TIERRA DE NADIE/第一幕・序章

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TIERRA DE NADIE/第一幕・序章

 蒼の薄闇という夜の名残が世界を満たす夜明け前の数刻。肌が裂けるのではないかというほどに張り詰めた、吐息すら凍る、底冷えのする喉にざらつく大気。 「かつて、我々は誓った」  そこに響くのは、玻璃の大気を震わせる、低く落ち着いた壮年の男の声。 「我々は帝国のためにこの身を捧げることを誓った。帝国を護ることを誓った。陛下をお護りすることとはすなわちこの帝国を護ることであるということを、帝国を護るということは陛下の臣民を庇護することであるということを、我々は知っている」  城塞を挟むように南北に聳え立つは峻厳たる岩山。雪を冠したそれらは淡い蒼を放ち、夜明け間近の空と同化する。 「我々は帝国のためにこの身を捧げることを誓った。では、今はいかなる時か。陛下の坐すこの帝都が叛徒に囲まれ、陥落の淵にある今とは、いかなる時か」  吹き抜けるのは薄氷のごとき鋭さの冷ややかな風。はためき翻るは銀糸の煌く紅の旗。その銀糸が描くのは、天秤と剣とが交錯する、ヴァルーナ神教の標章にして帝国紋章。 「我々は帝国に相対するすべてのものに対峙する。陛下に相対するものすべてに対峙する。我々は陛下の近衛。最も陛下の近くに控え、盾となるべき者」  峻厳たる山と山の間に佇む、七層から成る城塞都市――帝都ティエル。それは、帝国国教ヴァルーナ神教ファウストゥス派における最高位の聖人――聖パトリック生誕の地という伝承に彩られた、白亜の都。  帝都を囲む城壁の外、東の城門の前。都市の内と外とを区別する城門の鉄扉は固く閉じられている。城門を背にして整然と並ぶのは、鎧に身を固めた近衛兵。彼らの騎乗する馬の吐く白い息が、夜明け前の冷ややかな大気に融ける。 「我々は誓う。この帝都を護り切るということを。我々は我々の責を果たすということを。我々は我々の誓いを守り切るということを」 城門の上で翻るのは、銀糸と紅の近衛軍旗。天を目指す陽の光が滲みかけている、夜の余韻の残る空を背にして風にはためく旗の下、整然と並び控える近衛兵の前、青毛の馬に騎乗し声を響かせている壮年の男こそ、近衛軍帝都駐留部隊隊長エセルバート・ガートナー。  朝靄に霞む遠くの稜線はどことなく透きとおっていて、夜明けの太陽がその後ろにたゆたう。薄れゆく宵闇と、あたたかなゆるやかさを取り戻しゆく静けさに沈む大気。  鋭さと穏やかさとが同居している泰然とした蒼の目で麾下の兵を見渡しながら、ガートナーは腰に佩いた鞘からゆっくりと剣を引き抜いた。 「そして私は誓おう。我々はこの戦いにおける勝利への端緒を、この戦いの終結への端緒を、切り拓くということを!」  晴れ渡った蒼穹はどこまでも高く、ガートナーが高く掲げた幅広の剣に、城門の上ではためく紅の軍旗の紋章を象る銀糸に、夜明けの陽光がきらびやかに反射する。    その場所からは帝都の東に広がる平地がよく見渡せた。遠くに横たわる稜線と、その手前に布陣された叛徒たる諸侯の連合軍。  反逆の矛先を向けられているはずの本人は、紅を刷いた唇にゆるい弧を描かせる。  帝都第七層――帝都で最も高いところに位置し、かつ、総てを見渡せる、精緻な装飾が施された白亜の城の桟敷。そこに置かれた長椅子に、硬質な短い緑髪を吹き抜ける風に遊ばせながら、漆黒の衣を纏った小柄な女が腰掛けていた。その背後に控えるのはふたりの男。真っ白な短髪と真っ白な長い眉毛の、穏やかな面持ちの初老の男――帝国宰相メルキオルレ・マデルノ。白いものが混ざり始めた髪をゆるくひとつに束ねている、黒衣に身を包んだ壮年の痩せた男――帝国国教会枢機卿長アルノー・アルマリック。  つくりの甘さを裏切って酷薄なまでの鋭さを感じさせる女の蒼の目が、帝都の東から西に転じられる。脚を組んで優雅に長椅子に座る女の肩には、一羽の白い鳩が留まっていた。 「夜が明けるわ」  響いたのは、まろやかで透明な、あたたかでも冷ややかでもない、耳にした者にはどことなく近寄りがたさを覚えさせるような澄んだ声音。  帝都の東、夜明けの鮮烈な陽光の下。帝都を囲む諸侯連合軍の陣形が、乱れた。 「流石はウォルセヌス・アクィレイア」  女の唇から感嘆の吐息が零れ落ちる。  稜線の彼方より現れた一軍が諸侯連合軍の後背を叩く。それに呼応するように帝都側から近衛軍が――高地から低地へと――一点に集中して正面から連合軍にぶつかり、その勢いのまま連合軍を分断、連合軍の背を叩いた一軍と合流。連合軍と接している兵は白兵戦を、接していない兵は左右に展開。ガートナーの指揮により近衛軍の一隊が動き出すと、城門が開き、彼らの開いた血路に城壁の内側にて城門前に待機していた部隊が雪崩れこむ。同じく城門内に待機していた市民軍が城壁に沿うように広がった。 「そして、オルトヴィーン・ヴァースナー」  立ち上がった女は桟敷の縁に歩み寄り、その指先に鳩を留まらせたまま、眼下にて繰り広げられる光景を見つめる。  シュタウフェン帝国第五三代皇帝ラヴェンナ。黒以外の色彩をその身に纏うことが珍しいことに由来する異名は漆黒の女帝。  女帝の腕が持ち上げられ、その繊手に留まっていた鳩がその場で数回羽ばたく。指先から飛び立ち、蒼穹に吸いこまれていく鳩の白を、女帝は目で追った。 「確かに事態は動き出したわ。だけど、膠着状態に一石を投じて動きを生じさせたからといって、必ずしも事態が解決するとは限らない」  肩越しに振り返り、女帝はからかうように声音を紡ぐ。 「マデルノ卿。貴方、思いあたることはない?」    南北を峻厳たる岩山に挟まれ、東西に広大な平地が広がる、シュタウフェン帝国の帝都ティエル。皇帝の居城が置かれている帝都が反皇帝を掲げる諸侯連合軍――自らの正統性を主張するためか、彼らは自らを帝国初代皇帝の名を冠しアウグスト同盟と名づけた――に包囲されたのは、ファウストゥス暦四二二年初秋のこと。その約半年後にあたるフェブルアリウスの月の第十五日、約半年に亘る籠城の末、陥落間近と目されていたこの都市は、周辺諸国の予想を裏切って息を吹き返す。
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