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【1】
今もそうだ。
その男はいつも、気が付くと店内で本を読んでいる。
私は書店員だ。だから、本来なら客が立ち読みしている姿を見てもいちいち過剰な反応などしない。でも、あいつだけは別。
その男は自動ドアでもない古めかしい観音開きのガラス扉を、誰にも気付かれることなく開けて入って来る。レジに立っている時でさえ、気付かない。いらっしゃいませーと声を掛けた記憶がない。にも関わらず、三日に一度は店内で姿を発見して、驚く。
しかし私が驚くのは、その男が異常に静かな人だからという理由からではない。その男の背後に、ピタリとついて移動する女の幽霊が張り付いているせいだ。髪の長い、綺麗な女だと思う。思うというのは、その男を店内で発見した瞬間から一切そちらを見ないようにしているため、はっきりとは分からないたのだ。
だって、怖いじゃないか。一見普通の男なのに。年齢は二十代から三十代。服装だって特徴的とは言えない。スーツの時もあれば、ジーンズの時だってある。サラリーマンには見えないが、学生にも見えない。そんな、ある意味誰にだって当て嵌まりそうな個性のない見かけの男が、百発百中で女幽霊を連れているのだ。祟られているのか、あるいはあれが守護霊というやつなのか。考えたくもないし、考えるだけどうせ無駄だろう思う。
「これください」
唐突にその男が私の前に立って文庫本をレジに置いた。私は悲鳴を喉で潰して、備え付けの呼び鈴を連打した。
「レジお願いしまーす!」
忙しくなった時に他の従業員を呼び出すアナログなチリンチリンだ。連打だ!連打せよ!十六連射!
私はその男のお腹の辺りに視線を固定させたまま狂ったようにベルを叩いた。他の客がガン見してこようが知ったことではない。やばい!憑りつかれる!
男がレジカウンターに置いた文庫本の上に、白く綺麗な女の手が乗っている。ヤバい!ネイルとかしてなくてもめっちゃ綺麗!私も見習わなきゃ!
「残間さん!」
名を呼ばれて我に返る。慌てて走ってきたのであろう、同僚の女子社員が肩で息をしながら側で私を睨んでいる。それはそうだろう、下手をすると客足が遠のく程の呼び鈴連打をブチかましたのだ。私が客なら、そんな頭のおかしい女店員がいる本屋なんか二度と行かない。
「残間さんやめて、一体どうし」
「すんませんトイレ」
私は最後まで男の顔を見ずにレジを離れ、猛ダッシュでバックヤードに逃げ込んだ。あとの事なんか知るもんか。本当はクビにされたら困るけど、あのお客さんだけは無理だ!無理なもんは無理なんだ!
……とはいえ、ずっと事務所にこもっているわけにはいかない。時間帯当たりの勤務人数が決まった上でシフトが組まれているせいで、フロアの従業員は常に最低限度の一定数なのだ。そこへ来て私が意味不明なトンズラをかましたせいで、今頃店内は大わらわに違いない。
そーっと扉を開けて、バックヤードから店内へ顔を覗かせてみる。
「いない、なと」
私は生まれて初めて競歩を用いてレジに戻った。同僚女子社員の怒り狂った目が私を睨み付けて来る。うへえ、どうやって謝ろうか ―――
「すみません」
声をかけられ、今度は悲鳴を抑えきれなかった。私はビジネス書コーナーの平台に尻もちをつき、声を掛けてきた背後の男を振り返った。
「な……なんなんでしょうか……!」
お客様から受ける問い合わせへの対応としては、「なん」が一個多い。が、死を覚悟したといっても過言ではない私にとってみれば、「なん」の数などなんてことはない。なんだっていいのだ!
男が腰を曲げて私に顔を近づけて来た。その男の背後に、それは立っている。浴衣だろうか。着物だろうか。なんだかよく分からない古ぼけた衣装を着た女が、睨むでも射貫くでもなく、ただ、虫けらを見下すような無感情な目で私を見下していた。その女の幽霊は、やはりとても綺麗な顔立ちをしていた。
驚く程近い距離で、男が口を開いた。
「あんた……僕の後ろを見てるね?」
「なーーーん!」
狐がコーンと鳴くように(鳴かないらしいが)、「なん」に憑りつかれた哀れな少女のように(成人だけど)、私は素っ頓狂な悲鳴を上げて気を失った。
両手で名刺を受け取るや、その男は印刷された私の名前を睨んで口をモゴモゴさせた。よく見る光景だ。だからあれほど、漢字に読み仮名を振って作成してくれとオーナーにお願いしたのに。
「えー」
一か八かという顔で、男は口を開く。「ザンマ、さん」
「はい残間です」
「えー。キョウ?さん。ミヤコさん?」
「ケイです。残間京」
「女優さんか何か?」
「本名っす」
「あー……」
なんの「あー」だよ。
私は丁寧に頭を下げ、
「どうも、すみませんでした」
と詫びた。背中に幽霊をひっ付けているとは言っても男の方は店の常連客なのだ。失礼な態度をとってしまった自覚はあるし、こういう場合、言い訳せずに謝ってしまうのが手っ取り早いと接客業経験者なら分かってもらえることだろう。すると同じく男も頭を下げ、
「いえ、こちらこそ。女性に背後から声を掛けるのはルール違反でしたね」
そんなルールどこで適用されてるんだ? いや、 いいルールだと思うよ、違反さえしなきゃあね!
「いえいえ、私こそ、おっきい声出してすみませんでした。あの、先程の商品は」
「ああ、ちゃんと買いましたよ」
「ありがとうございます。すみません、突然変なことしちゃって」
「生理現象なら仕方ありませんよ……」
「……え、ええ」
私たちの側を、交代要員である『夜からバイトくん』達が通り過ぎていった。気を失っている間に退勤時間になっていたのだ。よし、ソッコー帰っておでん食べながら映画鑑賞だ。今日は絶対ホラーは見ないぞ。何がいいかな。『キャスパー』? いやいや幽霊出て来るがな。あ、『ナイトメアビフォア……』、バッチリお化けムービーやがなー!
「生理現象ならね?」
低く囁いた男の声が、はっきりと私の耳に届いた。顔を上げると、男は私の名刺に目を落としたままだった。
「残間さんはそのー、いわゆる見える人、なんですよね?」
初対面の女子相手にそーゆーこと言うかね。
「いや、あー? なんのことでしょうか?」
「人によっては僕の後ろに二人見えるらしいんです。一人なら心当たりがあるんだけど、二人と言われちゃうとなんだが落ち着かない。残間さんには、何人に見えますか? やっぱり、二人?」
「え、一人ですけど」
「見えてますね」
「卑怯ナリ!」
叫んだ瞬間、その男が笑い声をあげた。目を細くして笑うその笑顔は、意外と素敵だった。だったが、私の腸は今煮えくり返ってぐるんぐるんだぞコノヤロウ! これじゃまるで私がキテレツ大百科の熱狂的なファンみたいじゃないか!ここぞとばかりにコロ助が飛び出て来るそっち系の女みたいじゃないか!
現に側にいた年下のバイト男子が、
「え、今残間さん、ナリって言った?」
と半笑いだ。違う!どっちかって言うと私のナリは武士が怒った時に使う方のナリなんだ!コロ助だって立派な武士だけどな!
「ごめんなさい、確認したかっただけなんです。ところで残間さん、この後少し、時間をくれませんか。初めてお会いしたのにこんな事を言うと警戒されてしまうかもしれないけど、込み入った話がしたくて」
「え」
警戒しかない。
初対面でいきなり二人きり、しかも込み入った話がしたいだとお?トップギアでレッドゾーン突入だ!私を安く見積もったな!私はこの後おでんを貪りながら映画鑑賞を……ッ
「残間さんの後ろにピッタリくっ付いてる奴のことを、詳しく聞かせてもらいたいんです」
「はうあっ!」
私は生まれて初めて、漫画でしか見たことのない驚きの台詞を口に出して言った。
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