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黒い山
真っ黒い山が大きな生き物のように揺れていた。風と葉擦れの音が相まって、ゴーゴーと唸り声のように聞こえる。左右に広がる枝が私を捕まえようとして伸びてくる手に見えるのは、昔、父に散々脅されたせいだ。
――暗くなったら山に近づいちゃいけない。木々がおまえを捕まえて仲間にしようと待ち構えているんだ。ほら、よく見てみろ。あの木は父さんの友達だった信二の成れの果てだ。幹のところに苦しそうな目と口が見えるだろう?
小学生が夜の山でそんな恐ろしい話を聞かされたら、誰だってトラウマになる。走っていく大志を追いかけながら、湧き上がる恐怖心を抑え込んだ。だって私は母親だから。
何とか山の手前で大志に追いついて、その身体を後ろから抱きしめた。
「大志! 大丈夫だから! おじいちゃんは怒ったんじゃないよ?」
「だって! 大志が悪い子だから」
私の腕の中でもがくように向きを変えて抱きついてきた三歳児は、泣きじゃくりながら自分を『悪い子』だと責めた。いつもそう言われ続けていれば、自分が悪いと思い込むようになってしまう。少し前までの私の姿がそこにあった。
「あのね。おじいちゃんはただ大志が今日ママとどこに行ったのか知りたかっただけなんだよ。声が大きいから怒ってるように聞こえるけど、怒ったんじゃないの」
「本当?」
「本当。おじいちゃんもおばあちゃんも心配してるから、うちに帰ろ?」
トントンとあやすように背中を叩くと、次第に大志の呼吸が落ち着いてきた。
別れた夫は私たちの帰りが自分よりも遅いと「どこに行ってた⁉」と怒鳴る人だった。彼が些細なことで私の人格を否定し執拗に責め立てるから、いつしか大志も父親の顔色を窺ってビクビクする子になっていた。もう大丈夫だよと言われても、身体にしみついた恐怖はなかなか消えない。
泣き疲れてずっしりと重くなった大志を抱き上げ、山に背を向けた。大丈夫。怖いモノは襲ってこない。でも……もしも襲ってきたら、私はこの子を守れるだろうか。
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