君に音を

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あの日は確か、ピアノの先生に集中力がないと言われて父親からも怒られて、もうピアノなんかと思った夏の終わり頃の日の次の日だった。 俺の音と悩みを聞いてくれた音楽の先生は、「弾く環境を変えるのもいいかもしれないね」と言って昼休みに音楽室のピアノを使わせてくれている。 その日も、 いつも通り早めにご飯を食ベて音楽室でピアノを弾いていた。 いつもと同様に満足できない音でため息をついたそんな時、突然勢いよく音楽室のドアが開かれた。 驚いて見てみると、そこには女の人が一人立っていた。 リボンの色を見た感じ一学年上の先輩かな、なんて考えていたその時だった。 「ピアノ、すっごい上手!もう一回弾いて!」 キラキラ〜というような効果音が流れるんじゃないかと思うくらい目を輝かせて、目の前の見知らぬ先輩はそう言った。 「え、っと……。どちら様、ですか……? 」 「あっ、突然ごめんね!きれいなピアノが聞こえたからもっと開きたいなって思って!あたしは三倉かんな、二年生!」 「あ、俺は一年の加山慶です……」 「加山くん!さっきの続き聞かせて!」 早く早くと急かすように言う先輩とは反対に、俺はピアノを弾くことをためらってしまった。 この音はとても人に聞かせられるような音じゃない、俺の音はきれいじゃない、そんなことを考えていたらまた音楽室のドアが開けられた。 「あれ、かんなさん?こっちにいたんですね、向こうのぞいたらいなかったから」 「先生!ごめんなさい、ここから聞こえたピアノがすごくきれいだったから!」 「あぁ、彼ね、一年生の慶くん。すごくいいピアノを奏でますよね」 「いえそんなこと……」 俺が言葉を詰まらせていると、先生はそういえばというように手を合わせた。 「慶くん、 かんなさんの歌はもう聞きましたか?」 「かんなさんは歌がとっても上手でね。隣の音楽室でずっと歌ってるんだけど…さっきは何の曲を歌ってたんですか?」 「さっき歌ってたのは、これです!」 そう言って先輩が歌い出したのは合唱の定番と言われるような曲 で、もちろん俺も知っていたしその曲の伴奏を弾いたこともあった。 でも、先輩が歌ったその曲は俺が知っている曲とは全くとっていいほど違うものに聞こえた。 歌いだしの息の吸い方、序盤のテンポの取り方、サビへの入り方、高音の伸び、抑揚のつけ方、そしてなによりも楽しそうな先輩の表情。 何を取るにしてもきれいですごくて、その音は透明で透き通っていた。 でも、表情は楽しそうなのに先輩の目はどこか寂しそうで、音にも寂しさが時々現れ出ていたような気がした。 そんな先輩の歌を聞いて、この人の寂しさは何によるものなのか知りたいと思った。 そして、この人の歌でピアノが弾いてみたいと強く思った。 「あの!俺に、 伴奏、弾かせてもらえたり、しませんか……?」 俺が意を決して言うと、 聞こえてきたのは歌うのを止めた先輩の「えー!」という言葉だった。 「あたし、あのピアノと一緒に歌えるの!?すごい!ホントに!?」 「本当にかんなさんは音楽が好きだねぇ」 音楽室に最初に入ってきた時以上に目をキラキラさせた先輩とニコニコと笑う先生を見て、俺は強張っていた表情が緩んだのを感じた。 そして、イスに座りなおしてピアノに向き合った。 自分から弾かせてほしいと言ったくせに、いざピアノに手をかけてみると不安と緊張で手が震えた。 人前でピアノを弾くことなんてコンクールや発表会などでいくらでもしてきているはずなのに、今が一番緊張しているような気がした。 それでも弾かないわけにはいかない、そう思って俺は前奏を弾きはじめた。 緊張でうまく動かない指を懸命に動かし、ぎこちないながらも何とか前奏を弾き終えた俺は、これから聞こえてくる先輩の音を待った。 しかし、耳に入ってきた音は俺が知らない音だった。 先輩の歌は変わってない、変わっているのは自分が弾いているピアノの音ということに俺はすぐに気がつけなかった。 俺が弾いたその音は今までずっと俺を縛っていた暗くて苦しいものとは正反対で、 明るくて心が軽くなるようなそんな音だった。 久しぶりにピアノが楽しいと感じた瞬間だった。
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