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【4】
子供が生まれた時、僕は自分の人生を取り戻したような気がした。
もちろん、まず一番最初に喜びがあった。次に、僕の子供を産んでくれた妻に対する感謝があった。そしてその時、狂気と苦難の時代を共に駆け抜けた、幾人かの友人たちが泣いて喜んでくれる様を、僕は驚きを持って眺めることとなった。それは意外だったというよりも、正直に言えば、「そんなに?」という驚きの方が強かったのだ。
勝手に恩師だと思っているある人などは、僕からの知らせを受けた瞬間、「久々の吉報だー!」と電話口で叫んだ。そして妻と子が入院している病院の前まで駆けつけると、そのまま酒を飲み始めた。勢いが凄すぎて断るに断れず、僕も一緒なって飲んだ。その人は普段お酒を飲まないからか、すぐに酔っ払い、ぐでんぐでんになりながら震える程に泣いて、喜んでくれた。
僕と妻がまだ同じ大学に通う学生だった頃、大切な人を失った。
その時僕は、あるいは僕たちは、希望に胸を膨らませた数ある未来の選択肢、その多くを同時に失ったのだ。
大学を卒業し、妻と結ばれ、子どもを授かりふと気がつくと、あれから十年の月日が流れていた。
妻が妊娠したと聞いた時、家族が増えることの喜びと責任感が自然と沸き上がってくるのを感じた。仕事は、あまり他人に誇れるような職業ではないかもしれないが、家族三人暮らしていけるだけの見返りは得ていた。さて、これからもっと忙しくなるぞ。今まで以上に、肉体的にも精神的にも気を付けねばならないと、僕にしてはまともで前向きな意識が芽生え始めた事も、明日への活力となっていた。
僕は自分の気持ちをあまり口に出す方ではなかったから、父親となる僕がどのように現実を見ているのか、周囲はいささか不安だったそうだ。申し訳ない話だが、そんな風に思われている事にも気が付かなかったけれど。
だが、無事に子供が生まれた時、僕を心配していた筈の友人たちがこぞって、かえってこっちが心配になるほど多くの涙を流して喜んでくれたのだ。母体の状態が悪かったわけでも、子供に問題が見つかったわけでもない。しかし口々に、良かった、良かったと言って泣いた。
人は悲しいと泣く。だけど、嬉しいともっと泣くんだな。
この時僕は、こう思っていた。また、ここから、僕たちは新たな物語を紡いていけるのだ。新しい喜びと共に、人生を歩んでいけるのだ、他人のために涙を流せる彼らと一緒に ――― 。
救急車の赤色灯が音もなく回転し、僕は野次馬に紛れて現場を離れた。旧知の店に迷惑をかけてしまったことに、やはり申し訳なさを感じていた。
喫茶店『リッチモンド』のマスター、手島さんとは数年前に知り合った。何でも話せる仲とまではさすがに呼べないかもしれないが、普段からとても良くしてもらっている。当初は世話好きのおじいちゃんといった印象だが、噂ではヤクザ稼業に身をやつした過去を持つらしく、当時の人脈が今も健在なのか、僕の知人の中でも随一の顔の広さを誇っている。
「すみません、こんなことになるなんて」
と正直に頭を下げると、手島さんは残間京の遺体を見下ろしながら悲痛に満ちた顔で首を振り、
「殺人事件が起きたわけじゃないんだ。可哀想だが、仕方がないのかもしれないね。これが人生ってものなんだ」
と、達観した理解を示してくれた。110番通報を買って出てくれたのも手島さんであり、他に客が誰もいない店内でのことだからと、僕は無関係という立場を取らせてもらった。手島さんがどこまで事態の深刻さを把握出来ていたのか分からないが、実際僕は残間京に指一本触れていないわけだから、身の潔白を証明するためには警察の任意同行に黙って従えば良かった。そして事情がなんであれ、当然のごとくそうするべきなのだ。
深々と頭を下げて店の裏口から外へ出ると、野次馬の間を泳ぎつつ百メートル程歩いた所で、黒塗りのセダンにもたれ掛っていた男が僕を呼び止めた。髪を綺麗に七三に分け、フレームの細い眼鏡をかけた、スーツ姿の男性である。年の頃は、四十代半ば。
「間に合わなかったな」
男の言葉に僕は立ち止まり、車の助手席のドアに手をかけた。そのまま数秒押し黙り、やがて言う。
「僕が殺したようなものですね」
「おい」
男は咎めるような声を上げた。「そういう言い方はナシだろう」
「だけど」
「遅いか早いかだけの問題だ。あそこまで浸食が深いと、よっぽど運に恵まれてない限り間に合わないさ。お前のせいじゃない」
「だけど、僕が彼女に背後の存在を気付かせなければ、もう少し、時間の猶予はあったのかもしれない」
「そうやって猶予を与えてる間に、あの女に憑りついた霊障は次々に宿主を渡り歩いていく。次の被害者が出る前に、お前が止めたんだ。お前が次の誰かを救ったんだよ。それでいいだろ」
男の口調は少しも優しくないのだが、彼が選んで発する言葉はどれも優しかった。だが、微塵にも嬉しいとは感じなかったし、救われるとも思わなかった。
これで終わったわけではない……僕はそのことを知っているし、この男だってよく分かっている。僕はぐっと奥歯を噛んだ。車の天井に置いた拳を握り締めると、
「叩くなよ」
と男は車の心配をした。
「自分が情けない」
「新開」
「坂東さん。目の前にいる人を救えないのなら、もう僕はこんな仕事をこれ以上続けていかれない!」
「それでいいのか?」
突き放すような言葉ではないはずなのに、僕はすぐには答えられなかった。
「お前がそれでいいなら、好きな生き方を選べよ。だけどな新開。これだけは言っとくぞ。お前の師匠くらいのもんなんだよ。あれだけの呪いをその身に受け続けて、それでも今なお生きていられる人間なんて、あのオッサンくらいのもんなんだ。一度はあの呪いに叩き殺された俺が言うんだ、間違いない。いいか、それでも三神のオッサンはお前を信じてるぞ。お前ならなんとかしてくれるって、だから今も踏ん張ってる」
「……分かりましたよ」
「本当か?」
「ずるいなぁ」
「なんだ?」
「いいえ」
「俺だって信じてんだ。だから新開、情けないなんてもう言うな。次、行くぞ」
「……はい」
僕の名は、新開水留。
職業は、拝み屋だ。もって生まれた霊能力をたよりに、依頼者の吉凶とこれからの進むべき道を占う呪い師である。
残間京を取り殺した悪霊の正体なら、もうとっくに分かっている。だが、正体が分かっていてもどうにもならないモノが、この世には存在するのだ。
そしてもう一つ、分かっていることがある。残間京の死が、僕たちを巻き込む恐るべきこの事象における、第四の悲劇であるということだ。
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