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1.秘密の依頼
人を探してほしい。
昨夜、その頼みを断らなかったのは、電話の向こうの彼女の声が本当に切羽詰っているように聞こえたからと言うわけではなく、和泉秀にとって、女性からの頼みを断るなんて選択肢がありえないからだった。なんだかちょっとヤバイことだとは思いつつも、しかし和泉はためらいなく電話の向こうの女に答えていたのだ。
「誰を探せばいい?」と。
その夜、和泉は珍しく軽く酔っていた。行きつけのバーでウィスキーを飲むときは、たいてい、前夜の別れの傷を癒したいときだった。
《セキグチマコト》と彼女は言った。そして《新宿にある本間法律事務所の、本間弁護士が知ってると思います》とも言った。
「どうして、自分で聞かないんだい?」
《私が聞いて済むのなら、誰かに頼んだりはしません》
そりゃあそうか。
「で、どうして僕に?」
《一度、今いらっしゃるバーでお見かけしたんです。頼りになりそうだったし――ごめんなさい、変なことに巻き込んでしまって》
「そのセキグチマコトと、きみとの関係は?」
《話さなきゃ、いけませんか》
彼女は掠れるような声で言う。怪しい。和泉はしかし、「いいさ」と答えていた。
「美しい女性に、秘密はつきものさ」
《は、はあ――》
「じゃあ、とりあえず、その本間って弁護士のところに行ってみるから。結果を伝えるときに、きみに会えることを楽しみにしているよ」
《明日、またバーに電話します》
会うつもりはないってことか。ますます怪しげな話だ。切れた電話をバーテンに返して、和泉は目の前のウィスキーを煽る。「ねえ」と、和泉はバーテンに声をかけた。
「今日、マスターは?」
最近入ったばかりらしいアルバイトのバーテンは、プロレスラーのような巨体に似合わず、頼りなくあいまいに首を振った。
「出かけていきましたよ。今日は戻らないって」
そうか。彼女はこのバーに来たことがあるようだったし、マスターなら、彼女のことを知っているかと思ったのだけど。どうやら彼女の正体と、どうしてこの僕が選ばれたのかってことは、本人から聞くしかないらしいね。
和泉は時計を見た。午後八時半を回ったところだ。法律事務所はもうとっくに閉まっている時間だろうが、もしかしたらその本間とか言う弁護士先生はまだ事務所にいるかもしれない。電話帳を捲り、バーの電話を借りて、本間弁護士事務所にかけてみた。善は急げ、だ。
《本間法律事務所》と男の声が言った。ツイてる。「本間先生?」和泉が尋ねると、《そうですが、お宅は?》と強張った口調で返ってきた。
「先生は、セキグチマコトがどこにいるかご存知ですか?」
《セキグチ――? いや、知りませんね》
「セキグチマコトという人物は知っていらっしゃる?」
《いや、知らない。ところで、あなた、誰?》
掠れた動揺した声から、焦った悲鳴のような声へ。そうだ、確か本間といえば、何とかという大手企業の顧問弁護士を務めているんじゃなかったっけ。その弁護士がここまで取り乱すとは。
へえ、なんだかおかしなことになってきた。和泉の思考の中で、危険信号が点滅していた。
「知らなければそれでいいんですよ。じゃ、僕はこれで」
やばいところに首を突っ込むのは、酔いが冷めてから。それがいくら女性の頼みでも、いや、女性の頼みだからこそ、ベストなコンディションで臨まないとね。ということで、明日改めて直接尋ねてみようと決めて、電話を切ろうとしたときだった。
《あ、いや》と、本間は慌てたように言った。
《セキグチマコト? 知ってるよ。思い出した。この前、連絡があったよ。近々顔を出すって言ってたけど》
「本当ですか?」嘘だと思ったが、嘘だという確証はない。
《ああ。よかったら、これからその話をしませんか。ウチの事務所で待ってますから》
「じゃあ、伺いますよ」
和泉は電話を切った。行くわけがない。これでノコノコ出て行くのは、ハードボイルド映画の探偵だけ。僕はそんな見え透いた罠になんか嵌らないのさ。脳内の危険警報が響いている中、何にも解らない状態で、これ以上首を突っ込むのはよくない。ましてやちょっと酔っているこの状況で。
和泉はグラスに残っていたウィスキーをのんびり飲み干してから、代金を払ってバーを出た。
珍しく酔っていた。だから、背後から近づいてくる足音にも完全に無警戒だった。
駅までもう少し、というところで、背後から来た足音が急に早くなった。
ああ、ヤバイ。
そう直感した。前方にも、黒服の男が二人。いや、三人か?
ちょっと視界がぼやけている。靄を振り払おうと頭を振ったとたん、背後の足音が止まった。と同時に、わき腹に拳が食い込んできた。息が詰まり、全身に力が入らず、その場に崩れ落ちる。まずい、まずい――そう思っている機から、今度は誰かの革靴に腹を蹴り上げられた。うつむき、咳き込む和泉の背中を、誰かの革靴が踏みつける。
「いいか」ときれいな標準語が言った。
「誰に頼まれたか知らないが、首を突っ込むんじゃない」
そうか。バーから電話をかけたもんだから、表示された電話番号を調べて、すぐに飛んできやがったんだな。公衆電話を使う手間を惜しんだことがアダとなった。――買ったばかりのスーツが台無しじゃないか。
何人かの男たちはためらうことなく和泉のスーツを漁り、札入れを取り上げて夜の闇へと消えていった。そのときに男のポケットからじゃらり、じゃらりと小銭の踊る音が聞こえていたのだけは、記憶に残っていた。
動く気力も沸かず、しばらくの間、そこに倒れこんでいた。遠のいていく意識の中で、誰かの悲鳴が聞こえ、騒ぐ声が聞こえ、それからしばらくして救急車のサイレンを聞きいていた。
あいつら、僕の素性をバーテンに聞くだろうか。あのバーテンもマスターも、和泉が刑事だということを知らない。だから当然、あいつらにも解らない。警察手帳も拳銃も身分証も、携帯電話すら、飲みに行くときは持ち歩かないことにしている。いつ、運命の恋に出会うか解らないからね、そんなときに野暮なものは持っていたくないさ。
一、二、三。救急隊員たちの野太い合図と同時に、身体が浮いた。担架に載せられ、運ばれながら、薄れていく意識の中で和泉は思わず笑った。
あいつらまさか、僕が刑事だなんて考えもしないだろうからね。
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