬王と面会した。張紹は、 「お目通り、ありがたく敗戦の中恥を忍んでまいりました。国敗れ、皇帝は退けられ、敵国にその地は奪われました。自分も、敵国の配下に身を落としましたが、こうして忠義は忘れておりません。皇帝の孫の劉仁殿は、大きく痛手を受けいまだ、目も覚ましません。 保護をお願いいたします」 猛虬は、大柄で力のある武人の身なりをしており、かつての南蛮王を髣髴させる者であった。 「義兄弟張紹よ。かつて、盟を結んだ中、存分に滞在せよ。南蛮には、治療に役に立つ薬や医術がある。皇子の命も救えよう。諸葛果を呼びなされ」 諸葛亮の孫、諸葛質と諸葛果の兄妹は、孟獲と祝融夫妻のもとで生活をしていた。諸葛質はいなかったが、妹の諸葛果は配下に呼ばれてきた。齢一五・六歳ほどの美女で仙女の身なりであった。諸葛孔明の戦術書を読み、あらゆる学問や神道に精通した。そして、成都山中の仙人と交流し、仙術を身につけたとも言われている。 「果です、張紹様お懐かしゅうございます、そちらの童が皇帝の孫殿でありますか? あら、ひどい。私が看ましょう」 諸葛果とその配下たちが部屋へと連れて行った。その頃、関羽の三子関索が老齢ではあるが、元気な顔で出迎えた。 「久しゅうござる、関索殿。病も良くなりましたか?」 「張紹殿、甥、関統。嬉しい限りの再開である。この通り、槍も使えるようになりましたが、何とも年は六〇を超え戦に出ることは前よりは辛いものとなりましたな」 「お互い、年を取りましたな…。蜀漢建国から仕えた、我が父、張飛や兄張苞はもう亡く、同志も多く引退していきました。時代は変わり、我は、国も亡び路頭に迷う老犬であります」 「張紹殿、怪訝な顔をしますな。我々は、兄弟ですぞ。さぁ、今夜は宴じゃ!」  猛虬が、諸葛果が忙しくしているところに声をかけ、宴の時に舞を披露して欲しいことを告げ、劉仁の様態を聞くと、 「宴舞を今夜は披露できませぬ。皇子の傷はかなり悪いわ。こんな傷で、生きているのが不思議なくらい…」 と話し、そそくさと部屋の中に入ってしまった。 「つれないやつだぁ」 「王、今は治療が先決。他の舞女でよろしいかと」  張紹が猛虬へ柔らかく窘めた。  諸葛果というと、劉仁の傷の手当てしか目もくれず、薬草を煮詰めた羊肉の粥を劉仁の口に入れ、天女のように祭壇の前で三日三晩祈り続けた。  その日は、同時に、猛虬と関索は蜀の者と宴をひらき、張紹一団をもてなした。十数年ぶりに張紹は関索と交じり合い、今後の話をしていた。  張紹が、人を探すようにあたりを見回し、 「そういえば、皇帝の弟君、新興王劉恂殿はどちらに?」 「実は、張紹殿たちが来る一月前頃であったか、密書が来て遠方に出かけられたとか…」 「そうですか…皆散り散りになってしまい、辛い気持ちだったかと」 「張紹殿、汝は、今まさに皇子を助け、そして、多く仲間もいるではないか」 下をうつむく張紹に、猛虬も激励をする。 「そうでありましたな…。しかし、先の戦で、兄の子張遵は敗れたのか、消息不明であります。その子、張緯は、まだ八つ。皇子とともに連れてきておりますが」  関索は、兄弟家族を見るよう、張紹の連れている関統とその子を見て、 「我が甥、関統の子関望も十歳。ここにいますので、これから武人として育てあげ、今後の力になりましょうぞ」 「そうですな、我らのできることは、皇子の剣となる者の育成ですな!」  降伏の日から、ほぼ、宴会など催すこともなかった。看病の甲斐もあり、劉仁は、体調も良好となっていき、劉仁一行は、涙を流しながら喜んだ。  南蛮に来て数日後、老将廖化の訃報が届いた。洛陽へ連行される途中に、朽ち果てたと話した。廖化は、長く劉備に仕え数多くの将の副将として仕えてきた重臣。その影の立役者であった彼が、最後に残した言葉を、孫の廖詩が書簡にして持ってきた。書簡には、 「今、国滅亡という事態にあり、蜀の五虎将、及び歴史に名だたる名将の子孫は、この廖化が五つの民に放った。皆、主の来報を待つ」 と、あった。張紹と関索、諸葛果が廖詩に聞くが、その五つの民や具体的なところは教えられていないという。 「侍中郭攸之の末裔、郭蘭が五つの民について知る者であります。現在は、巴氐族の李氏と密接に交流していると聞きますゆえ、その者と連絡を取ってみます。私は、職務がありますゆえ、早々に御免」 廖詩は、その場を後にし旅立った。  
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