3

9/10
95人が本棚に入れています
本棚に追加
/21ページ
 侍従に連れられている騎士の姿を見るなりアーネストはあっと声を上げ、美しい顔に喜色を広げた。  ハインツも、よもやここで会うとは思っていなかった青年を認めるなり驚いた表情を見せたが、すぐに高貴の従兄弟に射るような視線を向けた。アーネストをここに同席させて、何をするつもりだと。  だが相手は従兄弟といえど、神聖ローマ帝国皇帝である。  折目正しく膝を折り、陛下には変わらぬご健勝振りをお喜び申し上げますと型通りの挨拶をする。  堅苦しい挨拶は止めよと、磊落にコンラートは応じた。 「そなたに会ったのはヴァイプリンゲンでの城が最初で最後であったが、余はよく覚えている。叔母君のクニグンデ様が三歳になる息子のそなたを連れて、我ら甥たちを訪問して下さったのだ。叔母君は、壮健で聡明なそなたが大層ご自慢であられた」 「―――」 「我々はそなたを抱いてあやしたものだが、そなたは覚えてはいまいな」 「残念ながら、陛下」 「そなたも知ってのとおり我が母アグネスとそなたの母クニグンデ様は姉妹の関係、それを我らシュタウフェンに加勢せず、ヴェルフェンに付くとはどういう了見だったのか、聞かせてもらおうか」  コンラートの言葉付きは丁寧で穏和だが、そこには生半可な返答は許さない気魄が籠っている。  ハインツも同じく心を刃のように研ぎ澄まし、注意深く答えた。 「母は父のいない私のために、バイエルン公の称号を譲る代わり、私の力になってくれるよう叔父に頼みました――以来叔父一族にはひとかたならず温かい保護を与えられて来ました、それゆえ、従兄弟のスポレート公爵に与するのは、私に取りましては何の不自然さも有さない選択だったのです」 「そなたも、いや、スポレート公ですら判っていたであろう、我らには勝てぬと――それでもそなたは恩義ゆえに、我が身の安全よりも信義を採った。わずか三歳の時からその篤実さの片鱗は滲み出ていたが、今でも変わらぬようだな」 「……お褒めの言葉でありますれば、有難く賜ります」 「褒めたのだ、もちろん」  皇帝はうすく笑うとアーネストに視線を移し、側に来いと手招きした。  何のことか判らない青年は眼差しでハインツに訊ねるも、彼がうなずいたので、仕方なく皇帝の椅子近くに寄る。  突如、コンラートが青年を右腕で捕らえて引き寄せると同時に、腰の短剣の鞘を払った。  次の瞬間には、皇帝に襟と顎を掴まれたアーネストが喉元に刃を突き付けられていた。  ハインツはそれを見るなり顔色を変え、猛然と立ち上がって長剣を抜こうとしたものの、兵士たちに両脇を拘束されてしまった。しかし拘束を振り解こうと抵抗を止めない蒼白の騎士を、皇帝は平然と見やる。  家臣たちですら、陛下は何をなさるのかと、不審を隠さなかった。 「陛下、どういうおつもりです、エルンストをお放し下さい! 私がヴェルフェンに与した罰を下そうと仰有るなら、私自身を処罰なさればよい話ではございませんか!」  従兄弟の非難に、皇帝はもう一度うすく笑った。  その笑みを間近に見て、アーネストは血を凍らせる。  それは先ほどまでの穏当な態度とはまったく違う、本物の帝王の横顔だった。 「この小姓がそんなに大事か、ハインツ」 「申し上げるまでもないことです!」 「そなたは自らの矜持と命を秤に掛け、前者を取った――それではその矜持と、この青年の命とでは、どちらを取るかな」 「何ですって」  整った眉根を寄せ、どんな策略が待ち構えているのかと神経を尖らせるハインツに、皇帝は何でもない風に続けた。 「この者は自分の命を棄てる代わりに、そなたを助けて欲しいと申し出たのだ。その通りにしてやることも当然可能だが、余から別に提案がある」 「提案とは」 「そなたがその信義を枉げ、今後は我がシュタウフェンに従うと誓えば、この青年もそなたも助けよう――しかしあくまでも我を張るなら、そなたは助けようとも、アーネストは余がこの場で斬って捨てる」  声音は冷静だが、コンラートの青色混じりの茶色の瞳は強い眼差しでハインツを見据えた。  両者の睨み合いが、相手を屈服させるかのように動かない。  ハインツが自分の命よりもアーネストを大切にしていることを見抜いていたコンラートが、承諾以外の返答はありえないと確信し、従兄弟をシュタウフェンに屈服させる策としたのだった。  アーネストは刃を当てられながらも、自分のことは気にしないでくれと、騎士に表情で示していた。どこまでも己を捨てる、一途で愛しい青年をしばらく眺めた後、ハインツは口を開いた。 「――ヴェルフェンへの信義を、捨てるつもりはございません」  まさかの返答に、周囲の家臣たちはざわめいた。  二人を見ていて、誰にも断ち切れない強い絆が結ばれているのは一目瞭然だった。  それほどの青年を矜持のために見棄てるという貴族の宣言に、当人二人と皇帝以外は顔を見合わせる。  人々の好奇を跳ね返すような気品ある態度で、ハインツは続けた。 「ただ、私は表舞台から引退いたします……今後どちらの陣営にも属さずに、静観の立場に立とうと思っております。そこに妥協点を見出しては頂けませんでしょうか」  コンラートの聡明な瞳が、言い逃れでも嘘でもないハインツの真情を見極めると、笑いを含む。 「心はヴェルフェンに傾いていようと、何の軍事政治行動も起こさず、領地を治めることのみに専念すると……そういうことだな」 「はい」  ヴェルフェンに味方もせず、シュタウフェンに加勢もしないというハインツの表明は、従兄弟を自分の陣営に取り込みたかったコンラートにしてみれば、完全な満足はしかねるものだった。しかし敵に回せば厄介極まりないこの青年が将来の障壁とならないだけでも、悪い結果とは言えない。  すばやく考えを巡らせる帝の側で、アーネストはただ瞳を一杯に見開いて、騎士を見つめた。  戦争が終わったら、領地に帰ろう。  春が来た時の美しい景色を、見せたい。  そう語った彼。  始めから彼は、そうするつもりだったのだ。  万に一つの望みでも、もし自分たちが助かったら、政治抗争の表舞台から手を引こうと。  その穏やかな隠遁生活の終生の伴侶として、彼は自分を求め、選んでくれていたのだ。  感動に物も言えなかったアーネストは、いきなり身体が自由になったのを感じた。予期していない解放によろめいたものの、すぐに騎士の横に駆け寄る。  コンラートは短剣を納めると右手を上げて兵士に合図し、ハインツも両脇の拘束を解かれた。 「いいだろう、余の意図とはいささか異なるが、そう悪いものでもない……その引退は認めてやろう、ただしラーフェンス伯領の兵士を率いて政治に嘴を差し挟もうとの意志を明確に表せば、その時こそ全シュタウフェンを敵に回すと思え――クニグンデ様には我らも可愛がって頂いたが、いくら叔母君の一人息子であろうと容赦するつもりはない」 「承知しております」  アーネストを護るかのようにその肩を抱き、ハインツは端的に返答を締めくくった。 「スポレート公もこの際特赦する、ヴェルフェンのことは憂わず、領地に戻るが良い」  別れ際の皇帝の言葉に、ハインツはその政策を正確に見抜いたが、返事はしなかった。  もう政治には関わらないと決めたのと、これはヴェルフ自身が自分の力で対処して行くべきことだと考えたからだ。  傍らの青年を促して従兄弟に背を向けたハインツは、二人で陣屋の外に出た。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!