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3.やばいところ
やばいところに首を突っ込んだことは確かだった。だが、事件を大っぴらにして、警察として捜査をするつもりはなかった。いったいどんな事件なのか、まったく見当がつかなかったからだ。
今のところはっきりしていることは、酔っ払いが路上で襲われ金銭を奪われたということだけで、本間法律事務所に電話をかけてセキグチマコトなる人物の行方を尋ねたこととの因果関係は証明できない。男の警告らしい言葉は聴いたが、それを言ったところで警察は動けない、否、動かない。酔っ払いの戯言だと思われる。僕だって、と和泉も思った。
疑念すら抱きこそすれ、捜査はしない。酔っ払いの、しかも男の戯言なんか聞いていられない。
「なんだか胡散臭い話だな」
ほら、やっぱり。
片山仁志があくび混じりに言った。
朝方になって意識を取り戻した和泉のベッドのそばにあったのは、優しいレディの心配そうな表情ではなく、殺人犯捜査七係の同僚、片山仁志の陰鬱な無表情だった。搬送後、事情聴取に来た所轄の刑事が和泉の顔を知っていたために本部捜査一課に連絡が行き、当直だった片山が嫌々やって来たということは表情で解った。
和泉が目を覚ましたとき、片山は爪楊枝をがしがし噛んでいた。ヘビースモーカーである片山は、禁煙が徹底している病院が大嫌いなのだ。タバコ切れでいらいらしている片山に、和泉は順を追って包み隠さずいきさつを話し、そして返答があれだ。
「僕は彼女に言われたとおり、弁護士に電話で尋ねただけ。ま、セキグチマコトの名前を出したら、思いっきり動揺してたけど」
「でも、今どき、こんなあからさまな暴力で警告してくるなんてな。ヤクザにしたって、そういう時代は、もう九十年代に終わってる」
「きみの言ってることはもっともだけど、事実、僕は襲われてるじゃない?」
「今まで、さんざん女の子を泣かしてきたんだろうが。恨みだってかうさ」
「バカなことを言わないでほしいね。僕は女の子を泣かしたことなんか、ただの一度もないのさ!
片山はそれには答えず、「被害届、出すか」と尋ね、和泉が首を横に振ったのを確認して、そのまま病室を去っていった。
そのあと、若い男の救急医に検査入院を勧められたが、和泉はそれを断固拒否して病院を出た。美人な女性医師さんならともかく、男に身体を診られると思うとゾッとする。
それに、こんなやばい事件に巻き込まれたということは、あの電話の彼女はさらにやばい立ち位置にいるということだ。女の子のピンチに、うかうかとこんなところで寝ているわけにはいかないからね。
和泉はその脚で警視庁庁舎に立ち寄って、自分の警察手帳と拳銃を取ってから、庁舎に置きっぱなしにしていた愛車に乗り込み、新宿の本間法律事務所へと向かった。とりあえずは、この僕に恥をかかせた連中を動かしたと思われる弁護士の面を拝んでおかないと。
本間法律事務所は新宿のど真ん中、一等地にあった。なるほど、一般庶民が入るには物怖じしてしまいそうな高層ビル、その十六階に事務所がある。エレベーターで上がったところに正面玄関の荘厳な門のようなドアがあって、和泉はバッと躊躇わず、それを開けた。
「失礼ですが、お約束は?」
驚いたように、受付の女性が尋ねた。和泉は受付の机の上に肘をついて、
「約束はないよ。ただ、きみとの約束なら、今すぐ取り付けてもいいけどね?」
「あの――」
「でもごめんね、本当は僕だって、今すぐにきみをここから連れ出したい。でもね、僕は今、本間弁護士に会うという大して重要じゃない用を済まさなければならないのさ。その用が終わったら、デートしよう。ということで、本間弁護士はいるかい? きみを待たせるわけにはいかないから、すぐに会いたいんだけど」
「少々待ちください」
顔を近づけた和泉に、あからさまな嫌悪の表情を浮かべて彼女は立ち上がり、奥の部屋のドアを開ける。その一瞬の隙をついて、和泉は彼女の肩を抱き、ニッコリ微笑んで彼女を退かせて入ると、部屋の中の全員が慌てた表情を浮かべた。革張りのソファに大きな事務机。どれも新品のようにぴかぴかだった。やり手の弁護士事務所というより、金持ちの社長室というほうがしっくりきそうだ。
「本間先生は?」
和泉が尋ねると、ソファに身体を沈めていた男が弾かれたように立ち上がった。そのときにじゃらり、とポケットの中で小銭が踊る音がした。そうか、昨日僕に恥をかかせてくれたのはこの男か。能面のような無表情、狐のような鋭い目、剃刀でそり落としたような、ほっそりというかげっそりとした頬。ちょっと暗いがギラギラした瞳。暴力団関係者ではなさそうだが、素人とは思えない。
「あんたは?」と緊張した面持ちで尋ねてきたのは、一番奥のデスクに腰かけていた、初老の男だった。
「あなたが本間先生? 昨日、電話したんだけど」
「電話って、昨日の夜ですか。すぐ来ると言うから待っていたのに、どうして来なかったんです?」
物腰柔らかに言いつつ、本間弁護士が目で、和泉の背後にいる秘書に何か合図を送ったのが解った。彼女は音もなく消えていく。仲間を呼びに行ったか。
「じゃあ、これからは、待つのは女の子だけにするべきだね。僕だって、男が待っているところにすぐに飛んで行きたくなんかないさ。さ、それでも約束どおり来てあげたのだから、はやくセキグチマコトのことを話してくれないかな」
「それよりまず、あなたのお名前をお聞きしてないんですけれど」
「カツラギだよ」
同僚の名前を借りておく。悪いね。まあ、減るもんじゃないし。
「カツラギさんね。あんた、セキグチとはどういう関係なんです?」
「探してるのさ、彼、突然いなくなったから。男を探すなんて、本当はお断りなんだけどね。彼女に頼まれたんじゃ仕方ないでしょ」
「その、彼女って言うのは?」
「それは秘密。人には言えない秘密の依頼、それこそ、ハードボイルド、男のロマンさ」
「あなた、探偵か何かですか」
「さあね」
話しながらも和泉は、能面狐男の動きをしっかりと捉えていた。
右手をポケットの中に突っ込んでガサゴソやっているところを見ると、折りたたみ式のナイフでも持っているか。目が明らかに一般人ではなく、暴力に直結するような雰囲気を醸し出している。片山も言っていたが、暴力主義の時代は九十年代に終わったのだ。昨夜のような、あまりに短絡的な暴力傾向には違和感がある。
「セキグチについては、答えることはできません」
「昨日は話してくれるって言ってたのに?」
「昨日? 何のことかな」
事務所の外で、ばたばたと数人の足音が聞こえた。ヤバイな。
悪態をつく間もなく、若い男たち四人が部屋になだれ込んできた。Tシャツにジーンズ、ベルトにはちゃらちゃら、じゃらじゃらとチェーンがぶら下がっている。身体の線は細く、喧嘩慣れしている感じではなかったが、何せ昨日のことがある。
油断は禁物だ。
本間が「お引取りを」と手を上げて言い、和泉はアメリカ映画の登場人物のように大げさに肩をすくめてきびすを返す。能面狐男がプレッシャーをかけるように和泉の背後に立った。
チャンスだ。
「そうそう。借りたものは、ちゃんと返しておかないとね!」
和泉は振り返りながら、バックブローを放った。能面狐男の顔面に裏拳が命中し、やつは思いっきり吹っ飛んでソファの上に叩きつけられた。突然の出来事に、本間も、若い四人も慌てている。
先制攻撃は最大の防御。和泉はまず、目の前の男の胸倉を掴んで引き倒し、その隣にいた男の腹に蹴りを入れた。
右端の男が繰り出した拳を肩に受け、その痛みに耐えながらそいつの鳩尾に拳を叩き込む。よろめいたその顔面に、さらに追撃のもう一発。
左端にいた男には、背後から襟首を掴まれ引っ張られたが、強引に振り返って、その勢いのまま顎にフックパンチを叩き込み、腕を振り払って蹴り飛ばす。
「この野郎――」能面狐男が、鼻血を滴らせながら立ち上がる。手にはやはり、ナイフを持っている。和泉は慌てて部屋を飛び出し、ドアを閉めて押さえた。中から押し返してくる衝撃があった次の瞬間、ふと玄関口に人影が見えた。
「助けて――」ひざを抱えていた美女が言った。
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