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【2】
私が勤務する書店は、店名を「BOOKS アーミテージ」という。
アーミテージとは昔の英語で「隠れ家」という意味らしい。今時珍しい個人店なのだが、土地柄が良いのか、昔馴染みのリピーター客に重宝されてしぶとく生き残っている。店の前が地域住民の生活道路になっていて交通量も多く、何より店の真向かいがお洒落な喫茶店である点も、私としてはイケてるポイントだと思っている。その喫茶店は名前を「リッチモンド」といって、名前だけで言えばうちの書店の方が若干お洒落な気がする。だがリッチモンドには優しい老紳士のマスターがいて、とっても美味しいコーヒーを入れてくれる。うちの書店で本を買ってリッチモンドでマスターのスペシャル(かどうかは知らない)コーヒーを飲みながら読書、なんて最高の流れじゃないか。相乗効果というのだろうか、両者には昔からお互いに対する敬意があるように感じるのだが、リッチモンドには優しい老紳士がいる分、やはり少しだけうちは負けている、と思う。
「いつもありがとう、残間さん」
この声掛け。これが、老紳士の紳士たる由縁なのだよ。
向かいの店に務める者の義務として、一度だけ名を名乗って挨拶を交わしたことがある。その時から来店する度、老紳士は決まって私の名を呼んで礼を述べてくれるのだ。あいにく私は、老紳士の名前を忘れてしまったが。
「なんだ、お二人は知り合いだったんですか?」
老紳士は驚いたように私を見、そして私の目の前に座る男に向かって微笑みかけた。「面白い組み合わせですねぇ」
男は困ったように笑い、「まあ」とだけ答えた。
結局私は男に乞われるまま、職場の真向かいにあるこの喫茶店へと場所を移すことに同意した。ひそひそ話をするにはうってつけだし、何かあればすぐに逃げられる。というか、逃げなくても叫べばいいのだ。110番プリーズ!ヘルプミー、マスター!パードン!?
男はアメリカンを注文し、私は「け、素人が」と思いながらホットミルクを頼んだ。
「それで、話ってなんですか。私の後ろがなんとかかんとか」
「ええ。あなたの後ろにずっと見えているんです」
「だから何がですか?」
「悪霊です」
「はあっ」
驚き過ぎて、思わず両膝でテーブルの裏側を思い切り蹴り上げた。老紳士が置いた水の入ったグラスが一瞬宙に浮いた。何も言い返せない私に、その男は言う。
「僕の知り合いは以前、この世に悪霊なんていないと言っていました。だけど僕はいると思ってるんですよ、悪霊」
「……へえ」
何が怖いって、その男は入店してテーブルに着席してからずっと、一切私の方を見ないのだ。俯いてテーブルの中央辺りを見据えている男が単なる照れ屋じゃないことは、表情を見てすぐに分かった。私だって馬鹿じゃない。羞恥心と、恐怖心の違いくらいは分かる。
「残間さん、でしたね」
「……はあ」
「いくつかおかしな点があるんです」
「なんでしょう」
「僕があなたのお店を訪れる度、残間さんは僕のことを恐々目で追いかけていましたね。それが僕ではなく、僕の背後を見ているんだと気づいてから、失礼ながら、僕もあなたを観察し始めたんです。だけどおかしいのは、あなたは僕の背後に何かが見えているにも関わらず、ご自身のことには気がついていらっしゃらないようご様子だった。僕にはそう見えた。違いますか?」
そう言われても、気が動転して何がなんだか分からない。とりあずここは、頷いておこう。
「やはり。霊感とひと口に言ってもいろいろありますから。他人に憑りついた霊を見ることは出来ても、自分のこととなると全く知覚出来ない、そういう人だっていると思います。以前は僕も、そうだったので。ただ」
「……ただ?」
「こんなことをあまり人前で言いたくはないのですが、僕にも多少の霊感がありましてね。今では、自分の背後にいるものがなんなのか、はっきりと認識出来ています」
「はっきりと?」
「髪の長い女性ではないですか?見た目の特徴は、そうだな。丸顔で、まだ若い」
「……確かに、そうです」
「今も見えている?」
「はい」
「それが、おかしいんですよ」
「あの」
「はい」
「どうしてさっきからテーブルばかり見てるんですか? 目の前に私がいるんだから、ちゃんと顔を見てお話なさってはいかがですか? 失礼じゃないですか」
「そうですね。そう思います。ごめんなさい」
「だから」
「ごめんなさい、だけど無理なんです。顔は上げられません」
「どうしてですか」
「怖すぎるんです」
私は思わず背後を振り返っていた。あまりの恐怖に錯乱状態に陥るかもしれない、そう思った私は自分から恐怖に向かって突っ込んでいきたくなったのだ。昔からそういう奴だった。追い詰められると、自分で自分を更に追い込んでしまうのタイプ。馬鹿だと思う。だけど、そういう人間なんだ、仕方がないじゃないか。
私は何度も自分の背後を確かめ、店内の他の客がじろじろ見て来るのもお構いなしに、
「ほら」
と声を上げた。「どこにも何もいないじゃないですかっ」
「いますよ。今はあなたの右横、少し斜め後ろに」
私は無意識にバタバタと両手で右肩辺りを払う。
「何にもいないしっ、見えないしっ」
「そうでしょうね。僕と同じで怖がりのあなたのことだ。もしずっと見えていたらなら、毎日鏡に映る悪霊の姿に発狂してまっていたことでしょう」
私はカチンと来て男を睨み付ける。
「あなたなんなんですかさっきから!なんのつもりでさっきからそんな出まかせを言うんですか!私になにか恨みでもあるんですか!」
「いえ、そういうわけでは」
他のテーブルから視線が突き刺さって来る。悪霊がどうとか、発狂がどうどか。傍から見れば痴話喧嘩に過ぎないだろうけど、分が悪いのは圧倒的に私の方だ。男はぼそぼそ喋っているだけで、声を荒げているのは私一人だけなんだから。
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