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楽師と花屋と郵便屋
一面藍色の空の東の端に薄紫色の雲が滲むように浮かんで、やがてほんのりとしたピンク色がゆっくりと空を染めていきます。
薄い雲の隙間から広がる暖かい光は、灰色のベールに覆われた街の教会の屋根を滑り降り、煉瓦造りの家々の間から石畳の路地を駆け抜け、広場の噴水に溶け合わさって七色の結晶に変わります。
郵便配達人のピートは、小高い丘の上に建つアパートの窓から見える、朝の街の景色が好きでした。
「それじゃ、行ってくるよ。リリー」
ピートは窓辺に置いてあるスパティフィラムの花に出かけの挨拶をすると、よく使い込まれた革製の郵便鞄を肩に掛け、静かに玄関の扉を開きます。
短い廊下を突きあたりまで進んで、ちょっとのことでギシギシと不機嫌な声を上げる古い階段を、塗料の剥げた手すりに手を滑らせながら、音をたてないように慎重に下りていきます。
小窓のある踊場を回ると、階下に見える真鍮の取っ手の付いた木製の扉の奥から、強烈ないびきが聞こえます。階下の住人はまだ夢の世界を旅行しているようです。
「ここに住んで随分経つけど、一度も顔を見たことがないな」
ピートは寝ぼすけの住人の顔を勝手に想像しながら、忍び足で扉の前を通り過ぎます。地鳴りのように大きな低い音は、ピートの背中をアパートの玄関まで追いかけてきます。
玄関の扉のノブに手をかけると、色ガラスの窓に染められた朝日がピートの顔に当たります。
「さあ、新しい一日の始まりだ。今日もきっと忙しくなるぞ」
ピートは朝日を浴びた体に冷たい空気を大きく吸い込むと、よく整備されている自転車に跨り、アパートの前の長い坂道を駆け下りていきます。
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