中編

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中編

 彼女とは、大学に進学してすぐに通い始めたバイト先のカフェで知り合った。個人の店にしては珍しく、当時からコーヒーのテイクアウトやホットデリの販売をしていて、彼女はいつも会社帰りに立ち寄り、マイタンブラーを差し出して「本日のコーヒー」と「本日のデリボックス」を買って帰った。店内で食事をすることはなかったと思う。部屋でだらだら缶ビールを飲みながら食べるのが好きなのだと後から聞いた。  たれ目がちな優しい顔立ちなのに、いでたちはキャリアウーマン風で、店から出て行く彼女の足元、上品な膝丈スカートのスリットから覗いたベージュのストッキングの脚を見た時、どきっとした。なんて綺麗な脚なんだろう。多分、それが最初だ。  接客以外の言葉を交わしたことはなかった。常連なのに、彼女が親しく話をするのは店長に対してだけだった。店長に気があるのかな、奥さんがいるのに。もやもやとそんなふうに考えていたある日、バイト上がりに店舗建物の脇に停めておいた自転車を引き出そうとしていると、カツカツと小気味いいヒールの音が近付いてきた。  大型車両は侵入禁止の線路沿いの細い路地を彼女が歩いて来る。自転車のチェーンロックをはずす途中だった彼は、そのまま暗がりに蹲って彼女の姿を見つめた。今日は朝から気温が上がらず寒い一日になるという予報通りで、その寒さのためか彼女も長い黒のブーツを履いていた。スカートとブーツの間の脚は光沢と透け感のある黒いストッキングに包まれていて、街灯の灯りで後姿の膝裏のくぼみに影ができていた。そのくぼみに引き込まれそうになって、彼は一瞬考えた。本当に一瞬。  やがて買い物を済ませた彼女がタンブラーを手に引き返して来る。そのタイミングで、彼は思い切りがちゃがちゃと自転車を揺らした。その音に驚いて彼女が目を向けて来る。 「……どうしたの?」  おそるおそる近寄って来て声をかけてくれる。 「あ、すみません」  申し訳なさそうな表情を顔に張り付けて振り返ると、黒いストッキングに包まれた彼女の膝小僧がちょうど目に飛び込んできた。小さくて丸くて、撫でればつるつるしていそうな。 「どうしたの?」  再度問われて、彼ははっとして立ち上がる。困ったふうに頭を掻いてみせる。 「パンクしちゃったみたいで」  彼女はタンブラーを持っていないほうの手で頬に流れる髪を耳に引っ掛けながら彼の自転車のタイヤを覗き見た。 「パンク?」  それから眉を顰めて彼の顔を見た。通り沿いの街灯の灯りはここまでは十分に届かない。そう思って平気な顔で彼は彼女を見返した。困った表情を顔に張り付けたまま。 「……こんな時間じゃ、自転車屋さん閉まってるかな」  数秒見つめ合った後、彼女は顔を上げてつぶやいた。 「はい。多分」  彼もそれに合わせて立ち上がる。 「どうしよう、バスもないし。歩きじゃ家まで一時間以上かかる」 「うち来る? すぐそこ。寒いし、とりあえず」  とりあえず。その便利な言葉を使ったとき、彼女のくちびるの端が上がった気がした。心臓を跳ね上げながら彼は努力して普通の表情で頷いた。  彼女の住処は路地を少し奥に入った場所にある一棟で四室のしゃれたつくりのアパートだった。彼女の雰囲気に合っている。二階の部屋に案内され、小さなリビングに通された。テレビの前のテーブルにカフェで買ったボックスを置き、通路脇の小さな冷蔵庫から彼女は缶ビールを取り出した。 「飲む?」 「いえ、ハタチ前なので」 「そ」  彼女は眉を上げ、プルトップを開けてビールをぐびぐび飲んだ。結果的には、この後すぐ舌を合わせるキスをしたから、彼はビールの苦みを味わうことになった。あまりに早く望みがかなってしまい、それだけで頭がくらくらした。 「だって、カワイイ顔して私を見るんだもの」  そりゃあ食べたくなっちゃうでしょ。ベッドの中で彼女は笑った。  キスが上手くて積極的に導いてくれる年上のお姉さん。童貞だった彼はイチコロだった。その夜から学校とバイト以外の時間のほとんどを彼女の部屋で過ごすようになった。  実家から大学に通っていた彼には、親元を離れのびのびと下宿生活をしている学友たちを羨む気持ちがあったのだが、それが一気に彼女との半同棲にまでステップアップしたのだ。しかも彼女は年上の社会人。その優越感たるや半端なかった。  某住宅メーカーの専属インテリアコーディネーターの仕事をしているという彼女は、仕事と買い物以外ではあまり外出したがらなかった。仕事以外で人に会うのが嫌、と引き籠りみたいなことを言った。 「愛想笑いは仕事だけで充分」 「うちの店長にはにこにこしてるじゃない」 「だって、顧客だもん。あの店の内装考えたの私だから」  ふてくされ気味に彼が訴えると、彼女は口を尖らせて反論した。引っ張り上げたこたつ布団に顎をのせて、すっぴんのカワイイ顔で。彼と一緒に部屋で過ごしている時の彼女はとても無防備で気を許されていることを感じた。  テレビを見たり雑誌を眺めたりネット配信の映画を観たり、昼寝をしたり。当然セックスもしたが、その頻度が毎晩というわけでもなくなると、彼はふと、自分がいてもいなくても同じなのではないかという、むしろ男を相手に女子が感じるかのような疑問を抱くようになった。 「俺、いない方がいい?」 「なんで? いてもいいよ」  きょとんと眼を丸くして答えてから、彼女はその目を細めて彼を見つめた。 「じゅっこも年上のオバさんに飽きたなら、もう来なくていいけど」  飽きないし。オバさんじゃないし。腕を回して抱きしめると彼女の体は小さくて柔らかくて、犬猫のように部屋に置いてもらっている身分のくせに、俺が守ってあげるんだ、みたいなことを彼は考えた。
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