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肌寒いを通り越し、肌痛いくらい極寒の夜。外部ミーティングという名の飲み会を終えた蜆見海吏は寒さに溺れそうになりながら、自転車で帰宅した。
国道から車二台がやっとで通り過ぎる道路を下ってしばらく行くと、洒落た外観の家が続く住宅街がある。その中でも比較的古く小さめの住宅が集う一画に、海吏の家はあった。
六軒がひしめきあう家屋の一番南側、道路に面した家の前で海吏は自転車を停めた。門扉もない、小さな庭には母が育てていた鉢植えがいくつも置いてある。それに触れぬよう、自転車を慎重に玄関に持ち込む。
まだ海吏が子どもの頃は、周りに家もなく広々としていたのに、あれよあれよという間に乱立し、今では息苦しいほどの住宅街になってしまった。自分たちが先住者だというのに、まるでこちらの方がよそ者になった気がする。
すでに電気の消えている家も多いので、なるべく音を立てぬよう鍵を開けた。
「……ただいま」
声をかけても返事はない。当然だ。海吏の両親と妹は、今から九年前、海吏が二十一の時に事故で死んでしまったからだ。
それからこの家でずっとひとりで暮らしている。以前は家族の靴で溢れかえっていた下駄箱は、今では老人の歯のようにスカスカで、黒っぽいスニーカーや革靴がまばらに置かれている。そこから目をそっとそらし、居間へと向かった。
居酒屋を出た時は暑いくらいだったが、自転車で田舎道を走っていると熱も冷め、寒さが骨身にしみた。寒いと寂しさが増す気がするのはなぜだろう。
こんな時、酒でも飲めれば気をまぎらわせられるのだろうが、あいにく海吏は下戸だった。だから買ったばかりの電気ケトルのスイッチをヒーターとほぼ同時にいれて、熱い緑茶を嗜む。
『海吏が社会人になったら、初任給で旅行でも行こうかね』
冗談っぽく笑っていた母の細い瞳を思い出す。その隣で、老眼を気にしながら本を読んでいた父も。妹は、アニメのアイドルグループにハマっていて、友だちの家に鑑賞会だの、誰それ様の誕生日だからと、よく泊まりに行っていたっけ。
暖かいお茶の湯気が目にしみて、涙がにじんだ。
情けないことに、九年経っても心の傷は癒えない。ふとした何気ない瞬間にもこうして痛みを思い出し立ち止まる。この痛みを忘れることはおそらく一生ないだろう。
『そろそろ、おまえも三十だろう? 誰かいい人はいないのか? いないんなら、おれが誰かを世話してやるぞ』
社長の幅木野が、飲み会の席で何度もそう言った。周りの先輩や、奥さんに今の若い人は結婚だけが全てじゃないからと嗜められていた。
だが別に海吏は独身主義者ではない。どちらかというとぼうっと生きているので、出会いを求めることもしていないため、未だに独り身ではあるが、一生結婚しないと息巻いているわけでもないし、家庭に絶望しているわけでもない。
ただ、むなしいのだ。
両親のことを思うと、そのむなしさは増大していく。子どももいて、絵に描いたような幸福な生活を送っていたのに、リストラされたサラリーマンの車にはねられて命を落とした。しかも飲酒運転だ。
誰にも迷惑をかけていないとは言えないが、少なくとも両親も妹も、そんな死に方をしていいひとたちではなかった。
真面目に働き、真面目に生きていても、不意に見知らぬ他人に悪意もなく命を奪われることもある。それがむなしい。
自分が家庭を作って、父さんたちの分まで幸せになるとか、妹のような生意気だけどかわいらしい女の子を育てるとか、そんな気概は海吏にはもてなかった。
ただ生きている。
自分で死ぬことさえできないから、ただ生きている。それだけだ。
電気ケトルが再沸騰する音に我に返った。
随分と考えこんでしまっていた。明日も仕事だから、これ以上の夜更かしは危険だ。
二階の寝室まで行くのが面倒で、家族でくつろいでいた思い出に浸りながら、リビングで毛布をひっかけ目を閉じた。
そのわずか、十分後だった。
アラームにしては激しすぎる轟音と衝撃、そして、目もくらむほどの光の洪水が海吏を包み込んだのは。
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