海の神

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海の神

イヒカは照りつける太陽に手をかざした。 すでに数隻の丸木舟が沖合に出ていた。皆、海面近くを旋回する鳥の群を目指して進んでいる。 その下には大きな魚に追い回された小魚の塊がいるのだ。鳥たちはそれを狙っている。そして人間たちが狙うのは、小魚を襲う大物の魚だ。 イヒカの胸がはやる。 イヒカは森での狩りも好きだが、海での狩りは別格だった。 イヒカの乗った船が他の船たちと合流すると、イヒカは待ちきれずに釣り竿を手に取った。 弾力のある竹に麻の糸、その先には鹿の角を削って作られた釣り針が付いている。返しのついたそれに、イヒカは餌であるイナダの切り身をつけると、小魚の群れ目がけて投げ込んだ。 イヒカは丸木舟の先端に立った。 「イヒカ、危ない」 男たちの釣り竿の準備を手伝っていたタケリが顔をあげた。 「大丈夫」 すでに周りの船は、魚を釣り上げている。マダイの赤い鱗が光りながら宙を舞う。 しばらくして、イヒカの体が大きく竿に引っ張られる。 「かかったーーー!」 イヒカは叫んだ。タケリが駆け寄って来てイヒカの体を支える。 「すごいおっきい!」 「イヒカ、代わる?」 タケリが尋ねる。 「大丈夫」 イヒカは気丈に唇を食いしばった。 水面に黒い大きな影が見えた。 「サメだ」 タケリが大声をあげた。その声で船の上の男たちが集まってくる。 「銛だ、銛!」 「大きい」 「イヒカ、竿!気をつけろ!」 丸木舟の上が騒がしくなる。 イヒカの額から汗が流れ落ちた。サメの命をかけた抵抗がイヒカの手に伝わってくる。 「イヒカ頑張れ!」 イヒカは足を踏ん張り、竿を握る手に力を込める。銛を持った男たちがイヒカの横で待機している。 水面に黒い影が近づいた。鋭く尖った銛が影めがけて投げ入れられる。同時にイヒカの体がぐいっと引っ張られる。 影が海の奥へと消える。 「ダメだ、もっと水面!寄せろ!」 イヒカとサメの体力勝負はイヒカに分が悪いように思えた。イヒカの体より大きいかと思われる海の生物は、そう簡単に命を差し出してくれそうもない。 無理か……。 イヒカの頭にそんな言葉がよぎる。 その時ふわりと体が軽くなった。水面にサメの体の一部が現れた。 「今だ!」 数本の銛がその一点に集中する。 「イヒカ!」 イヒカの体は丸木舟から離れ宙に浮いていた。見えていたサメの体が、また海の奥へと沈んで行く。 イヒカの体はそれを追って海へ潜る。 「イヒカ!竿!離せ!」 タケリの声が聞こえた。 ものすごい勢いでイヒカは海の奥へと引っ張られる。 銀色に光る小魚たちのトンネルの向こうに、サメの姿が見えた。それはまるでイヒカを海の世界へ誘う神のように見えた。 イヒカは竿を手放した。 心の中で祈りの言葉をつぶやく。 影は海の底に消えた。 水面に顔を出すと、丸木舟から歓声が上がった。半泣き顔のタケリにイヒカは手を振った。 舟から棒が差し伸べられ、イヒカはそれに向かって泳ぐ。塩風に混ざって、わずかに血の匂いがした。銛で傷つけられたサメの血だった。 「イヒカ!後ろ!」 タケリが叫んだ。 振り返るとさっきよりはるかに大きい巨大な影がイヒカに向かって来ていた。
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