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プロローグ
《警視庁本部より各局。拳銃を所持した若い男が逃走中。対象車両は赤い外国産オープンカー。移動中の各局には緊急配備発令。対象車両については、三鷹にて発砲した後、府中、立川方面に向けて逃走したと思われ――》
「近いわね」と西岡夏帆が言った。
「行くの?」と葛木潤は一応尋ねた。
「俺たちの管轄外だよ。現場の事件は、所轄と機動捜査隊に任せておけば――」
「何言ってるの。そこに事件があって、そしてそこには犯人がいるのよ! あたしの刑事魂が燃えてるわ!」
「――そっか」と葛木は頭を抱えて答え、しかし何を言っても無駄なのは解っていたので、おとなしく助手席のウィンドウを開けてパトライトをルーフに載せる。その途端に夏帆が急ハンドルを切り、葛木は危うく車窓から飛び出しそうになって、ヒヤッとしたのだった。
時刻は午後三時二十分。八王子中央署に捜査資料を届けた帰りだった。
また所轄に出しゃばりやがってと睨まれ、上司からは勝手な行動をするな、と叱責されるだろう。でももう、そろそろさすがに諦めもついてきた。葛木たちが所属する警視庁刑事部捜査一課殺人犯捜査七係は、そうやって独断専行や命令無視など暴走をたびたび指摘、叱責、警告されているのだが、しかし検挙率は警視庁トップ。その七係を仕切るのは係長代理、今ハンドルを握っている西岡夏帆。通称夏帆たん。個性的なメンバーが集う七係にあって、それをまとめる立場でありながら、しかしもっとも個性的な一課唯一の女性警部補だった。
《警視庁本部より各局。先ほどの逃走車両について、警視二○三より対象車両発見の続報。付近警戒中の各移動は直ちに現場へ向かわれたい――》
《至急至急、警視二○三より割り込み! マル対、職質を振りきり現在、南進逃走中! 立体駐車場に進入、府中方面の移動局、応援願います!》
《本部了解。付近の各移動は直ちに現場へ向かえ。なお、マル被は拳銃を所持している模様、対応については受傷事故等に十分注意されたい――》
「本部送電! 警視一〇八、一課、西岡警部補了解! 二分で現場到着するわ!」
夏帆は自ら無線機を持って返答しながら、またハンドルを思いっきり切った。以前は絶叫マシーンなんて乗れなかった葛木だが、今は夏帆のおかげで平気になり、むしろ物足りなささえ感じるようになっていた。
問題の立体駐車場が見える。月極めの三階建て。出入り口の前に、自動車警ら隊のパトカーが止まって封鎖をしていた。
「ご苦労様。ホシは?」夏帆は運転席のウィンドウを開けて尋ねる。若い巡査は緊張した面持ちで、「まだ、中にいると思われます」と答えた。
「OK! じゃあ、あんたたちは出入り口をすべて封鎖して。私たちがこれから中に入るから。応援が着いても、勝手に中に入れないように!」
夏帆は言いたいことだけ言い放って、ヘッドライトをハイビームに切り替えて駐車場に進入した。
「応援が来るのを待ったほうがいいんじゃ――相手は拳銃を持っているんだし」
「そんなのんきなこと言って、逃げられたらどうするの? 大体、応援を待とうって言ってると手遅れになるじゃない、刑事ドラマだと」
「ドラマでしょ。そんなこと――」
「ああっ、もうっ! うだうだ言ってないで、集中しなさい!」
夏帆はスロープを一気に最上階まで上がった。葛木は左脇に吊ったホルスタから支給品のシグP230を取り出し、マガジンを抜いて装弾数を確認する。夏帆はゆっくりとスピードを落とし、そして止まった。前方に一台、不自然な形で停車している赤いアウディのオープンカーがあった。「あれかな」と葛木の問いには答えず、夏帆は運転席から降りる。右腰のホルスタから引き抜いて構えたのは、グロック19。刑事部の正規支給ではないその銃は、夏帆が《形が好みだから》という理由で警備部から借りパクしているものだ。
「そこにいるのは解ってるのよ、出てきなさい!」
葛木も助手席から降りて、そっと夏帆の背後に回る。彼女の視線の先の柱の影に、人影が揺れているのが見えた。
「警察よ! ここは完全に包囲されているわ!」
「いや、そうは思えないね!」と、聡明そうな快活な声が響いてきた。
「警視庁の平均臨場時間、リスポンス・タイムは五分。まだここにいるという同報があってから二分。実際、自ら隊が一台、表にいるだけじゃないかい?」
警察の動きを熟知している。相手はプロか――? しかし、そんなことはお構いなしの夏帆は、にやりと笑って、
「ふうん、でも、その油断がアダとなるのよ。あたしたちを普通のデカだと思わないことね!」
「今日はもう、油断にはこりごりなのさ、夏帆たん!」
夏帆たん? 葛木は眉をしかめる。「はぁっ?」夏帆は怒りを顕わにして眉を吊り上げていた。それにしても、この声って――
「和泉?」と恐る恐る尋ねてみると、
「そうだよ、僕だよ!」
柱の影から、七係の同僚である和泉秀が姿を現した。右手に、葛木と同じシグを構えて。
「和泉、あんた何やってんの。拳銃を持って逃走中にされてるわよ」
夏帆がため息混じりに言うと、和泉はあっさり「そうなのさ」と言ってのけた。
「ごめんね、夏帆たん。今日ばっかりは、きみのそばにいることができないのさ」
口調はいつもの和泉だが、表情も行動も、和泉らしくない。「銃を下ろせよ」葛木が銃を下ろして言うと、和泉はニヤッと笑って、
「そういうわけにはいかないんだ、悪いね、葛木」
「冗談きついぞ。お前、何のためにそんなことを――」
「何のため?」和泉は大げさに肩をすくめる。
「それは僕に向かって愚問だね。いいかい、僕は世界中のあらゆる女性のために生きているんじゃないか。そして今日は、彼女のために銃を抜いたのさ。僕のハートに火をつけた彼女のためにね!」
柱の影から、すらりと背の高い女性が現れる。明るい褐色の髪がくるくるカールしていて、目元のきりっとした美人だった。歳は二十代前半か、ちょっと陰りのある困惑ぎみの表情だった。
「で、どうするつもり?」と夏帆はため息交じりに尋ねる。
「彼女はね、僕のハートに情熱の恋の炎を灯してくれた。だから僕はその炎で、彼女の心を暖めてあげるのさ。冷え切った彼女の心をね!」
アホらし。「それに、拳銃は必要ないだろ?」葛木が尋ねると、和泉はぴゅうっとひとつ口笛を吹いた。
「それが、必要なのさ。ごめんね、葛木」
和泉は本気だ。ヤバイッ――! そう直感したときにはすでに、和泉はトリガーを引き絞っており、銃声とともにはじき出された弾丸は、葛木のジャケットの左胸を撃ち抜いていった。
「葛木っ!」
夏帆が慌てて駆け寄る。何やってるんだ、追って――息苦しくて、言いたい言葉を発せられない。
アウディのエンジン音が響き渡る。きゅるきゅるとタイヤを滑らせてターンし、こっちに向かってくる。夏帆は葛木の身体を引いて、間一髪で脇によけた。俺、情けね――
「葛木、ねえ、葛木っ!」
「だ――大丈夫。防弾チョッキ――」
「今、救急車を呼ぶから!」
「それより、和泉を――」
和泉。いったい何があったんだ?
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