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 1140年11月のドイツ。  バイエルン公ヴェルフェン家の所有するヴァインスベルク城の廊下を、一人の青年が歩いていた。  彼の名はハインツ=フォン=ラーフェンスという。  ラーフェンス伯爵の称号を持つ青年貴族で、城主とは父方の従兄弟に当たる。ドイツ諸侯の中でもとりわけ格が高く、ドイツ王の選定権も有する家柄に属している。  現在のヴェルフェン家当主は、スポレート公ヴェルフ六世。  尊大な性格と政策から倨傲公の異名を取った兄ハインリヒの死後、一族の跡目を継いだ二十五歳の若き当主であった。  ハインツは幼いころから彼と仲が良く、頻繁に互いの城を行き来する間柄で、今回は皇帝家とヴェルフェン家の領地争いに加勢するために滞在していた。  とはいっても、まだ今のところは城内にまで戦乱は及んでおらず、外国の貴族も立ち寄れる程度に落ち着いてはいる。彼ら来訪者の中にはもちろん、戦争の際に軍功を上げて褒章にあずかろうと目論んでいる者も大勢いた。    その中で、イタリアへの旅の途上だというイングランド人の主従がハインツは何となく気になっていた。  ラルフ=オブ=ジャクソンと名乗る壮年の伯爵の側で、いつもうつむいている鳶色の髪の青年のことを、最初は行儀見習いだと思った。  それなりの家柄の子弟が上級貴族に小姓として仕え、行儀作法を習うということは一般に行われている。青年の品のある美貌からしてそうだろうとハインツは推測していた。  しかし実はそうではなく、単に側仕えの人間であることが判ったのは、青年が常に怯えた表情で控えているからだった。あれがもし貴族の子弟であるなら、もっと気位高く傲慢さを漂わせているはずなのだ。    今日もハインツは廊下を歩きながら塔の近くにいる二人に気づき、そして青年の変化に注視した。  あきらかに、唇の端を怪我していた。  昨夜はそんな傷はなかったのに、とハインツは不審に思い、広間での宴会が終わってから彼をさりげなく呼び寄せた。 「どこかで転んだのかな? 唇が切れているようだが、大丈夫かね」  ごく穏やかな声音で発した問いにもかかわらず、青年ははっと身を強張らせた。  何でもありません、おっしゃるとおり転んだだけなのです、と早口で答え、主人が不機嫌そうにこちらを見ている視線を察すると、あわてて去ってしまった。    ハインツは青年の後姿を心重く見送り、眉をひそめた。  あれは転んで切った、というような程度のものではなかった。完全に、誰かに殴打された跡だった。  よく観察すれば青年の動作もどこかぎこちなく、服に隠れた下には沢山の怪我を抱えているらしい。  あのように縮こまり、憐憫さえ誘うような風情の青年にそうそう手を上げる人間がいるとは思えないが、事実は事実。しかも彼の様子では、暴力を振るわれるのは今回が初めてという印象は受けなかった。    もしや、城の召使仲間にいじめられているのか?――いや、小姓たちとて短期滞在と知っている相手には関心すら払うまい。どちらかといえば、得体の知れない主人が原因ではないかと疑った。  あそこまで伯爵の一挙一動を窺っている様子だと、その可能性が一番高いだろう。ハインツはそう見極めを付けると、手当てをするために青年を部屋に呼ぶことにした。  普通なら、他人の主従関係に口を出したりはしない。  身分の低い小姓にわざわざ目を止めることもしない。  だがこうまで気になるのは、青年の様子からして、彼の精神も怪我も限界近くまで来ているのが見て取れたからだった。
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