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TIERRA DE NADIE/第一幕・第一章00
白に緋が広がる。大理石の淡い白を粘性のある流動の緋が侵蝕してゆく。
高い天井。ゆらめく橙の灯火。白で埋め尽くされた謁見の間の最奥。数段床から高いところにある、紅の革が張られた玉座に腰かけていた、しなやかな肢体に漆黒を纏う女が立ち上がる。
長い睫毛に縁取られたつくりの甘い蒼の目には愉しんでいるような色。紅の刷かれた小振りな唇はゆるい笑みのかたち。
女が歩を踏み出すごとに、軽やかな靴音が響いていく。女が到達した床には、玉座に背を向けて立つひとりの近衛兵。近衛兵が手にしている剣は血に濡れていて、その足許には血塗れの人間が仰向けに転がっている。
それは、髭も髪も真っ白な、小太りで小柄な老人。右肩から左の脇腹にかけて走っている老人の傷は、近衛兵が与えたもの。
近衛兵の傍らを通り過ぎ、老人の傍らに落ちていた短剣を拾い上げ、女は床の血溜まりに片膝をついた。
ばらばらと音がする。大きな水のしずくが、空の高いところから地上へと降り注ぐ。間断なく響く、無数の雨粒の音。
女が片膝を血塗れの老人の腹に置く。呻き声と、出血を続けている傷口。女は、老人が隠し持っていて目的を果たすことができなかった、先ほど拾った短剣を逆手に持ち、切っ先を老人の仰け反っている喉に置く。そして、身を屈め、その耳もとで囁いた。
「聞こえているかしら、キャンティロン卿」
薄く開かれた老人の目は焦点が合っていない。痙攣が始まりかけている老人の肉体を、女は自重をかけることで押さえつける。
あたたかでやわらかな蝋燭の炎に艶めく女の唇が、吐息とともに言葉を紡ぎ出す。その声はとても透明でとても小さく、耳もとで囁かれている事切れかけた老人にすら聞こえていなかったかもしれない。
「焦ることなどなかったのに。おそらく、いずれ私は貴方が望んだとおりに命を落とすことになる。でも、それは今じゃない。貴方はただ時を待っているだけでよかった。忠臣と誉れ高い貴方をこの手で殺めなければならないなんて、残念だわ」
女の朱唇が、ゆるく、弧を描く。
奇妙な圧迫感を伴って、ゆるやかに包囲網を完成させるがごとく、耳障りな雨音が響き渡った。
老人の目から意志の光が消える。老人のものであったはずの短剣が、老人の喉を横薙ぎにしてそのすぐ傍の床に転がる。
ゆっくりと、女は返り血に濡れた上体を起こした。立ち上がって老人を見下すその蒼の目には、酷薄なまでの怜悧さと灼きつくほどの冷ややかさが同居している。
女帝ラヴェンナ。
ラヴェンナ・ヴィットーリオ・エマヌエーレ。
血塗られた女帝と呼ばれ、後に賢帝にして愚帝という奇妙な評価を獲得することになる今しがた命を狙われたばかりの紅の玉座の主は、微笑みとも嘲りともつかない薄い哂いを浮かべながら、叩きのめすように降り注ぐ雨の音を聴いていた。
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