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エピローグ
「あー、今日も一日が終わっていく」
少年は小さく、自分に聞こえるだけの声で言った。独り言である。少年はそして、大きくため息を吐いた。
少年が、ハジメが居るのは橋の上だった。運河を囲むように作った公園、ハジメはそこの手すりにもたれ掛かってため息をついていたのだ。平日の夕暮れ、公園は結構な人が歩いている。暮れ行く一日の残り時間を思い思いに使っている。
ハジメも学校の帰りで、家までの途中でここに寄ったのだ。
いつかと同じだということはハジメは良く分かっていない。
「ああ、今日もありふれた一日で、そして終わっていくんだな。なるほどなぁ」
ハジメは沈み行く夕日を眺めていた。赤い夕日はビルの向こうに沈んでいく。街を茜色に照らしながらゆっくりと沈んでいた。
「もう高3かぁ」
ハジメはつい先日高校3年生に進級したばかりだった。今は4月の頭。ようやく暖かさが本格的になってきた頃合いだった。とうとう高校生活も最後の年だった。子供時代がもうすぐ終わる。ハジメは進学することにした。志望校は東京の大学だ。別に有名でもないがそこそこ勉強する必要のある大学である。今やもうハジメは毎日勉強漬けだった。家に帰ってからも少し勉強をしようと思っている。
「仕方ないよなぁ。受験生だもんなぁ。ああ、くそったれだなぁ」
ハジメはこの進路について大いに悩んだ。一度、進学せずに就職しようかと思ったこともあった。ハジメの通う高校はギリギリだが進学校だ。なので、教師に話したら何事かと大騒ぎになった。まぁ、親に話したら「へぇー。頑張んなさい」で済まされてしまいハジメの方が唖然としたのだが。
しかし、悩みに悩んだ末にハジメは進学することにした。結局、学校の定めた、社会の定めたレールの上に乗っかることにしたのである。志望学部も工学系だが別に専門的なものではない。いわゆる、とりあえず進学みたいな感じである。将来のことを考えてとか、大義はいくらでもあるがハジメ個人としてはこれといった目標があるわけでは無かった。大きな夢があるわけでもなかった。別に学者になりたいとかいうわけでもなかった。だが、強いて言えばエンジニア系に進みたいなという方向性はあった。それがあるだけましなのかもしれないがそれだけだ。普通の受験生だった。ハジメは悩んだ末に普通の道を選んだ。
きっとこれから普通の大学生になって、普通の会社に就職して、普通の人生を送るのだろうとハジメは思った。
だが、今のハジメは少なくとも前よりそれに抵抗は無くなっていた。
「はぁ、だる....」
以前よりも価値観が変わったということもあった。
だが、今感じているのは普通の道だと思って選んだ道が案外普通じゃなかったということだった。なので、もう普通がどうとか気にしているどころでないのが今なのである。
大学受験があり得ないほどだるいのである。明らかに今までの人生の中で最高クラスにだるかったのである。ハジメは受験勉強を始めるに当たり、その全体像を把握するに当たり「え? みんなこんなだるいことやってんの? マジで?」と思ったものである。ハジメの普通といえばなんとなくこなせてなんとなく終わっていくもの、だった。だが、これは明らかにそれではなかった。とにかく大変だった。毎日毎日勉強して、それでも最後の成功は約束されていないと来ている。正気か? と思うハジメだった。精神を病む人間が居るというのもうなずける話だ。日本はどうなってんだと思うハジメでもあった。
ひょっとして、社会に出たらさらにこんなことを感じるのかもしれないともハジメは思った。
ひょっとして、今まで自分が認識していた普通とか退屈とかいうものは子供の特権だったのだろうかともハジメは思った。
そんなことを思う度に思い出すことがあるのだった。
「あれからもう10ヶ月か」
ハジメが巻き込まれた『ディアン・ケヒトの魔導書』に関わる騒動、いわゆる『魔導書事件』から早10ヶ月だった。
事件からひと月はその話題で持ちきりだったのだ。ネットに上がった怪物たちの動画が世界中を駆け巡り、ビル街に屹立する鋼の怪獣の画像が毎日SNSで流れていた。ハジメは事件の当事者として大いに取材された。始めこそノリノリだったハジメだが一週間でうんざりしてしまい非常に大変な思いをしたのだ。自宅にも実家にも取材陣から一般人からこぞって押し寄せてきたのだ。有名人って大変だなと思ったハジメである。『ディアン・ケヒトの魔導書』が納められている歳星館にも取材陣が押し寄せた。ツカサはそれにうんざりしてその後ひと月完全に引き込もってしまった。
そして、逮捕された当の残罵だったが2週間で脱獄してしまった。どこぞの仲間が手引きしたらしい。今や残罵は再び野に放たれている。しかし、そこは超対も恐ろしいというか悲しいというか、そもそも脱獄されることを前提にして残罵のありとあらゆる術式に対抗策を打ったらしい。
超対の今の設備では残罵を完全に封印するのは不可能であろうと組織内で把握していたそうである。その見解は秘匿されるべきもののはずだったが明るみになってしまい、散々超対は叩かれていた。だが、今となってはハジメもそんな超対に同情する。確かにあの狂った魔術師を完全に御することは並大抵のことではないだろうと。残罵は常識のことごとくから外に出ている。対抗するには残罵並みの天才が必要で、そしてその人間が作った設備が無くてはならないだろう。
ともかく、超対の術式の解析のおかげで脱獄前まで持っていた残罵の術式は99.9999%を封殺出来るらしくやつが完全に新しい術式を開発するまでは動けないだろうということだった。いつまで保つのかは分からないが。
そして、ひと月が過ぎた頃には事後処理が大体済み、取材の数も減り、ニュースも落ち着き始めた。
そして、ふた月が過ぎたころにはほとんど騒ぎは終息し、新たなニュースが世の中を騒がせていた。
そして、今や崩壊した駅前もほとんど形を取り戻していた。
だが、結局この10ヶ月ニュースやネットでカナタの姿を見ることは無かった。カナタは完全に逃げおおせたらしい。どんな手を使ったのかハジメには皆目分からない。まさしく魔法めいていた。
もう事件は終わった。あの普通じゃない日々はもう随分昔のように感じられた。だが、それでもはっきりと覚えていた。あの歳星館での毎日を、残罵との戦いを、カナタのことを。ハジメの日常を変えた日々を。
あれから、カナタは帰ってこなかった。今でもハジメはたびたび歳星館を訪れている。だが、カナタは一度も歳星館に来なかった。ツカサに連絡すら無いらしかった。「なんて薄情なやつだ、連絡くらい入れろ」と思うハジメだった。ツカサによれば、事件の事後処理に関してカナタの関わりはちらほらとあるらしく完全にとんずらしたわけではないらしいのだが。
とにもかくにも、ハジメはこの10ヶ月ずっとカナタを待っていたのだった。
「あー、暇だ。なんか面白いこと無いかな」
ハジメは呟く。普通に生きることを自分で選んだハジメだったが、暇なときは暇だと言うのだ。最近、勉強ばかりでこれといったことが無い。受験生なんてそんなものなのかもしれないが暇なものは暇であった。
「帰るか」
しかし、ここに来たところで何かが起きるわけでは無かった。高校生になってからもう何回ここに来たか分からないが何か起きたのはあの事件の時だけである。そして、あの事件のようなことはもうごめんなハジメなのだ。なので、それ以外の丁度良い刺激を求めていたわけだが、ただカップルの笑顔を見て憂鬱になっただけだった。ハジメは家路に付くことにした。自転車置き場に向かって歩き出す。
日はもう随分暮れた。人口200万の大都市、明比が夜に向かっていく。
と、その時だった。
「ちょっとそこのお兄さん浮かない顔ですね」
ハジメを呼び止める声があった。
振り替えればそこに居たのは少女だった。年はハジメと同じくらい、紙は茶色でボブカット、目は黒で眼鏡をかけ、赤いカーディガンを羽織っていた。そして胸が大きいのをハジメは見逃さなかった。
少女はにっこり笑っていた。完全な営業スマイル。少女は椅子に掛け、前にはレースのかかった台が置かれていた。そこに水晶玉だの、なにかの書物だの薬瓶だのが置かれていた。占い師らしかった。
ハジメはそれを見るとにやりと笑って少女の前に立った。
「いくらですか?」
「こちらの通り一回3000円ですよ」
「高いなぁ。高校生には払えないな。もっと安くならないの。ああ、タロット占いなら1000円にまけてくれるんじゃないか」
「いいえ、あれは初回料金ですから。2回目のあなたは通常通り1500円いただきます」
「うげぇ、高いなぁ。なんとかならないのか」
「残念だけど、今回はどんだけ値切っても安くしないから」
「マジか」
そう言ってハジメは笑った。そうすると少女も笑ったのだった。
「久々だなぁ。なにしてたんだよカナタ」
そう言うと少女は、カナタは忌々しそうに表情を歪めた。
「外国に行ってたのよ。日本に居たら四六時中誰かが追い回してくるんだもの。まぁ、外国でも同じだったんだけど。だから、こうやって見た目変えてんのよね」
「へぇ、変装か。魔術か」
「染めて、カラコン入れてるだけよ。これだけで案外誰も気づかないもんなのよね」
「へぇ、まぁ確かに印象は違うよな」
ハジメはカナタの姿をまじまじと見て言った。台にはいつかと同じに『魔女カナタの絶対当たる占いの店』と垂れ幕が下がっていた。カナタの口調も10ヶ月前と同じ。違うのは姿だけでハジメは懐かしくなった。
「いや、待ってたぞ。ちゃんとツカサさんのとこには顔出したのか」
「ええ、そもそも魔導書売るのにここに来たんだから。まぁ、驚いてたわね。『やっぱり帰ってきましたか』とか訳の分かんないこと言ってたけど。帰ってくるって言ってたんだから当たり前でしょうが」
そう良いながらカナタは若干顔を赤くしていた。ハジメもそれに気づいたがなんでかは良く分かっていない。ハジメも当然カナタは帰ってくるものだと思っていたのだから。
「駅前ももうほぼ元通りだ。お前が散々ぶっ壊した形跡も跡形も無い」
「それよ! 行政の連中、わけの分かんない難癖付けて私から大金掠め取ってったのよ! あの魔導書売ってなかったら今ごろ借金地獄よ。ふざけんじゃないわよ!」
ツカサから聞いたところによると明比市はあの破壊は必要以上だったとしたらしい。魔術師の戦闘に関する法令を適用しても全額負担は適当ではなく、カナタに工事費用の1割の負担を要求したのだそうだ。とりあえずカナタは払ったので魔導書で手に入れた金の大半を失ったわけである。
「裁判よ裁判! あのお金は取り戻すわ!」
カナタは激昂していた。法律の詳しいところはハジメにも良く分からないがやらなければやられていたのは事実だ。理不尽であるとは思うところだった。実際、そういった実態が表に出て、世論でもカナタ指示の声が大きくこれからどうなるかは分からないところだった。当のカナタが今まで行方を眩ませていたので話も進まなかったのである。いよいよ戻ってきたカナタは今度は行政と戦うはめになっているらしい。
まぁ、とにかくそういうわけでカナタはほとんど骨折り損になったわけである。なのでまた金を稼ごうとせっせと魔導書を集めているらしかった。
「さすがの意思だな」
「なによそれ」
「で、魔導書は売れたのか」
「カテゴリー2だからそんなに大した額でも無いけどね。まぁ、生活の足しにはなるわよ」
「ふーん。また前みたいに魔導書探しにそこら中飛び回ってんのか」
「そういうこと、で、あんたはどうなのよ。その後なんかあったの?」
「これといって。取材が地獄みたいにだるかっただけであとは別になにも無かったな。進学するから受験勉強してるぐらいだ」
「あんた大学に行くの!?」
「ああ、色々考えたんだけど、進学しようと思ってな」
「なんてこと。大学に行くやつなんて正気じゃないわよ」
「どんな偏見だそれは! 全国の大学生に謝れ!」
「謝らないわよ。大学とか受験勉強とか狂ってんのよ」
「めちゃくちゃだお前は!」
叫びながらカナタなら言うであろうことをずばりカナタが言ったので内心苦笑するハジメだった。カナタも変わっていない。相変わらずぶっ飛んだ感性をしている。全然ハジメの常識に当てはまっていない。
しかし、そんなカナタはハジメを見て眉をひそめる。
「あんた、なんか雰囲気変わった?」
「そうか? 自分だと良く分からんけど」
「なんか、迷いが無くなったっていうか、落ち着いたっていうか。大学なんて行こうとしてんのに」
「大学は別に狂人養成施設じゃない。落ち着いたってのはそうだな。お前のおかげだろう。あの事件を乗り越えてひとつ大人になったってことだ」
「な、なによいきなり。恥ずかしいこと言うのも相変わらずね」
カナタに落ち着いたと言われるのはなんとなく嬉しいハジメだった。もう、普通でも嫌でないし、どうにかなたいともあまり思わないハジメだった。ハジメは自分の人生を受け入れて、それはカナタのおかげでもあった。
カナタは顔を赤くしていた。
「お前、この後は予定あんのか」
「別に無いけど。なによ」
「おいおいカナタさん。もう忘れちまったのか。あの時ビルの屋上でこの街を案内するって約束しただろうが」
「あ、あんたまだそのこと覚えてたの」
カナタは言い淀んだ。カナタには意外な言葉だったからだ。
カナタがここに来たのは何よりその約束を守るためだったのだから。
あんな別れ方をして、怒って約束も忘れて、自分のことも忘れているかもしれないハジメに勇気を出して話しかけたのも約束を守るためなのだから。
もう、来るまいと思いながらなんとなくハジメに会いたくなって来てしまったカナタだった。
10ヶ月前となんにも変わらずにハジメが寄ってきたのが嬉しかったカナタだった。それを隠しながら会話して、今の言葉を待っていたカナタだった。
「バカにしちゃいけねぇよ。俺があんな別れ方されてどんだけ寂しかったか分かってもらいたいね。こちとらお前が帰ってくるのを見越して日々それなりにやんわり準備してたのだからな」
「それなりにやんわりってあんた」
「まぁ、そういうわけだから付き合ってもらうぜぇ。もはや気が向かないとか言っても無駄だかんな」
ハジメはニタニタ笑っていた。
「仕方ないわね分かったわよ。行けば良いんでしょ行けば」
「そういうわけだね。なら、とっとと店じまいしてくれよ」
「今からもう行くっての?」
「当然だぜ。こっちは10ヶ月待ってたんだからな」
「はいはい、分かったわよ」
そういう訳で『魔女カナタの絶対当たる占いの店』はこれで今日は店じまいだった。ハジメも片付けを手伝う。良く分からない物品をキャリーケースに詰め込んでいった。
「まずはどこに行くの」
「美味しいレストランだ」
「気が利くわね。丁度そういうのを食べたい気分だったのよ」
「ダチョウ肉のステーキが有名なとこだぞ」
「やっぱり大学行こうとするやつはネジ飛んでるわね」
「だから偏見だって言ってんだろ! 全国の受験生に謝れ!」
二人はぎゃあぎゃあと騒いだ。
日は沈み、茜色も薄れ、街は夜になっていった。
今日も昨日と同じように一日が終わっていく。明日も今日と同じように一日が終わるのだろう。そんな風な変化の無い毎日で、そんな風な平和な毎日だった。
それは多分まばゆことだった。
そんな風に二人は、いろんな人々は生きていくらしかった。
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