やわらかな時間が、どうしても欲しくて。

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やわらかな時間が、どうしても欲しくて。

まるで自分が世界の中心にでもなったような気分だった。 私は広々とした原っぱの真ん中に立っていた。どうしてか、そこにいた。 何も思い出せない。ただ、あの空の色は懐かしいような気がした。 影を落とす雲は私を取り巻くかのように円を描き、 私のすぐ真上にはぽっかりと穴が開いたかのように空がはっきり見えた。 視線を下に落とせば、日暮れのように暗い。 私を取り囲む雲は優しい夕暮れの色で、 茜色に黄金色、薄い紫に橙。泣きたくなるくらいに綺麗で、 もっと上に目を向ければ、 天空に突き抜けるように空いた真円は、清冽な青だった。 まるで自分が世界の中心にでもなったような気分だった。 真上の真円に手を伸ばせば、ふと涙がこぼれて、 今ならなんだってできそうな気がした。     ユアンはひやりとした塔の螺旋状に続く階段を一歩ずつ上っていた。コツ、コツ、という硬い自分の足音が響く。永遠に続くかのように闇に沈む階段を、ユアンはカンテラひとつ持たず器用に上がっていった。 階段は突然終わる。狭い踊り場のようなところに出て、今しがた上がってきた後方以外はすべて壁に遮られている。正面の壁にだけ梯子。ユアンは梯子に足を掛け、慎重に上った。 鉄でできた梯子は短く、すぐに上階へ着く。その先に少し続く細く曲がりくねった廊下を歩くと、突然目の前に鉄格子が現れる。ユアンはコツリと足音を響かせ、その前に立った。 中でうずくまっていた少女が顔をあげた。その瞳にユアンが映ると、少女はかすかに瞳を揺らした。 「・・・あなたの、新しい世話役のユアンです。よろしく」 これが彼女――クレアとの最初の出会いだった。     クレアは数十年間も干戈を交えてきた敵国の捕虜だった。と言っても、今は休戦協定を結んで久しい。ユアンやその世代の若者は、クレアが捕虜としてこの国に捕らえられる以前の戦を知らない。――そのくらい長く、クレアはこの国に繋がれている。   ユアンが通う芸術学院でも、多少の歴史は教養として教えられる。それによれば、もともとこの大陸は、古サーシャ王国が全域を支配し栄えていた。しかし数千年前に沸騰水の気泡が如く勃発した数々の内戦により数十の国に分かれることになる。 それから何百年をかけて各国が侵略戦争をけしかけあい、最後に残った二国が何十年にも渡る最後の戦争を続けていた。が、唐突に一方の国――クレアがいた国――が休戦を持ち掛け、もう一方も同意。それから何十年と続いている平和の中に、ユアンは生まれ育ったのだった。   その唐突な休戦のすべての理由たる少女――クレアを、ユアンは見つめた。 この国に囚われたのはもう何十年も前のことなのに、ずっと変わらぬ少女の姿をしているという。 ユアンは鉄格子の鍵をあけ、内側に踏み入った。世話役というのは、ただの話し相手だ。 クレアは生きながら死んででもいるように、何も食べず水も飲まない。 ユアンに任された仕事は、ただクレアの話し相手となって毎日生きていることを確かめるだけ。   ユアンが中に入ってくるのをクレアは深い藍色の瞳でじっと見守っていた。艶めいた漆黒の髪は流れた歳月を象徴するかのように長く彼女の足元に流れているが、監房の小さな窓から差し込む光でなおいっそう深い色合いをみせるそれは、いかにも不可思議なクレアの存在を誇張しているようだった。 彼女は備え付けられたベッドのそばに座り込んでいて、その膝にひどく古びた赤茶色の手帳かなにかをのせていた。ユアンが中に入ってくると、それごと抱きしめるように膝を抱え、静かにユアンを見上げた。 「・・・初めまして、クレア。ユアンといいます。どうぞよろしく」 曲りなりにも自分の国が捕虜として捕らえている相手によろしくと言うのは何かおかしかったが、その時のユアンにはそれしか言葉が思いつかなかった。 クレアは神妙な顔でその挨拶を聞いていた。自分の声の残響が消え入りそうになったとき、初めてクレアはその唇を開いた。 「ユアンは絵を描くの?・・・絵具の匂いがする」 それがユアンが聞いたクレアの第一声だった。     ユアンは毎日螺旋状の階段を上っていって、決められた時間をクレアと過ごした。 クレア赤茶色の手帳――彼女は日記として使っていた――を胸に抱きながらまどろみの中を生きているようで、初日の交差した視線が幻だったと錯覚するほどユアンの存在に気付かないようだった。いや、本当に幻だったのかもしれない。遠くを見るような目で日記をめくりながら、時々窓を見上げて瞬きをし、またある時はユアンが解さない異国語の歌を口ずさんだ。ユアンは別に頓着せず、クレアの行動を見守るのに飽きると持参した本を読んだり学院の課題に取りかかったりした。小さな窓と鉄格子、冷たい壁に囲まれた監房に絵具の匂いが充満しても、クレアは日記を抱いて夢をさまようようにまどろむだけだった。   ある日、ユアンは講師から出された風景画の課題を片づけていた。成績は周囲と比べ落ちこぼれと判を押されるユアンであったが、風景画の腕だけは別で、講師も首を傾げつつ才を認めていた。外は嵐が近づいているようで、冷たい風が塔の中にも吹き込んでいた。ユアンは立ち上がり、鉄格子のはまった窓の上部についている留め具を外し、落し戸を下した。 そしてもとの場所に戻ろうと振り返り、――咄嗟に固まった。 クレアがユアンの絵を覗き込んでいた。片手を体の前について支え、もう片方の手は変わらず赤茶色の日記を大事そうに抱えている。 「・・・クレア?」 試しに呼んでみた。クレアは振り返った。その視線とユアンの視線が交わった。 「ユアン、上手なのね」 何度も――風景画に関しては――言われてきた言葉だったが、クレアの湖面のように静謐な声で言われるとなんとなくむずがゆいような気がした。 ぼそりと礼を言ってまた筆を動かしはじめると、クレアは黙ってそばに座った。時たまちらりと横を見ると、飽きもせず熱心に絵を見ていて、こちらが気恥ずかしくなるほどだった。 その日の帰り、クレアは顔を上げてユアンを見送った。外は大荒れだったが、ユアンは自分でも笑ってしまうほど上機嫌だった。     その日からクレアは目を覚ましたようなはっきりした眼差しでユアンを見るようになった。 ユアンが絵を描く周りをクレアがうろうろし、時折座り込んで絵をじっと見つめる。その一切の挙動にユアンが頓着しないと、クレアはますます大胆になって勝手にユアンの筆をいじりだすこともあった。 そういう日々が過ぎていき、また次の嵐が近づいてきた日、クレアはユアン、と呟いた。 「・・・ユアンは外を自由に歩けるのでしょう」 苦手な人物画の課題と格闘していたユアンは顔を上げ、クレアを見た。 漆黒の髪に包まれた顔はカンテラの光に照らされても白かった。 「ええ、まあ」 我ながらひどく愚直な返答だった。クレアはユアンから視線を外してベッドにもたれかかり、上にのせた日記ごと膝を抱えた。初日と同じように。 それから、彫像のように動かなくなった。続きを待ってじっとクレアを見つめていたが、カンテラの灯が来たときよりだいぶ暗くなり、ゆらりと揺れて帰りを急かし始めるころ、諦めて課題をまとめ始めた。ユアンが立ち上がっても、クレアは微動だにしなかった。 「・・・帰りますね」 ユアンが鉄格子の向こうに出て鍵をかけ、鉄格子に背を向けたとき、夢を見ているような声でクレアが囁いた。 「どうしても行きたい場所があるの――」 ユアンは足を止めた。振り返ったが、クレアはこちらを見ていなかった。まるでそのかぼそい声を自分が出したことにも気づいていないように、暗闇に沈んでいた。 ユアンは階段を下りていった。     次の日はひどい嵐で、クレアは落し戸をしているだろうかとユアンが考えながら授業を受けていたころ、学院に今日は仕事をしなくていい、というユアン宛の通達が届いた。 ユアンはその薄っぺらい紙を黙って丸め、手の上で弄んだあと、鞄に放り込んだ。 そして普段通りにカンテラを下げ、土砂降りの中を歩いて塔に向かった。 全身海につかったような有様で、水を吸った分だけ服が重かった。ユアンは顔をぬぐって黙々と階段を上り、鉄格子の前に立った。カンテラの灯は消えてしまっていたので少し手間取ったが、鍵をあけて中に入る。 「・・・ユアン?」 存外すぐ近くで不安げな声は響き、ユアンは驚いた。しかし声は出さず、勝手に予備用に持ち込んで監房の隅に置いておいたマッチを取りに行き、カンテラの灯をつける。 クレアがユアンの顔を見て、ほっとしたように息をついた。 「今日は、来ないのかと」 「・・・一度、家に帰ったので」 クレアが首を傾げる。 「本も、画材も、課題も全部置いてきました。今日は、僕はなにもしません」 ユアンは怪訝そうなクレアに目をやった。変わらず胸に抱きかかえる日記を。 「だから――」 クレアの藍色の瞳を見つめる。少しためらった。 「―――行きたいところって、どこですか」 単にクレアのことが知りたかっただけなのかもしれない。どうせここから出られないのだから、聞いても仕方ないのに。クレアはしばらく黙っていた。何を考えているのか分からない目で、ひたとユアンを見つめてきた。ユアンも目をそらさなかった。 雷の音を4回数えて、ユアンがそろそろ気まずくなってきたとき、クレアが日記を抱く手に力がこもった。何かを引き寄せるようにきゅっと抱きしめ、身も縮こまらせる。 そうして、嵐の前に簡単に吹き飛んでしまいそうなかぼそい声で、ぽつりと、ため息と一緒に呟いた。 「――覚えてない」       クレアは、永い時を生きる間に、段々と記憶が欠けているようだった。ずっと抱いている赤茶色の日記は、幼い頃から書きつけているという、クレアのたった一つの持ち物だった。 「この――」 クレアは日記のある一ページを開いてユアンに見せた。 「この日の日記を読むと、胸が痛くなるの。どこかに帰りたいような・・・行かなきゃいけない場所があるような、そんな気がして。――ここに行けば、分かるのかも」 ユアンは日記に目を落とした。黄ばんだページに綴られたそれを、ユアンは読むことができなかった。少なくとも、ユアンの国の言葉ではなかった。首を振ると、クレアは自分の日記を声に出して読んだ。まるで何かの詩のような日記だった。      まるで自分が世界の中心にでもなったような気分だった。  私は広々とした原っぱの真ん中に立っていた。どうしてか、そこにいた。  何も思い出せない。ただ、あの空の色は懐かしいような気がした。  影を落とす雲は私を取り巻くかのように円を描き、  私のすぐ真上にはぽっかりと穴が開いたかのように空がはっきり見えた。  視線を下に落とせば、日暮れのように暗い。  私を取り囲む雲は優しい夕暮れの色で、  茜色に黄金色、薄い紫に橙。泣きたくなるくらいに綺麗で、  もっと上に目を向ければ、  天空に突き抜けるように空いた真円は、清冽な青だった。  まるで自分が世界の中心にでもなったような気分だった。  真上の真円に手を伸ばせば、ふと涙がこぼれて、  今ならなんだってできそうな気がした。          今日は、いつもより遠いところまで歩いてきた。     「どこですか、ここ」 「・・・覚えてない」 クレアは泣きそうな顔で首を振った。初めて会ったときの表情に乏しかったクレアからは、想像のつかないことだった。 ―――クレアは、夢から覚めようとしている。 そう重々しく告げた声が耳元によみがえった。 ユアンは手帳の黄ばんだページを眺めた。 夢から覚めたあとは、揺るぎもしない現実。     クレアの日記に記されている場所は、思わぬところで特定された。 学院で暇になったとき、手すさびに日記の記述を頼りに風景画を描いていたら、驚いたような声が降ってきた。 「ユアン、あんたに古代史の知識があるとは知らなかったよ」 声の主は、「必要最低限知る必要のある」歴史を教える教授ネロ。 「これ・・・、どこか知ってるんですか」 ユアンは驚きを隠せずに尋ねた。クレアの思い出せないほど昔のこと。 「あんたの絵を見る限り、それは古サーシャ王国の神殿の跡地のように見えるけどね」 「古サーシャ王国・・・」 数千年前に滅びた大国。 ユアンは自分の絵を見下ろした。 「その跡地っていうのは、どこにあるんですか」 「この国の東端にある。はたから見れば丘の上のただの原っぱだが・・・」 ネロがとん、とユアンの絵の真ん中に指をのせた。 「たまに、こういう現象が起こる。雲が、丘を一周取り囲むんだ。雲の外からは、丘は全く見えなくなる。古い伝承に、神殿で祭祀を執り行う際、そういう日を選んだという記述があることから、古サーシャ王国神殿の跡地とされている・・・ところで」 ネロが不思議そうに言った。 「知らなかったのなら、なぜ描けるんだ?」 ユアンは笑って誤魔化した。   ユアンに気付かなかった頃と比べれば、クレアは本当に夢から覚めたようだった。 落し戸を下すことやカンテラに灯をともすことを覚え、ユアンが来ると嬉しそうにし、何十年も過ごしたであろうその監房を――おそらくは初めて――退屈だとこぼした。 ユアンはネロから聞いた話を告げるか迷っていた。毎日確実に何かが変わり始めていて、今のクレアは手段が分かればすぐさま鉄格子をすり抜けて出て行ってしまうような気がした。 それが気に入らなかったのだろうか。時折無性に苛々して、鉄格子を見る前に引き返すこともあった。そんな日は家に帰って、絵を描いた。クレアの日記の、古サーシャ王国の神殿跡地を、もっと丹念に何度も描きなおした。特に意味もなく。 またある時は、何度も見たクレアの日記を思い浮かべながら文を写した。勿論自分の癖字で書き直そうが読めないことには変わりなかった。そんなどうしようもないことにも一々苛々して、紙をくしゃくしゃに丸めて放り投げたのが、幸か不幸か回廊を歩いていたネロに命中した。ネロは無言で紙を拾い、勝手に開いて中を見た。そして奇妙なものを見たかのようにユアンをじろりと見た。 「ユアン、古語が書けるのか?」 「・・・・・は?」 「これ、古サーシャ王国で使われていた書き言葉だ。あんた、古サーシャ王国がよほど好きと見えるな」 「・・・・・・・・」 ユアンは紙をネロの手から抜き取って、自分の鞄に押し込んだ。 「古サーシャには数千年も生きる不老不死の輩もいたんですか」 「不可思議な伝承が多いからな。いてもおかしくはない」 ネロは面白そうに答えた。ユアンの悩みを見透かしたような目をしていた。 古サーシャ王国。数千年前に滅びた大国。 日記に書きつけていた出来事さえ記憶から抜け落ちるほど、長い歳月――。 ユアンは考えるのをやめ、ネロからふいと顔をそらしてその場をあとにした。   鉄格子の内側では、クレアがユアンの絵を眺めていた。最初の絵はクレアにあげていた。 クレアは遊びをひとつしか知らない子供のように、飽きもせずずっとそれを眺めていた。 一度、とても月が明るくカンテラを持たずに塔に来たことがあった。 ユアンは暗がりでも支障なく階段を上がれるので、特に何も思わずに鉄格子まで行き、クレアに声をかけようとした。そして、ぎょっとした。 小さな窓から差し込む月明かりで、クレアの白い頬に浮かぶ涙の痕がはっきり見えた。クレアはユアンがあげた絵を見つめながら、静かに泣いていたのだった。 その日から、ユアンは立ち止まって考えるようになった。螺旋状の階段を上る時、曲がりくねった廊下を歩く時、鉄格子の鍵を開けようとする時。クレアの出自の謎や、自分なりに出した結論、クレアが本当に望んでいること。 夢から覚めたら、現実しか待っていないということ。   ユアンはここ数週間で増えに増えた資料を整理していた。適当に選り分け、積んでいく。 ふと、大量の紙の間に挟まっている、質感の違う小さな紙切れに気が付いた。 ユアンが集めていた古びて黄ばんだ資料とは全く違う、手触りのいい高級な――クレアの世話役を任された時の辞令だった。 (そうか、今日は任じられてから半年が経つ日か・・・) ユアンはしばらくそれを見つめていた。素っ気なく記された自分の名前。 それから静かに紙を置いて、カンテラを取り出て行った。 空をふと見上げれば、薄暗い雲と共に嵐が近づいていた。 歩きながら考えた。初めは人形のようだったクレア。ユアンという存在に気づきもしなかった頃。上手なのねと呟いた声。・・・クレアの世界に、ユアンが入ったこと。 誰かの世界に自分が存在することを、ここまで強烈に意識したのは初めてだったかもしれない。例え彼女にとってしばらくすれば抜け落ちていくような刹那の時であっても、確かにその世界に入れたこと。・・・自分でも呆れるくらい嬉しかったから。 今夜、僕は君に自由をあげよう。     11月1日  クレアント・サーシャ脱獄、逃亡。  脱獄させたとみられるユアン・アーレンは逃亡。  軍はユアン・アーレンが逃亡の少し前接触していたネロ・レイヴンを拘束。   ネロは鼻の先を掻いた。 「そんなこと聞かれても・・・行き先なんざ知らないな」 「では、これはどうだ。お前は古語を解するそうだが、読めるか」 ネロの正面に座り質問を繰り返していた男がずい、とネロの前に何かを差し出した。 赤茶色のひどく古びた手帳だった。 ネロは興味を惹かれてそれを受け取り、ぱらぱらとめくった。 ある一ページで指が止まる。 彼の教え子が下手くそな字で書き写していた詩のような日記のような文。 ネロは最後のページまで繰った。 「・・・・・ふぅん」 楽しそうににやりと笑う。 「青春だな」 ネロはまた鼻の頭を掻くと、突っかかってきた尋問官に字が汚くて読めないだとか適当な答えを返してあしらった。 「しつこいね・・・一つだけ教えてやろう」 ネロは上機嫌そうに言った。 「あの二人は雲の中に行ったんだよ」
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