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プロローグ
新緑が芽吹く栗林をイヒカは駆けた。風に混じって栗の木達のささやき声が聞こえる。
「船が来る!」
イヒカは叫んだ。
長く白い冬を超え、この日が来るのをずっと待っていた。
潮の香りが濃くなる。
「イワネ キネタチクサノ カキハヨ」
イヒカははやる気持ちをそのまま声にした。声は林の中を光のように駆け抜けた。どこかに潜んでいた鳥たちがいっせいに空へと羽ばたき、イヒカの声に一瞬静まり返った木々は、それに応えて風を起こした。
イヒカは両腕を左右に広げ風に乗った。
栗林を抜けると、そこには銀色に輝く海が広がっていた。
すでに浜には多くの人たちが集まっていた。狩りに行ったはずの男たちもいる。
沖に小さく五隻の丸木船が見えた。
「イヒカ」
膝まで海に浸かったタケリがイヒカを見つけて手招きをしている。イヒカはカラムシで編んだ服が濡れるのもかまわず海へと入った。
「どこからの船?」
「分からない。イト?イノシシの肉ある?」
タケリは生唾を飲み込んだ。
シマからの船だったらもっと後だろう。他の土地からの船だとしてももう少し先のはずだ。
イトだったらヒスイを積んでいる。ヒスイは女たちの中で一番人気の石だ。女たちが最初に持つヒスイのほとんどが男が女に求愛するときに贈られるものだ。ヒスイを持つということは相手がいるという証でもあった。
イヒカは三つ前の栗の収穫のとき、子を産める体になった。もういつ誰からヒスイをもらってもおかしくない。
だがイヒカは他の女たちのように髪を器用に結い上げたり、顔に化粧を施すより、海で漁をしたり、男たちについて狩りに行っている方が楽しかった。
狩りが得意な男たちは目と耳が驚くほど良かった。サンナイ一と言われる狩りの名人の男は、森のざわめきの中から微かなウサギの足音を聞き分け、遠くの海の僅かな色の濃淡で、そこに魚の群れがいることを知った。
イヒカは普段からよく男の子に間違われた。
髪は伸ばし放題のぼさぼさ、顔はいつも土埃で汚れて真っ黒だったので、それも仕方ない。服も男たちがよく着る足が二つに分かれたシンプルな物を好んだ。多くの女たちが着ている服は足が分かれておらず、スースーするし、丈も長めで狩りには向いていない。貝や石で作ったネックレスやブレスレットをつけるのも面倒臭い。
「イヒカ、イノシシの肉あると思うか?」
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