【3】

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「何か問題でも?」  優しく声をかけながら、老紳士のマスターがコーヒーと牛乳を運んで来た。 「だってこの人がさっきから!」  はしたないとは思いつつも私が男を指差しながら訴えると、 「いたずらに女性を怖がらせるのは感心しませんね。理由がなんであれ」  と、意外なことにマスターが私の味方をしてくれた。そら見たことか、と得意気な顔で私が追撃しようと笑みを浮かべた時だった。男が顔を上げて私を見た。いや、私の右斜め後ろを、だ。 「ああああ」  男は深い嘆きのような溜息をつき、また顔を伏せた。唖然とする私の代わりに、マスターが言った。 「そんなに、悪いモノですか?」 「……へぇ?」  私の目が、優しい老紳士の顔に吸い寄せられた。今なんつった、このおじいちゃん。  男はテーブルを見下ろしたまま頷いて答えた。 「最悪です」  おじいちゃんは真顔で唇を結び、何かあるまでは裏で待機しておきます、と早口に言って歩き去った。  ――― おい!何かあったらじゃないよ、今あったじゃん! 戻って来てお願い!  思いはするものの、咄嗟に言葉は出てこない。 「おかしな点があると、僕は言いました」  男は青ざめた顔を伏せたまま言う。私は熱々のホットミルクを引っ掴んでガブリと飲んだ。勢いが良すぎで少々手に掛ったが、熱さなど微塵にも感じなかった。というか、寒い。そして全く味がしない。 「なんて、今、仰いました?」  私が聞き直すと、男は間を置いて、 「僕の声、聞こえてませんか?」  と言った。 「いや、聞こえてますけど。でももう少し大きな声で喋ってもらえません? なんか、他のお客さんかどうか知りませんけど、ちょっと周りの声がうるさくって、あなたの声が聞き取り辛いんです」  やけになって私がそう言うと、また男は間隔を開けてこう答えた。 「……他にお客さんなんかいません」  私は息が止まりそうになって、ゆっくりと後ろを振り返った。 「僕と、残間さんだけです」  ――― いや……いるよ。  他のテーブル席にも何組かの客がいる。皆してじっと私を見てるじゃないか。何を言ってんだ、さっきからこの男は? そいでもってなに人の事をじろじろ見ていやがんだ、こいつらは? 「ずっと変だと思っていました」  男が再びボソボソと話し始める。「僕の背後に何かが見えるとあなたは認めたが、本来僕の背に立つモノは理由もなく現れたりしません。僕の背後に立つモノは、僕の身に危険が迫った時だけ出て来るんです」 「……身の危険? あ、私の?」 「あなたじゃない、僕だ」 「はあ?」 「アーミテージに入る度にあなたは僕の背後にいるモノを見ていた。ということは、僕はアーミテージに入る度に身の危険にさらされていた事になる。それがつまり、残間さんの後ろにいる悪霊だったんだ」  また、男の声が遠のいた。  さっきから何度も、男の声が近づいたり遠のいたりする。  初めは周りの客がうるさいんだと思っていた。だけど、それも変だ。目の前にいる男との会話を邪魔するような音量の声なんて、それだけはた迷惑な営業妨害だ。あの優しいマスターがそんな状況を黙って見過ごすはずはない。それに、私はそんなに大きな声を聞いているわけじゃない。目の前の男の話し口調をボソボソと表現するなら、私が耳元で聞いているのは……。  よせばいいのに、私は男に尋ねていた。 「私のすぐそばでブツブツと喋ってるのは一体なんなんですか」  ああ、またナンナン言ってる。 「男です」 「お……どんな男ですか」 「分かりません。顔がないので」 「え」 「頭部がありません」 「それなのに男だって分かるんですか?」 「先程見てしまいました。ずっと、両手で顔があった辺りを掻きむしるような仕草を繰り返しています」 「い、今も?」 「はい。その手の大きさや胸元、肩幅から察するに、おそらく男性で間違いないかと」 「へー」  私は自分がずっとホットミルクを手に持っていたことに気が付いて、ゆっくりとテーブルに戻した。「私は、どうしたら良いんですか? 私に声を掛けて来たということは、なんとかしてもらえるんでしょうかね?」  自分の目が見開き、恐怖に体が硬直しているのが分かる。ゆっくりと戻した筈が、テーブルに置いたマグカップからまたもや牛乳が跳ねた。まともに動くのは唯一、余計なことしか言わない口だけだ。 「ここは私のおごりでいいですから、た、助けてくださいよ」  男はテーブルを見据えたまま、 「一応」  と言った。「一応は僕もそのつもりがあって残間さんに声をかけたわけなんですが」  そこまで言った男が不意に顔を上げて、私の右斜め後ろ見た。そしてゆっくりと、その視線を私に向かってスライドさせた。私とその男は、この店へ来て初めて真正面から見つめ合った。  男は、こう言った。 「残念だよ」 「……なにが?」 「本当に残念だ。僕にはもう……」 「だからなにが?」 「……さようなら残間京。君はもう助からない」 「どうしてッ!」  私の絶叫にも、男は怯えた様子で首を横に振るだけだった。   ――― 五枚切りの食パンの袋を見たことはある?   いや、そこは別に六枚切りでもいいんだけど、開封した袋を閉じておく変な形のプラスチックが必ずついてるでしょ? あれ名前があるんだよ。バッグ・クロージャーっていうんだって。伊達に書店勤務じゃないっていうか、どうでもいい知識は豊富だったりするんだよね。で、なんで今そんな話をするのかっていうとね。まさに今、私の首をそのバッグ・クロージャーが締め上げているわけ。私の胴体が、パンの袋。巨大なバッグ・クロージャーが私の首をキューっと。  ――― あーあ、なんで最後までこんなバカなことしか考えられないんだろう。  巨大バック・クロージャ―って何?  こんな死に方最悪だ。  顔のない悪霊に首を絞められて殺されるなんて。  今、鼻血が出た。  苦しい。  息が出来ない。吸えない。吐けない。  熱い。  助けて。  助けて、あの、あれ、私、誰と話してたんだっけ?  まだ名前さえ聞いてなかった。  あーあ。  なんなんだよ。  怖いよー……。       助けてよー……。                   嫌だよー。     おかあさーん……。        おか
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